第一群  黒 蝶

診断不能、なのだそうだ。現代の医学では奇跡は解き明かせないということだろうか。

樋野麻衣子は、指先から徐々に体が黒蝶に変化する病に冒されている。病名はまだない。極めて希有も稀有、それもそうだろう。

「ありえない」、というのが白田真水の第一声だった。

しかし、目の前で彼女の指先が蠢いている。彼は目を疑った。黒蝶と指先の結合部分には、ちゃんと神経が通っていて、ある程度麻衣子の随意で動く。

だが、蝶は蝶の意志をもって動いているのだ。そして、ほんの少しずつだが、蝶だけが独立していく。

今、麻衣子には中指の第一関節から先がない。黒蝶となってどこかへ飛び立っていった。


「晩秋の蝶なんて、随分と感傷的じゃない」

黒峯羊子はそう言ってのけた。その時、真水はため息をついて、

「遺体ばかりを相手にしている君とは違うんだ。茶化すのはよしてくれないか」

そう言い返すのが精いっぱいだった。

「ね、白田センセ。私、どうなるの?」

何度目の問いかけだろう。麻衣子がどうなるのか、それは真水にもわからない。言わずもがな、現代医学ではどうしようもないのだ。なんと無力なのだろう。

治療法がないことを嘆いているのではない。それだけではなくて、奇病にかかった少女を、『どこにも行き場がない』という理由だけで精神科病棟に入院させた彼女の家族と、それを容認する社会に、真水は諦観の念を抱いている。

「私、おかしいのかな。あの人みたいに」

麻衣子がデイルーム(患者の日中活動場所)で看護師との会話の中で指さしたのは、もうずっとここに入院している青年だ。

名を、工藤征二と言う。妄想性人格障害と診断されている。かといって、征二が別人のようになって誰かと言い争ったり、暴れたりしているのを麻衣子は見たことがない。それは、主治医である真水も同じだった。

病名など、ただの名札だ。精神疾患にラベルを貼るのは、制度等の利用のための便宜にすぎない場合も多い。

指をさされた当の本人は、アルチュール・ランボーの詩集を読みふけっている。時折、指で何かを描くような仕草をし、ふっと笑う。

「樋野さん。それは工藤さんに失礼よ」

看護師にたしなめられても、麻衣子の気は晴れない。むしろ鬱ぐ一方である。

「私も一生ここにいるのかな? だったら、引きこもりの方が余程マシ。自分の家にいれるんだもん」

応対する看護師が困って言葉を探しているうちに、デイルームの奥から食事が運ばれてきた。

「あ、お昼ごはん」

麻衣子は普段は患部が見えないよう、手袋をしている。その指先が不自然に動いていても、それを気に留める者など、ここにはいない。


十一月。世界が冬に向かって一気に傾いて、多くの詩人が木枯らしに身を震わせながら言葉を紡ぐ季節。

「うぁ、あはははは!―――――うっ」

取り立てて騒ぎ立てることもないだろう。秋の次には冬が来て、冬に飽きたら春になる。その繰り返し。ただただ、彼は見送ることしかできない。

面影橋に佇んで、『それ』を凝視する影が一つ。目の前では、『いつもの』光景が広がっている。

見飽きた、などと言っては失礼かもしれない。こと被害者においては己の一部を奪われたのだ。そう、『襲われたという記憶』さえ。

「ごちそうさま」

真顔でそう言い、『被害者』から『恐怖』を奪い取ったのは、小湊浩之だ。

「あぁ、美味しいなー」

浩之はひとしきりその感情を味わって、

「ごめんね? でも、別にあなたを選んだ理由なんてないんだ」

足元に横たわる女性に、言い訳のように告げた。

「でも良かったね。もうこの人、『恐怖』を味わうこと、無いんだよ。幸せだろうねー。ね、そう思わない?」

いきなり水を向けられて、見物していた影は戸惑った。

「恐怖、ね。これは面白いや。身を守るためにあるってのに、度が過ぎればショック死する人もいるんだってね。面白いなー。うん、面白い」
「……今日は、もう戻る時間だぞ」
「そっか。わかった。あっという間だね。門限なんてバカらしいけど、まぁ、しょうがないよね。マイ・スイート・ホームが待ってる」
「それは嫌味か?」
「別にー」

浩之はニコリともせず言う。影はため息をついた。

「後片付けは俺がやる。間に合うように戻れよ」
「『帰れ』じゃなくて『戻る』ね」
「揚げ足を取るな」
「はーい。……あ」
「どうした」
「見て。川の水面」

浩之は視力がいい。それも、元は『奪った』ものなのだが、こんな淀んだ川の水面に、一匹だけ浮いている黒い蝶の死骸を見つけた。

「かわいそー」
「虫に憐れみは要らないだろ」
「誰にだって憐れみなんて要らないよ」
「それもそうだ。いいから、早く戻れ」
「ねぇ」
「なんだ」
「あれ、欲しい」


病棟のデイルームにあるテレビに、麻衣子のよく知らない法案に反対するデモ行進の映像が流れている。

「私もあれに参加したい」
「えっ」
「言ってみただけ」

驚く看護師の表情がおかしくて、麻衣子はいたずらっぽく笑った。

「もう。ビックリしたわ。樋野さん、もうすぐ消灯だけど、歯ぁ磨いた?」
「うん。でも、9時になんて眠れないよ」
「眠れないんじゃなくて、寝るの」
「厳しいなぁ」

などと言いながら、麻衣子は欠伸をする。と、不意に指先が激しく動き出した。

「……あ、やだ……」

麻衣子はとっさに両手を腹部に隠した。看護師はハッと息を飲んだ。

「今日の夜勤、白田先生だから。今すぐ呼ぶからね。大丈夫よ」
「……うん」

何も大丈夫なことはない。それをわかっていて麻衣子は頷いた。指先の動きはいよいよ激しくなって、手袋を破らんとする勢いだ。

「やだ」

麻衣子の目にうっすら涙が浮かぶ。看護師が駆けていって、ナースルームに向かって「白田先生!」と呼ぶ声がする。

麻衣子の指先は、人差し指の関節を一つ奪って、黒蝶へと変貌している。一見すると、指先に蝶が停まっているようにしか見えない。麻衣子は憎しみをこめて指先に力を込めた。蝶がバタバタと羽ばたきする。神経がまだ通っている証拠だ。

これならまだいい、一番嫌なのは、この形の整ってしまった蝶が自分から分離する瞬間だ。文字通り、千切れるように痛い。だから、麻衣子には医療用麻薬が処方されている。せめて痛みだけでも、感じずに済むように。

「樋野さん!」

真水が駆けよってくる。

「すぐに、痛み止めを――」
「注射は嫌」
「大丈夫、大丈夫だから」

だから、何も大丈夫なことなどはないのだ。尽くす手など無いのだから。真水は半ば強制的に、麻衣子に白い錠剤を飲ませた。これは即効性のはずだ。

「ああ」

麻衣子を強烈な眠気が襲う。本来ならば昂った神経を鎮めるためのものなのだ。

「ん――」

眩暈にも似た感覚で、意識を閉じる麻衣子。指先の蠢きも連動して止まる。

「……樋野さんを、お部屋まで連れてってあげてください」

真水は力なく看護師にそう言うと、カルテを記すために部屋に消えた。


翌朝、デイルームの患者同士のミーティングでは、昨晩の騒ぎについて話題になっていた。

「私たちの休養の邪魔」
「あの手袋、潔癖症か何か?」
「いつも気取っちゃってさ」

等々、患者の中からは心ない声も聞かれたが、

「ね、工藤君もそう思うでしょ」

同意を求められた征二は、

「茜色の悲痛な夜明けだけが、運命論を否定するんだ。俺はそう思う」

そう言ってくすくす笑うものだから、麻衣子の批判の急先鋒にいた女性患者は振り上げた拳の行き場を失って、

「また始まった」

と肩をすくめた。

当の麻衣子といえば、気まずさのあまり、病棟の外のベンチにいた。今日はよく晴れている。まだ多少くらくらするが、痛みはない。指先の蠢きも落ち着いている。

――どこにも、居場所なんてないの。

まるで思春期真っただ中の中学生みたいだ、と自嘲する。だが物理的な意味でもそうで、心理的な意味でもそうだった。居場所がない。そもそも、自分はこのまま黒蝶となってバラバラになってしまうかもしれない。

……悪くない。

「風邪を引くわよ。そんなとこでそんな恰好してたら」

麻衣子が振り向いた先には、ケーキの入った小さな箱を携えた黒峯羊子がいた。

「お茶でも、いかが?」
「羊子さん、どうせまた私を『観察』しにきたんでしょ」
「間違っていない。けど、当たってもいない。そんなところかしら」
「相変わらず、変なの」
「褒め言葉ね」
「うん」

羊子の提案で、外来の中に設えられている、患者が運営する喫茶店に入った。本来なら持ち込みはNGだが、そこは羊子があっさりと交渉を済ませてくれた。

「ここ、そんなに悪くないコーヒーが飲めるのよね。ありがたいわ」
「あれ、羊子さん紅茶の方が好きじゃなかったっけ」
「下手な場所では飲まないの」
「うっわ、ひどい表現」
「そんなことより、ほら」

羊子が箱を開けると、かわいらしく飾りつけされたモンブランとザッハトルテが並んでいた。

「美味しそう」
「どっちがいい?」
「モンブラン。羊子さん、ザッハトルテのイメージだから」
「どんなイメージよ」
「ビターな感じ?」
「何それ。もっと積極的な理由で選んでよ」
「いいのいいの、私、モンブラン好きだから」

二人のもとにコーヒーが運ばれてくる。麻衣子はにっこり笑ってモンブランのてっぺんの栗にフォークを突き刺した。

「体調はどう?」

麻衣子はモンブランの栗を頬張り、芝居がかった口調で言った。

「でた、『観察』!」
「茶化すなっての。純粋に心配してるんだから」
「うーん。まぁまぁかな」
「嘘。昨日また『発作』があったでしょう」
「あ、なんだ、知ってるの?」
「白田が言ってたわ」
「個人情報の漏えいだな。許せん」
「看過してよ。モンブランに免じて」
「まぁ、美味しいから、許す」

羊子はアハハ、と笑った。

「ついでにカルテも拝見するわよ。いい?」
「どうせ職権でしょ。いいも悪いもないよ」
「それもそうね」

麻衣子はモンブランを平らげると、長く息を吐いた。

「私、これからどうなるのかな」
「それ、何度目の質問?」
「もうわからない。どうでもいいやって、最近は思うの。でも、思うんだよね。『どうなるんだろう』って」
「そうね」

羊子が相槌を打ったところで、彼女の携帯が鳴った。

「はい、黒峯ですが――え?」
「どうしたの?」

電話に応じる羊子の表情が硬くなる。電話を切った羊子は、流麗な仕草で立ち上がった。

「ごめんなさい、麻衣子ちゃん。急用が入っちゃった」
「いいよ。私は別に」
「ごめんなさいね。観察は、また今度にするわ」
「いつでもどうぞ」


神田川で、希少な種類の蝶の死骸が見つかったという。しかも、半分に綺麗に切り取られた形で。

車を運転しながら、羊子は舌打ちした。

青山通りを抜けて、警視庁管轄の『白い建物』へ入る。

実物を見た羊子は、開口一番、

「人為的ね」

と吐き捨てた。

「切断面が綺麗すぎる。許せない」
「許せない、ね。ヒトの遺体に対してはそんなこと言わないのに、君は本当に虫が好きなんだね」

苦虫を噛み潰したような表情で、鑑識の青野圭介はため息をついた。

羊子は彼のそんな様子に構うことなく、蝶の半分になった体を観察している。ピンセットで持ち上げると、彼女の指先の微かな震えを反映してふるふると震える。

「綺麗すぎるわ、本当に」
「こんな時期に黒蝶か。珍しくないか?」
「『珍しい』わね、確かに」

圭介は、羊子の微妙なニュアンスの違いを察した。

「まさか、これ、件の『黒蝶』?」
「ご名答。たぶんね」
「そんな。ていうか『たぶんご名答』って随分と適当じゃないか?」
「別にどうでもいいでしょ」
「まぁ、いいんだけど。どうしてそんなもんが、遺体と一緒にあったんだ――あ」

羊子はじろりと圭介を睨んだ。

「口を滑らすのにもセンスがいるのよ。いくらなんでも作為的すぎるじゃない?」
「いや、それは別に、その」
「これだからバカは嫌」
「ひどっ……!」

圭介は己のあたふた加減を誤魔化すために、不器用に深呼吸した。

「で、誰の遺体?」
「躊躇なく突っ込んでくるな」
「仕向けたのはそっちでしょ」
「まぁ、アハハ」

圭介は演技が下手だ。というか、演技が上手な人間など本当に一握りなのだ。よく演技と虚構を同一視する者がいるが、演じることと嘘をつくことは、似ているようでまるで違う。

「一応名前を伝えておくよ。名前は日比野ひかり。34歳の主婦」
「主婦?」
「うん、まぁ」
「主婦が、なんで神田川のほとりに?」

羊子のシンプルな質問に、圭介は眉間にシワを寄せた。

「自殺、にしてはどうも不自然でね。自分で自分の首を絞めているんだよ」
「じゃあ自殺、になるのかしら」
「うーん。周囲には『死にたい』と漏らしてたそうだけど」
「よくある話じゃない」
「そうかなー……」

圭介が首を傾げながら、ドアノブに手をかける。

「検死、どれくらいかかりそう?」
「何とも言えないわ。会わせて」
「『見せて』じゃなくて『会わせて』ってところが、君らしいよホント」
「あら、無神経なバカ以外には、私は常に敬意を払っているわよ」
「え、俺には?」

羊子はニヤッと笑っただけで、そのまま背を向けて足早に去って行った。圭介は軽く苦笑して、ため息をついた。


「オトモダチ、卒業か」

皮肉混じりに麻衣子は言った。

窓辺では征二が、

「……羊が1211匹、羊が1212匹、……」

夜、睡眠薬無しで眠るために昼間から羊を数えている。これは、ここではよくある光景なのだ。。

退院の日を迎えた20歳くらいの女性が、家族に迎えられている。これももう、何度見たかわからない「おめでたい」シーン。

最初は、ひどく心が痛んだ。自分には家族がいるのに、迎えには来ない。決して来ない。

焼けるような痛みに悲鳴を上げ、指先が黒蝶に変貌した娘を、父は蔑んだような、或いは母は慄いたような、複雑な表情で見下げていた。

あの顔は、一生忘れない。

ベッドが空いたら、すぐに「後任者」(これも麻衣子の皮肉である)が現れるのが、不思議でならない。

世の中みんな、そこそこ病んでいるとは思うんだ、実際、「病んでる」って表現だって、腐るほど使われているし。けれど、ここに来る人々は本当に病んでいると思う。麻衣子の目には、征二の言動はやはり不可思議に映るし、他の患者にしてもそうだ。

特段、同情するわけではない。ただ、「普通」とか「異常」の定義を世間に問いたくなる。

ここにいる人々は一様に「異常」のレッテルを貼られて、もう何年も、いや聞いた話では何十年も病棟で過ごしている人がいるという。

帰る場所がないのだ。

それは、麻衣子も同じだろう。ただ、「何十年後」が自分にあるのかは誰にもわからない。

「樋野さん」

呼ばれて振りかえると、主治医の真水がファイルを持ってこちらを見ている。

「あ、白田センセ。今日は私、問診じゃないでしょ?」
「まぁ、そうなんだけど……昨日のこともあるし」
「あ、そっか」

麻衣子は勘がいい。口ごもった真水を見て状況を理解した。だから、

「羊子さんから、何か訊いたんですか?」

すぐにその名前を出した。真水は図星、といった表情で、

「何て言ったらいいのかわからないんだけど。樋野さん、あなたの一部が見つかったって」

それを聞いた麻衣子はケラケラ笑った。

「何それ。なんだかバラバラ殺人事件みたい」
「ごめんね。なんて表現したらいいのか、わからなくて」
「で、何処で、ですか?」
「神田川の水面に浮いてたらしいんだ。黒峯先生の言葉を借りれば、『異常なまでに美しい』そうだよ」
「そう」
「大きさは、それと同じくらいだって」

真水の言う「それ」とは、麻衣子の左手の指先に密やかに蠢く蝶を指している。

「飛んでったんだ、ね。私の一部が」

真水は頷き、

「しかもね、半分に切断されていたそうだよ」
「え?」
「だから、蝶は誰かが半分に―――」
「――」

一瞬の沈黙が降りた後、空気が凍っていくのを真水は肌で感じた。しまった、と思った時にはもう遅く、

「あああっ!」

しかし、叫んだのは麻衣子ではない。近くの窓際で羊を数えていた征二だ。

慌てて看護師が傍による。

「工藤さん、どうしました?」

真水も多少驚いて(多少で済んだのは、ここが「そういう場所」だという認識が彼にあったからだろう)、言葉を止めた。確かに、こんな話をデイルームでしてしまった自分の無神経さを、反省すべきかのかもしれない。

麻衣子と言えば、暗い表情で征二を見やっている。それもそうだろう、飛び立ったとはいえ、自分の一部が誰かに切断されたなんて、気分のいい話ではない。

案の定、征二は、真水をじろりと睨んだ。

「安易な運命論で裂かれていいコラージュなんて何処にもないんだ。俺は、羊を1265匹まで数えた。しかしその徒労が安眠を担保するか? 俺は言う、確かに1265匹は数えきった」
「工藤さん、落ち着いて」

看護師が制止しようとするが、征二は打って変わってニヤッと笑った。

「1266匹目は何処へ行ったと思う? そいつがやったんだ。黒蝶を切り裂いたのは1266匹目さ」

麻衣子の表情が硬くなる。征二は尚も呪詛のように言葉を漏らし続ける。

「子羊は迷った挙句に迷いを殺すんだ。ちょうど秋の星座がそうであるように、フォウマルハウトがどこまでも孤独であるように」

高らかに指で弧を描いた征二は、

「丸い月を食べたの、だーれだ?」

そう言って、「アハハハハハ!」と高笑いしたかと思えば、

「あっ……ぁ」

電池の切れた玩具のように、ぴたりと挙動を止めた。

それを見ていた真水は首を軽く横に振って、麻衣子に向かって

「ごめん」

としか言えなかった。麻衣子はこぶしをぎゅっと握りしめた。

「……変なの。患者に医者が謝るなんて、聞いたコトないよ」
「医者だろうがなんだろうが、謝るべき時には謝るべきでしょう」

麻衣子はとても素直だ。だから、

「センセ。別にセンセの所為じゃないんだけど、ちょっと部屋に戻ってもいいですか」

誰にも憚らず泣きたいんで。

「ああ、引きとめて悪かったね」


翌朝、征二は鉛筆を片手にデイルームの机に言葉を並べ記していた。

「あ、こら工藤さん。テーブルに直接書いちゃだめって言ってるでしょう」
「……」

征二は夢中だ。まるで子どもをあやすような口調でベテランの看護師は、

「工藤さーん。ダメですよー」

その口調が気に障ったのか何なのか、征二はふと顔を上げて、目を細めた。

「……邪魔しないでください」
「ここは皆が食事する場所でもあるのよ。落書きならいくらでも紙をあげるわ」
「……黒蝶」
「えっ」
「世の果てに地平線を辿る孤独。僕はどこまでもいつまでも待っている」

看護師は肩をすくめた。この調子では、まともに対応する方が、無理がある。

「あとで、消しますからね!」

そう言い残して、看護師は諦めて去った。

征二は自分の書いた文章を、厳かに読み上げ始めた。

「黒蝶は、軋む扉を開けた者の密やかな過ち。贖罪とは、第一関節を捧げて、オルタンスの嘘を暴くこと。夢を見た、その罰を誰にも問われることはない幸福を捧げる。迎える冬に屠られた秋風が、遺言を僕に浸して、確かに逝くのだ」

気が済んだのか何なのか、征二は鉛筆を置いて窓辺に歩を向けた。曇天を見上げ、ほとんど悲鳴のようにつぶやいた。

「空に引き裂かれるんだ、僕らは――」

その日、それから征二が口を開くことはなかった。

秋は儘、深まって冬へと化けていく。

第二群 聖 夜 へつづく