病棟のデイルームにあるテレビに、麻衣子のよく知らない法案に反対するデモ行進の映像が流れている。
「私もあれに参加したい」
「えっ」
「言ってみただけ」
驚く看護師の表情がおかしくて、麻衣子はいたずらっぽく笑った。
「もう。ビックリしたわ。樋野さん、もうすぐ消灯だけど、歯ぁ磨いた?」
「うん。でも、9時になんて眠れないよ」
「眠れないんじゃなくて、寝るの」
「厳しいなぁ」
などと言いながら、麻衣子は欠伸をする。と、不意に指先が激しく動き出した。
「……あ、やだ……」
麻衣子はとっさに両手を腹部に隠した。看護師はハッと息を飲んだ。
「今日の夜勤、白田先生だから。今すぐ呼ぶからね。大丈夫よ」
「……うん」
何も大丈夫なことはない。それをわかっていて麻衣子は頷いた。指先の動きはいよいよ激しくなって、手袋を破らんとする勢いだ。
「やだ」
麻衣子の目にうっすら涙が浮かぶ。看護師が駆けていって、ナースルームに向かって「白田先生!」と呼ぶ声がする。
麻衣子の指先は、人差し指の関節を一つ奪って、黒蝶へと変貌している。一見すると、指先に蝶が停まっているようにしか見えない。麻衣子は憎しみをこめて指先に力を込めた。蝶がバタバタと羽ばたきする。神経がまだ通っている証拠だ。
これならまだいい、一番嫌なのは、この形の整ってしまった蝶が自分から分離する瞬間だ。文字通り、千切れるように痛い。だから、麻衣子には医療用麻薬が処方されている。せめて痛みだけでも、感じずに済むように。
「樋野さん!」
真水が駆けよってくる。
「すぐに、痛み止めを――」
「注射は嫌」
「大丈夫、大丈夫だから」
だから、何も大丈夫なことなどはないのだ。尽くす手など無いのだから。真水は半ば強制的に、麻衣子に白い錠剤を飲ませた。これは即効性のはずだ。
「ああ」
麻衣子を強烈な眠気が襲う。本来ならば昂った神経を鎮めるためのものなのだ。
「ん――」
眩暈にも似た感覚で、意識を閉じる麻衣子。指先の蠢きも連動して止まる。
「……樋野さんを、お部屋まで連れてってあげてください」
真水は力なく看護師にそう言うと、カルテを記すために部屋に消えた。