翌朝、デイルームの患者同士のミーティングでは、昨晩の騒ぎについて話題になっていた。
「私たちの休養の邪魔」
「あの手袋、潔癖症か何か?」
「いつも気取っちゃってさ」
等々、患者の中からは心ない声も聞かれたが、
「ね、工藤君もそう思うでしょ」
同意を求められた征二は、
「茜色の悲痛な夜明けだけが、運命論を否定するんだ。俺はそう思う」
そう言ってくすくす笑うものだから、麻衣子の批判の急先鋒にいた女性患者は振り上げた拳の行き場を失って、
「また始まった」
と肩をすくめた。
当の麻衣子といえば、気まずさのあまり、病棟の外のベンチにいた。今日はよく晴れている。まだ多少くらくらするが、痛みはない。指先の蠢きも落ち着いている。
――どこにも、居場所なんてないの。
まるで思春期真っただ中の中学生みたいだ、と自嘲する。だが物理的な意味でもそうで、心理的な意味でもそうだった。居場所がない。そもそも、自分はこのまま黒蝶となってバラバラになってしまうかもしれない。
……悪くない。
「風邪を引くわよ。そんなとこでそんな恰好してたら」
麻衣子が振り向いた先には、ケーキの入った小さな箱を携えた黒峯羊子がいた。
「お茶でも、いかが?」
「羊子さん、どうせまた私を『観察』しにきたんでしょ」
「間違っていない。けど、当たってもいない。そんなところかしら」
「相変わらず、変なの」
「褒め言葉ね」
「うん」
羊子の提案で、外来の中に設えられている、患者が運営する喫茶店に入った。本来なら持ち込みはNGだが、そこは羊子があっさりと交渉を済ませてくれた。
「ここ、そんなに悪くないコーヒーが飲めるのよね。ありがたいわ」
「あれ、羊子さん紅茶の方が好きじゃなかったっけ」
「下手な場所では飲まないの」
「うっわ、ひどい表現」
「そんなことより、ほら」
羊子が箱を開けると、かわいらしく飾りつけされたモンブランとザッハトルテが並んでいた。
「美味しそう」
「どっちがいい?」
「モンブラン。羊子さん、ザッハトルテのイメージだから」
「どんなイメージよ」
「ビターな感じ?」
「何それ。もっと積極的な理由で選んでよ」
「いいのいいの、私、モンブラン好きだから」
二人のもとにコーヒーが運ばれてくる。麻衣子はにっこり笑ってモンブランのてっぺんの栗にフォークを突き刺した。
「体調はどう?」
麻衣子はモンブランの栗を頬張り、芝居がかった口調で言った。
「でた、『観察』!」
「茶化すなっての。純粋に心配してるんだから」
「うーん。まぁまぁかな」
「嘘。昨日また『発作』があったでしょう」
「あ、なんだ、知ってるの?」
「白田が言ってたわ」
「個人情報の漏えいだな。許せん」
「看過してよ。モンブランに免じて」
「まぁ、美味しいから、許す」
羊子はアハハ、と笑った。
「ついでにカルテも拝見するわよ。いい?」
「どうせ職権でしょ。いいも悪いもないよ」
「それもそうね」
麻衣子はモンブランを平らげると、長く息を吐いた。
「私、これからどうなるのかな」
「それ、何度目の質問?」
「もうわからない。どうでもいいやって、最近は思うの。でも、思うんだよね。『どうなるんだろう』って」
「そうね」
羊子が相槌を打ったところで、彼女の携帯が鳴った。
「はい、黒峯ですが――え?」
「どうしたの?」
電話に応じる羊子の表情が硬くなる。電話を切った羊子は、流麗な仕草で立ち上がった。
「ごめんなさい、麻衣子ちゃん。急用が入っちゃった」
「いいよ。私は別に」
「ごめんなさいね。観察は、また今度にするわ」
「いつでもどうぞ」