「オトモダチ、卒業か」
皮肉混じりに麻衣子は言った。
窓辺では征二が、
「……羊が1211匹、羊が1212匹、……」
夜、睡眠薬無しで眠るために昼間から羊を数えている。これは、ここではよくある光景なのだ。。
退院の日を迎えた20歳くらいの女性が、家族に迎えられている。これももう、何度見たかわからない「おめでたい」シーン。
最初は、ひどく心が痛んだ。自分には家族がいるのに、迎えには来ない。決して来ない。
焼けるような痛みに悲鳴を上げ、指先が黒蝶に変貌した娘を、父は蔑んだような、或いは母は慄いたような、複雑な表情で見下げていた。
あの顔は、一生忘れない。
ベッドが空いたら、すぐに「後任者」(これも麻衣子の皮肉である)が現れるのが、不思議でならない。
世の中みんな、そこそこ病んでいるとは思うんだ、実際、「病んでる」って表現だって、腐るほど使われているし。けれど、ここに来る人々は本当に病んでいると思う。麻衣子の目には、征二の言動はやはり不可思議に映るし、他の患者にしてもそうだ。
特段、同情するわけではない。ただ、「普通」とか「異常」の定義を世間に問いたくなる。
ここにいる人々は一様に「異常」のレッテルを貼られて、もう何年も、いや聞いた話では何十年も病棟で過ごしている人がいるという。
帰る場所がないのだ。
それは、麻衣子も同じだろう。ただ、「何十年後」が自分にあるのかは誰にもわからない。
「樋野さん」
呼ばれて振りかえると、主治医の真水がファイルを持ってこちらを見ている。
「あ、白田センセ。今日は私、問診じゃないでしょ?」
「まぁ、そうなんだけど……昨日のこともあるし」
「あ、そっか」
麻衣子は勘がいい。口ごもった真水を見て状況を理解した。だから、
「羊子さんから、何か訊いたんですか?」
すぐにその名前を出した。真水は図星、といった表情で、
「何て言ったらいいのかわからないんだけど。樋野さん、あなたの一部が見つかったって」
それを聞いた麻衣子はケラケラ笑った。
「何それ。なんだかバラバラ殺人事件みたい」
「ごめんね。なんて表現したらいいのか、わからなくて」
「で、何処で、ですか?」
「神田川の水面に浮いてたらしいんだ。黒峯先生の言葉を借りれば、『異常なまでに美しい』そうだよ」
「そう」
「大きさは、それと同じくらいだって」
真水の言う「それ」とは、麻衣子の左手の指先に密やかに蠢く蝶を指している。
「飛んでったんだ、ね。私の一部が」
真水は頷き、
「しかもね、半分に切断されていたそうだよ」
「え?」
「だから、蝶は誰かが半分に―――」
「――」
一瞬の沈黙が降りた後、空気が凍っていくのを真水は肌で感じた。しまった、と思った時にはもう遅く、
「あああっ!」
しかし、叫んだのは麻衣子ではない。近くの窓際で羊を数えていた征二だ。
慌てて看護師が傍による。
「工藤さん、どうしました?」
真水も多少驚いて(多少で済んだのは、ここが「そういう場所」だという認識が彼にあったからだろう)、言葉を止めた。確かに、こんな話をデイルームでしてしまった自分の無神経さを、反省すべきかのかもしれない。
麻衣子と言えば、暗い表情で征二を見やっている。それもそうだろう、飛び立ったとはいえ、自分の一部が誰かに切断されたなんて、気分のいい話ではない。
案の定、征二は、真水をじろりと睨んだ。
「安易な運命論で裂かれていいコラージュなんて何処にもないんだ。俺は、羊を1265匹まで数えた。しかしその徒労が安眠を担保するか? 俺は言う、確かに1265匹は数えきった」
「工藤さん、落ち着いて」
看護師が制止しようとするが、征二は打って変わってニヤッと笑った。
「1266匹目は何処へ行ったと思う? そいつがやったんだ。黒蝶を切り裂いたのは1266匹目さ」
麻衣子の表情が硬くなる。征二は尚も呪詛のように言葉を漏らし続ける。
「子羊は迷った挙句に迷いを殺すんだ。ちょうど秋の星座がそうであるように、フォウマルハウトがどこまでも孤独であるように」
高らかに指で弧を描いた征二は、
「丸い月を食べたの、だーれだ?」
そう言って、「アハハハハハ!」と高笑いしたかと思えば、
「あっ……ぁ」
電池の切れた玩具のように、ぴたりと挙動を止めた。
それを見ていた真水は首を軽く横に振って、麻衣子に向かって
「ごめん」
としか言えなかった。麻衣子はこぶしをぎゅっと握りしめた。
「……変なの。患者に医者が謝るなんて、聞いたコトないよ」
「医者だろうがなんだろうが、謝るべき時には謝るべきでしょう」
麻衣子はとても素直だ。だから、
「センセ。別にセンセの所為じゃないんだけど、ちょっと部屋に戻ってもいいですか」
誰にも憚らず泣きたいんで。
「ああ、引きとめて悪かったね」