最終群 一 緒

「まさか―――?」

黒蝶はやがて、一か所に集中し始めた。黒々しい塊になったかと思えば、あっけにとられる真水と浩之の目の前で、一糸纏わぬ姿の麻衣子が現れた。

奇跡の人為的発生。愚かなる矛盾。

「樋野さん……!」
「センセ。私、こんなふうに、なっちゃった……」
「麻衣子ちゃん!」

羊子が悲鳴を上げて、慌てて着ていたコートを麻衣子に被せようとする。

しかし、麻衣子の姿はそこに在るようで、存在が安定しないようなのだ。

「どうして――」

羊子たちが目を瞠るも、麻衣子はいたって冷静だ。

「黒蝶は死の象徴なんでしょう。このまま私がバラバラになったら、ようやく優しい春が来るんだよ」
「ダメよ、麻衣子ちゃん、ダメ――」

麻衣子は微笑む。

「いいの。ヨーコさん、ありがと。あの店のフレンチ、とっても美味しかった」
「樋野さん、どういうことなんですか!?」

真水がようやく声をあげる。

「存在を否定された存在が、そのレーゾンデートルをついに奪われた。ただそれだけ……。否が応でも、季節は巡るでしょう? この閉じ込められた冬は、箱庭からの解放によってのみ、春を知るのだから」

戸惑う三人。だが、浩之だけは、

「笑顔……! 今度こそ君からもらうよ……!」

目を爛々とさせている。

「無理よ。あなたは笑えない。たとえ私から奪ったとしても、決して笑えない」
「なんでだよ! こんなに俺は、求めてるのに―――」
「あははっ、バカみたい!」

悲痛な浩之と対照的に、麻衣子はケタケタ笑いだした。

「何が可笑しい」
「可笑しいも何も。だって、あはは、超笑えるよホント」

羊子は眉をひそめて、

「麻衣子ちゃん……?」
「ヨーコさん、白田センセ。ここ、笑うとこだよ」
「は?」
「笑ってよ。笑って、私を送り出してよ」
「ちょっと麻衣子ちゃん、それ、どういう意味?」

麻衣子はその不安定な存在感からは想像もつかない程の笑い声を上げながら、

「もうすぐ春が来る。そうしたら私は、『彼ら』に降り注いで消えるの。ね、どこのファンタジーだよって感じじゃない? 可笑しいでしょう、まったくもって」
「消える、ですって―――」

羊子はその持てる秀麗な頭脳で、瞬時に理解した。理解してしまった。

奇跡が目の前で起きている。

奇跡には意味と価値がない。

いわずもがな、永遠になど。

麻衣子は目に涙すら浮かべ、ふわふわりと漂いながら、

「季節は容赦なく巡るよ。誰にも止められない。私は黒蝶になって消えるだけ。ねぇ、あなたは?」

いきなり水を向けられて、浩之は硬直した。麻衣子の言葉には一片の躊躇いも、優しさも無い。

「笑ったって、意味がないでしょう。そもそもあなた自体に『意味がない』んだから!」
「うるさい! うるさい、うるさい、うるさい!」
「何度でも言うよ。あなたには意味がない。居るだけ無駄。犠牲者が増えるだけ」

非情で辛辣だが、事実だ。事実であるがゆえに、浩之の表情はみるみる強張っていく。

「黙れ!」
「せめて最期くらいは、もう少し楽しく迎えない?」
「俺は消えない」
「往生際が悪いなぁ。あ、文字通りだね!」
「もう決めた……お前から、何もかも奪ってやる!!」

感じない筈の『怒り』を浩之は覚えた。不完全な永遠の綻び、とでも言おうか。

「好きにしていいよ。できるものならね」

麻衣子はニンマリ笑う。浩之は侮辱されたと感じ、怒りのままに麻衣子に突進した。

「やめろ!」

間に飛び込んだのは俊一だ。

「頼む、もうやめてくれ、ヒロ。俺が間違ってた。俺たちは間違ってた!」
「シュンまで、なんで? もう誰も、誰も――――」

俺の存在を、肯定してくれないの?

麻衣子は宣託を述べるように、静謐に言葉を紡ぐ。

「私は春にならなければならないし、春になりたい。あの人が命を賭して冬を、この季節を葬ってくれたから」
「あの人、って、もしかして」

俊一は、ぽつりと呟いた。

「………征二のことか?」
「優しい人だった。誰にも理解されなかっただけ。今ならわかる」

優しい人だった。

俊一は、その言葉に、一縷の慰めを得た気がした。最期の最期に、弟の優しさが誰かに伝わった。

あいつの人生には、ちゃんと意味があったんだ、と。

「俺は――」

浩之が口を開く。

「それでも、ここに、居たい」

麻衣子は深呼吸の様な仕草をして、ふわっと舞った。

「この季節は、もうすぐ逝くよ。春が来る。春になる。彼が否定した運命論は、あなたの眠りでその過ちを証明されるの」

俊一は心からいたたまれない気持ちになった。浩之が欲しいのは、居場所。魂の還る場所。

『組織』によって歪められ、地球に還れなくなった魂の安息を求め、奪うことでしか表現できない。

「大丈夫か

麻衣子はふわりと微笑む。

「あなたの居場所は、此処だから」
「え―――」
「おいで」

子どもを手招くように、散々拒絶してきた浩之を、受け入れようとする麻衣子。浩之は怖気付いてしまう。

「でも……」
「怖くないよ。痛くないよ。大丈夫だよ」

不思議な共鳴現象とでも言うべきなのだろうか。

浩之の指先がいよいよ麻衣子に触れたその時、またたく間に、浩之の肉体の『止められていた時間』が動き出し、一気に朽ち果てた。

「あっ」

浩之はそう漏らすのが精一杯で、恐怖も、痛みも、幸福すら感じずに、麻衣子に―――正確には黒蝶の群れに―――吸い込まれるようにして消えていった。

「ヒロ!」

思わず叫んだのは、俊一だ。

「すまない………!」

しかし、その声は浩之には二度と聞こえない。だが、

「大丈夫だってば」

麻衣子は凜として告げる。

「ちゃんと、還れるから。居場所、あるから。彼にも、ちゃんと、届いているから」
「ヒロ…………」

俊一は、その場にうずくまってしまう。

「ごめんな。ごめん。本当に……ごめん」
「違うなぁ」

浩之を吸い込んだ麻衣子は、俊一に向かってピースサインを作った。

「こういうときはさ、『ありがとう』じゃない?」

堪らなくなって、羊子は麻衣子に走り寄った。

「麻衣子ちゃん……!」

抱きしめたくても、すでに麻衣子は 『上手に存在していない』。羊子の両腕は、空を切るばかりだ。

「ありがとう、ヨーコさん。大好きだよ」
「ダメよ、そんな簡単に、あなたは逝ってはダメ」
「死なないよ、私。消えるだけ。ちゃんと『居る』からね」

羊子は己の無力さを呪った。

時が来ただけ。季節が巡っただけ。―――それだけ。

救うだなんて、驕りだった。認めたくなかった。不可能を突き付けられるのが怖かった。つまり、自分は、弱かった。

「――うっ」

羊子の目頭が熱くなる。ところが、その羊子の肩を優しく叩いた。

「そうだね」

真水が、ゆっくりと微笑んだ。

「今、きっと僕らはとびきり不思議で可笑しい経験をしているんだろうね。よくわかんないけどさ、笑おうよ」
「白田……」
「樋野さんも、もう無理しないでいいんだよ。僕らはいつでも、いつまでもあなたを知っているし、感じることができるってことでしょう。だって、樋野さんは、春そのものになるんだから」

麻衣子の人体としての存在確率が、急速に低下していく。

「…………ありがと、センセ」
「うん」

僕は、誰も救えないし、そんなつもりも無い。悲しいことは悲しいと、頬を伝う涙が証明済みだ。だから、せめて、笑おう。笑って、この光景を見届けよう。

「じゃあ、また、今度ね」

じゃあ、また、今度ね。

不確かで、でも固い約束。春は必ず、やってくる。

少女は、春になる。

こんなに滑稽で、美しいことに出会えて、僕は―――――

「幸せ、かなぁ」

麻衣子の口元が、ふわりと緩んだ――――その一瞬を見逃さなかったのが、羊子にとっても、それこそ救いだっただろう。少女は、最期の最期に、本当に笑うことができたのだから。その口元は、こう動いた。

「大好きだよ、――――――」

真水、羊子、俊一、その場にいた三人の視界を、膨大な量の黒蝶が覆った。

しかしそれもほんの刹那、黒蝶たちは暗闇の曇天の夜に消えていく。

「あぁ」

と声を出したのは、一体誰だっただろう。

「――綺麗だ」

そう呟いた真水に、羊子は涙をぽろぽろ零しながら、

「ええ……ええ、そうね」

嗚咽するばかりであった。


秋の次には冬が来て、冬に飽きたら春になる。その繰り返し。ただただ、彼らは見送ることしかできない。

それでも、遺された者達には「生きていく」という使命がある。たとえ誰がどこで嗤おうが、貶そうが、彼らはその使命を果たす為に、永遠も奇跡も、その存在を信じない。

あれからも真水は相変わらず、多忙な日々を送っている。そんな毎日の間隙にも、趣味が一つ増えた。道端の草花の名を覚えることだ。今まで、見向きもしなかったけれど、

「あ、オオイヌフグリだ」

春の訪れを予感させる、愛らしく小さな青い花びら。

「こっちは、エゾエンゴサク、ね」

この春から真水のもとに研修で入った若い研修医は、首を傾げた。

「精神科医療に、花の名前なんて、知識として必要ですか?」
「さあ、どうだろうね」

見上げた空は、突き抜けるような青空。

「春を知らないここの人たちに、いつか伝えたいんだ」
「何をです?」
「約束だから。春は、必ずやってくるって」

射し込む日差しは、少女の微笑みのように柔らかい。


羊子の日常は、遺体相手の割に、相も変わらず青野との漫才の様なやりとりが続いている。

「よし、わかった。回転寿司30皿で手を打とう」
「厚労省と公安へのハッキングよ? せめて50皿は食べなさい。金皿許可」
「え? いいの?」
「あんたのアタマと胃袋は、どこまで平和なの……」


俊一といえば、新学期になってもやはり、変わらず教鞭を取っている。

しかし、最近になって、女子生徒たちから若干茶化されるような雰囲気ではあったが、

「なーんか、工藤先生、とっつきやすくなったっぽくない?」
「冗談も言うようになったよね。割と寒いけど」
「この調子で中間テストも簡単になんねーかなー」
「いや、それ無理っしょ。工藤先生の日本史、マジ鬼だもん」

等々、噂されているらしい。悪い気は、しない。

月命日には、弟の墓参りへ行くのが習慣になった。


こうして、地球は今日も、尊い命を運びながら、廻っている。『組織』が、どこでどう暗躍しようが、地球の知ったことではない。いわずもがな、彼らの預かり知るところでもない。

誰にも等しく、季節は巡る。それが青年の叫びだったり、少女のため息だったりすることを知る者は少ない。

きっと、それでいいのだ。彼らは、いつだって、いつまでも、地球に還って共に『居る』のだから。

自分は無力だ。それを知ることができたから、今日も僕は、不器用に笑ってみせるんだ。

そう、歩き続けるのだ。時として、強い雨風に立ち向かいながら。

「先生。私の居場所は、何処ですか?」

診察で、真剣にそう問いかける患者は非常に多い。もしかしたら、誰もが、居場所を求めて苦しんでいるのかもしれない。

けれど、『彼ら』が教えてくれた。居場所とは、魂の安息の地。即ち、『今、ここに居る場所』だと。

面影橋に舞い落ちた桜の花びらを二、三枚、手で拾った真水は、それをそっと神田川に向かって散らし、晴れやかな春の空に向かって、

「………ありがとう」

それに応える様に、優しい春風がふうっと吹いた。