第四章 まさか

USBメモリを自分のノートパソコンに挿入する瞬間、微かな罪悪感を覚えた。しかし、それ以上の高揚感が僕の手を止めさせなかった。

保護ファイル パスワードを入力してください

とだけ表示されたダイアログボックスに、僕は最初にkeishichoと打ち込んだ。当然のごとく違った。それから、若宮香織のイニシャルだとか、好きなブランドだとか、好きそうな色だとか、誕生日だとか、そういった類の単語を入れては〈パスワードが違います〉とエラー表示されるのを見続けた。

苛立ちはなかった。ただ、妙な焦りがあった。自分はなぜここまで必死になってこのUSBメモリのデータを見ようとしいているのだろう、と。

時刻は真夜中の2時半を過ぎていた。明日、いやもう今日だ、いい加減に寝なくてはならない。しかし、鼻先にニンジンをぶら下げられた競走馬のごとく僕は、キーボードに向かう指を止める術を知らなかった。

若宮香織の考えそうなことを想像して、自分なりに必死にパスワードを模索し続けているうち、夜が明けてしまった。

朝焼けの光が窓から差し込んできたので、僕は観念した。ノートパソコンを閉じると、少しでも仮眠をとろうと机にそのまま突っ伏した。

夢を見た。夢に間違いなかった。なぜなら僕は学生服姿だったし、季節も夏だったから。部活動で帰りが遅くなり、自転車がパンクしてしまったので、それを推しながらとぼとぼと歩いている。

いつも通っている公園の裏入口に、唐突に重い気配を感じた。昼間の草いきれの名残が漂うなか、生い茂る野草に囲まれて、なにかが存在していた。

人だ。人が倒れている。僕は驚いて自転車を倒し、急いで駆け寄る。だが、僕の目には視界に入れてはいけないものが入ってきてしまった。

倒れていた女性は絶命していた。それどころか、はだけた胸元には大きな裂傷があり、そこから流れ出たであろう血はほとんど地面に吸い取られていた。半目を開いている女性の死に顔と裂傷が網膜に焼き付く。

ヒグラシが鳴いている。まるで僕を責めるみたいに。そう、あれは忘れもしない、確か今から15年前の8月最後の日の出来事――

僕が冷や汗とともに目を覚ますと、土曜日の午前10時を過ぎた頃だった。

まさか、そんな。いや、「まさか」はまさかの瞬間に訪れるから「まさか」なのだ。僕はぼさぼさの髪の毛もそのままに、すぐにノートパソコンに向かうとパスコードとして「20040831」と打ち込んだ。

Successfully unlocked password.

そう表示されたので、僕は脱力した。

あの子――若宮は、なにをどこまで知っているのだろう。僕の性癖やこの日付のことは知っているらしい。だったら、「あのこと」も知っているのだろうか?

あの日、惨殺死体の第一発見者となった僕が、帰宅してすぐに及んだ行為のことも。


台所から母親が夕飯を報せても、あの日、僕は自室から出ることができなかった。全身が心臓になってしまったみたいに脈打って、汗もひどく噴き出していた。僕の脳裏には、あの死体の大きな裂傷と生々しい断面が鮮やかに蘇っていた。

それが異常なことかどうかなんて、二の次、三の次だった。

僕はあの日、自室の壁にもたれかかり、ベッドの上で自慰を行った。どうしようもできなかった。抗えずに、何度も及んだ。衝動だけが支配する体に、心に、僕はあの日生まれてはじめて激しい嫌悪感を覚えたのだった。

第五話 らしさ へつづく