五時半に渋谷で、と彼からラインが届いた。金曜日の夜の渋谷なんて、人混みがすごくてうるさいに決まっている。気が重かったが、断るわけにもいかなかった。彼から借りた傘を、今日こそ返さなければならなかったのだ。

黒のコウモリ傘。一見なんの変哲もない傘。けれど、彼が必要としているものだ。これがないと、彼は「家に帰れない」らしい。

「お待たせ」
あいにくの雨。少しだけ冬の気配を孕んだ風が吹いている、金曜日の夜の渋谷で、私は死神紳士と待ち合わせた。

世知辛い世の中だ。今や死神紳士さえスーツを着て労働し、納税し、アフターファイブにはお酒が必要になっているらしい。

あの日貸してもらった傘を、今日こそ返さねば、そうして彼に別れを告げなければ、私は「納期」までに「納品」されてしまうらしいのだ。

「え、ここ?」
連れてこられたのは、センター街を少し入ったところにある食べ飲み放題の焼肉屋だった。
紳士の身なりから察するに、てっきり洒落たバーにでも案内されるのかと思っていたのに、非常に大衆的な場所だ。
「心残りないように、好きなだけ食べて飲んでほしい。二時間制だけど」
時間制かよ。
しかも、こんな場末感のある焼肉屋で、心残りを残すな、だなんて。いくら私がしがないOLだからって、ずいぶん甘く見られたものだ。
「悪いけど、肉より魚の気分なの。傘なら返すから、ここで失礼します」
「それは困る」
「なんでよ」
死神紳士はカバンをごそごそまさぐり、なにか書類を取り出した。どうやら請求書のようだ。
「じゃあ、『家』に帰れなかった間、東横インで過ごした代金を弁済してほしい」
「はぁ⁉︎」
「それが嫌なら、ここで焼肉を食べることだね。たらふく好きなだけお酒も飲んでください」
脅されているのかもてなされているのか、全然わからない。
「早く早く。『北川』で食べログから予約してるから」
抜かりない。
「そう言われても」
「大丈夫。肉の焼き加減なら任せてほしい」
そこじゃない。
「傘、ありがとうございました。東横イン代は、払えません。焼肉は、食べません」
私が半ば押し付けるように傘を死神紳士に渡すと、彼はため息をついた。
「ワガママは困るんだけどな……」
え、これワガママ?
「選択の余地は皆無だよ。心ゆくまで焼肉食べて『納品』か、東横イン代の弁済か。どう考えても前者でしょ」
──ちょっと待て。どう考えたら前者なんたよ。私は思わず店先で叫んだ。
「そっか、これは新手の詐欺だったんだな。傘貸してホテル代請求する、焼肉詐欺!」
「は?」
「ストップ詐欺被害! 私は騙されない!」
死神紳士は、私の『詐欺』呼ばわりに、顔を赤くして怒った。
「違う!」
そして一呼吸置いて、こう断言した。
「君のことが好きなだけだ!」
……そういうの、『職権濫用』って言わない?

しばらく、傘は返せそうにないな。