第十二話 セバスチャン

どこをどう歩いたのか走ったのか、よくわからなかった。ただ、この笹塚駅付近にいるはずの彼の姿をひたすら探した。傘なんて持っていなかったから、せっかくのカーディガンもストールもびしょ濡れになった。

「Bonne baye」=さようなら。

冗談ならタチが悪いし、本気なら厄介だ。私は小さくくしゃみをした。結局、一周りして駅前に戻ってきてしまったのだった。

ふと見ると、駅前には花屋があった。京王線沿線にあるチェーン店の花屋だ。私はその店先に並べられた早咲きのバラの花に目を留めた。サーモンピンクの小さなバラ。品種の正式な名称は知らない。知らなくても、綺麗だと感じることはできる。

なんでだろう、先ほどまでささくれだっていた気持ちが、少しだけ和らいだ気がする。——花は、いいな。単純にそう思う。悩むことも苦しむことも、ないんだろうな。それでいて、人から愛でられるんだもんな。

濡れた前髪がおでこにぺたりとくっついている。それを右の指でつまんで、なんとなく整えてやる。それだけではいけないと思い、鏡を取り出して、自分の顔を確認した。

……なんて顔をしているんだろう。雨でメイクが落ちたからだけではない。見慣れているはずの自分の顔が、全然好きになれない。不機嫌を通り越して、ぶーたれた顔。鏡をカバンにしまうと、私は大きくため息をついた。

(誰のせいで、こうなった?)

「いらっしゃいませ」

唐突に花屋の店員に声をかけられ、私はそれこそ飛び上がらんばかりに驚いた。店長と思しき女性が、にこやかに話しかけてくる。

「何か、お探しですか?」
「あ、えっと……」

商品を凝視していたのだから、何も探していないというのは気まずい。

「今の、季節は、何が流行っているのかなーって、あはは……」

自分でも何を言っているのか、情けなくなってきた。しかし店員さんはそこはさすがプロ、営業スマイルを崩さずに丁寧に応じてくれる。

「セバスチャン・クナイブがこれからは綺麗ですよ」
「セバスチャン?」

私の頭の中に、洋風の館に勤める執事の男性が浮かぶ。しかしそれはただの勘違いというか妄想で、どうやらサーモンピンクのバラの品種名らしかった。店員さんは人懐っこい雰囲気で話を続ける。

「けっこう人気の花なんです。さきほども男性のお客様が花束で買っていかれましたよ」
「へぇ……」

バラの花束か。本当に、そんなもの贈る男性って、いるんだ。そして本当に、そんな夢みたいなもの、受け取る女性がいるんだな。羨ましくなんて……まぁ、あるけれど。

いいんだ、私は私。人は人。それは、ずいぶん前からわきまえているつもりだ。

私はもう一度くしゃみをした。それで、気持ちがだいぶ整った。

「すみません。また今度にします」
「ありがとうございました」

花屋を離れると、小雨はやんでいた。見上げると、雨雲はそそくさと逃げ去っていて、春靄の夜空に薄明るく月が顔を出している。上弦の月だ。クロワッサンみたいで、美味しそう。

なんだか、色々とどうでもよくなってきた。必死になっていた自分がちょっと虚しくなってきたのだ。

「……Bonne baye、か」

彼からのメッセージを呟いてみる。さようなら、か。彼は何に別れを告げたのだろうか。

先ほどよりは軽い足取りで、結局ドトールに戻ってきた。京王線はまだ運転を再開していないので、帰りたくても帰れない。そのことにむしゃくしゃしたが、それ以上に、疲れていた。カウンター席で腕組みしていたのだが、どうやら眉間にしわを寄せていたらしかった。

電車の運転再開を待つ同じ境遇の人々で店内は賑わっていた。そのざわめきをBGMにして、このまま寝てしまいそうだった。実際、船を漕いでいたかもしれない。

「ひどい顔だね」

聞きなれた声にハッとして視線を上げた。

するとそこには、セバスチャン・クナイブの花束を携えた彼が立っていたのだった。

第十三話 脅迫