第十四話 影

中野は驚いて、また内心焦ってもいた。彰のこんな姿を見られたら、きっと真弓は失望する。そして『アリスの栞』を辞めてしまう。そんなことを考えたからだ。

だから、至って平静を装って、中野は真弓に言った。

「真弓ちゃん。今日はどうして、ここに?」

真弓の表情は少し緊張しているように見えた。勤務日でもないのに、なぜ現れたのかと。

当然、そう問われると思っていた。だから、真弓は、

「ハルコさんのギターが、聴きたくて」

と答えた。

「え?」
「眠れなくて。どうしようかなって思って。そしたら、前にハルコさんのギターで速攻寝ちゃったのを思い出して、借りてるbookmarkerの CDをかけたんですけど、やっぱり眠れなくて」

そこまで言うと、真弓はニコッと微笑んだ。

「直接伝える方が、効果があるんだと思って」

中野は戸惑って問いかける。

「真弓ちゃん、それはどういう……」
「彰さん」

真弓は立ち尽くしている彰に向かってまっすぐ声をかけた。そして、

「秋子さんって、誰ですか」

ど直球な質問を彰にぶつけた。ストレート勝負に出ることは、今までの真弓には考えられないことだったが、恋というのはまるで魔法のように、時に人を強くする。

中野は今度こそ狼狽した。彰への影響を考えたら、とても看過できなく、あまりにエグい質問だったからだ。

彰の姿が、突然に薄れ出す。精神状態は霊体にダイレクトに響くらしかった。彰はもがくようにして、

「俺は……」

まるで電子映像が乱れるように、その姿が歪んでいる。

「また、なのか……」

声まで、エフェクトをかけたがごとく重なって聞こえる。

「もう、失いたく、ない……!」

まるで悲鳴だ。中野はいたたまれなくなった。

「ごめん、真弓ちゃん。ごめん」

それに対して涼介は、中野をかばうように言った。

「なんでマスターが謝るのさ。誰も何も、悪くない。新月のせいだ。そうだろう、彰」

そう言うが、彰の存在確率は不安定になる一方だ。

真弓はしかし、ひるまなかった。

何が起きているのかはわからなかった。しかし、今が逃げるべき時ではないことは直感的にわかった。だから、毅然と問い続けた。

「秋子さんって、彰さんの大切な人、ですか」

しかし、いくらなんでもそれは、今の彰にとって残酷な質問だ。中野は目を伏せ、涼介はため息をついた。

当の彰といえば真弓の言葉に、両目をむいて、

「愚問だ……!」

そう返すのが精一杯だった。その姿がやがて、いびつな影を生み出し始める。ふと、外の風が凪いだ。

「ヤバイな」

涼介は舌打ちした。

「久々かよ……」
「涼介、真弓ちゃんを責めないでくれ」
「わかってるさ。にしても、厄介だな」
「カレンダーを気にしなかった俺も油断してた。すまん、頼む」

涼介が頷く。真弓は、不可解な顔で中野と涼介を見る。

「………?」

しかし、二人は何も答えない。この二人のやり取りの意味を、真弓はすぐに目の当たりにすることとなる。

彰は辛うじて存在しているようだった。幽霊にはないはずの「影」が彰の足下に生まれている。それがグツグツと蠢いているのだ。

「え……」

真弓の背すじに冷たいものが走る。涼介は、

「ちょっと、ごめんね」

真弓を押しのけるようにして、彰と対峙した。

「彰。落ち着くんだ」

彰は鬼のよう、いやまるで悪魔そのもののような表情である。

「やっぱり……ここには秋子はいないのに、いないのに……、俺はいつまでこんな場所に……!」

テレビの砂嵐のような音を立てて、彰の姿が揺らぐ。彰を取り巻く影の色が濃くなってゆく。涼介は厳しい表情で、

「このままじゃ、悪霊になっちまう。そうなったら、俺たちは彰を喪うことになってしまう」
「どういう、ことですか」

真弓は震える声で問うた。すると、中野は

「真弓ちゃん、君にだけは、きっと彰も見られたくなかったと思う」
「えっ……」

中野は懐から、一枚の写真を取り出した。

そこにはセピア色に微笑む、真弓と瓜二つの和服を着た女性が写っていた。

第十五話 面影 に続く