第二十二話 りゅうこつ座

愛した人のことなら、誰よりも知っているつもりだった。ずっとずっと、「見守って」きたのだから。秋子が熱を出した時などには、心を痛めてそばに漂っていた。何もできない自分の無力さを呪った。

何度か、彼は悪霊になりかけたことがあった。新月と仏滅の重なる時。不思議なことに、その夜に決まって秋子は詩を詠んだ。そしてその言の葉が、彼を踏みとどまらせた。

美しかった人も、やがて年をとっていった。刻み込まれた顔のシワは、樹木の年輪のように歴史を主張した。

そして、孫にも恵まれた愛しい人は、静かに逝った。「おばあちゃん、おばあちゃん、ありがとう」と家族に囲まれながら、穏やかな顔で。

秋子が亡くなってまもなく、孫が家を本屋兼カフェに改装した。そこで初めて、孫は彼を認識した。

「君が彰くん、だね」

孫は初対面の時、驚くほどにとても落ち着いた態度だった。

「祖母の日記を読んだんだ。君のことが書いてあった」
「どうせ愚痴だろ」
「半分あたってる」
「あたってるのかよ」
「『どうして私を置いていってしまったのか』。主訴はそんな感じ。あとは、詩のような文面と、読む方が恥ずかしくなるようなラブレターだったよ」
「………」

風は吹けども涙は去らぬ
命に限りがあればこそ
意味は自ずと生まれくる
愛してくれてありがとう
世界を愛してくれてありがとう
痩せた肺から息を吐けば
きつとあなたは笑つてくれる

「真弓ちゃん! 今の、とってもいい感じ。ファルセットにも慣れてきたね」

中野が親指をビシッと立てた。真弓は「エヘヘ」と笑い、

「楽しいです、とても。気持ちいいっていうか」
「それは何より」

中野がウッドベースの弦を爪弾くと、真弓は体でリズムを取り始める。

「じゃあ、『If I exhale from the thin lungs, you will smile.』の部分、もう一度いこっか」
「はい!」

ハルコもニッコリ笑って、ギターの準備をする。涼介がシンバルで合図をすると、「If I exhale from the thin lungs, you will smile.」真弓はのびのびとした歌声で歌う。

真弓はこのセッションが楽しいと、心から感じていた。それがたとえ、彰との別れを意味することであっても、真弓は思うのだ。好きな人の願いを叶えることこそ、本当の愛なんじゃないか、と。

以前読んだ雑誌に、「恋は自分のため、愛は相手のため」というフレーズがあったのを、真弓は思い出していた。

彰は、「過去」だ。本来なら出会うことのない二人。最初から叶うわけない、想い。

だったら、せめて、自分にできることを精一杯しよう。もう彼を苦しませたくない。彼の決意、つまり願いを、成就させてあげたい。

真弓の背中を押したのは、他でもないWWMの曲だった。「素敵な世界を作る者」。その名の通り、WWMの曲には、深く聴き入る者の心を揺さぶる力があるようだった。そして、決め手はハルコの言葉。

前を向こう、いい加減。
時間が、ない。
だったら、残された時間を精一杯過ごそう、と。

「もう一回、お願いします!」
「オッケー。1,2,3……」

徐々に秋の深まる夜空を見上げて、彰は屋上で夜風に漂っていた。星々を見ると思い出すのは、二人で過ごした日々。

柔らかな笑顔で、自分を愛してくれた人。自分は、なんという愚かなことをしたのだろう。責めても責めても、その後悔が消えることはない。


「りゅうこつ座ってどこなのかしら」
「りゅうこつ座は、西日本の北端に少し見えるくらいだからね。東京じゃあ難しいよ」
「そうなの? 一度でいいから見てみたいわ」
「オリオン座なら、もう少しで見えるようになるよ」
「オリオン座もいいけど、私はりゅうこつ座の神話が好きなの」
「秋子は、夢みがちだな」
「からかわないでください。それに、彰さんの夢想癖には敵わないわ」


気がつくと頬を伝う、涙。

(あぁ、秋子。俺ももうすぐ、そちらへ……)

「彰さん」

名前を呼ばれて、彰はハッと振り返った。

「風邪、引きますよ」

真弓が本を一冊携えて、屋上の入り口に立っていた。

「……って、風邪なんて引かないか。死んでますもんね」
「真弓……」

真弓は彰に本を差し出した。

「これ、ありました。ボードレール」
「え?」
「落丁してたでしょう、だから、新しいのを」
「………」

それは、初めて出会った日のことだ。あの頃と比べて、真弓は随分肝がすわったように感じられる。

彰はつい真弓の表情に見とれた。

真弓は、その視線を受け止めてから深呼吸して、

「私、彰さんに、伝えたいことがあります」

そう言い切った。

第二十三話 二番目 に続く