第十四話 笑顔でいなきゃ

ヨーコにはひとつ気がかりがあった。期末テストで好成績を出して以降、朋子がどこか浮ついたような、落ち着かない様子でいることが増えたからだ。

客のオーダーを間違えることもしばしばで、そのたびに美咲が謝るのだが、その隣で当の朋子はぼーっと立っているのである。

今日は、ナポリタンと和風スパゲティを間違えてしまった。相手が常連で、「いいよいいよ、こっちでも」と寛容に応じてくれたからいいものの、美咲が「申し訳ありません」というその隣で、やはり朋子はどこか中空を見つめ続けていた。

さすがに見かねたヨーコが、ベールの中に朋子を手招きした。

「朋子ちゃん、あなたどうしたの」
「え、何がですか?」
「らしくないわよ」
「えっ」

いわれて朋子はキョトンとする。

「何か悩みでもあるの? いや愚問か。朋子ちゃんの年齢で悩みのない子なんていないものね」

ヨーコは目の前にディスプレイされている、クリスマスツリーのオーナメントを手に取った。それはラメ加工されたピンポン玉ほどの大きさの青い球体で、まるで小さな地球だった。

朋子は困り顔で、「別に、何も悩んでないです」と答えるものだからヨーコは「うーん」と首を傾け、「自覚なし、か。それは重症ね」と、朋子のおでこに手をあてた。

「熱はない。でも、どこかで熱に浮かされている」
「えっ」
「朋子ちゃん、できれば自覚しておいたほうがいいわよ」
「私、風邪なんてひいてない」
「一種の病気よ。それも、とんだ厄介な」

朋子は首をかしげた。

「何をいってるんですか、ヨーコさん」
「本当のこと。客観的な事実」
「そんな」
「少し休みなさい。マスターには私から言っておくから」
「でも、クリスマスパーティーの準備もあるし」
「だからこそ、よ」
「えっ」
「大切な日の前には、心身のコンディションをベストにしておく。それが基本じゃない
「そりゃあ、クリスマスパーティーは大切なイベントだけど」
「それだけじゃないでしょう。本質を見抜く目をもっと養いなさい」

朋子はヨーコの言っている意味がよく解せなかったが、多少疲れていることも事実だったので、その言葉に甘えて休憩をもらうことにした。エプロンをとってカウンターの奥に腰掛け、深いため息をつく。

ヨーコはそんな朋子を見て、心の中で(「恋」っていうのは、とんだ劇薬ね)とつぶやいた。


カレンダーの日めぐりの関係で、その年はクリスマスイブが三連休の最終日にあたった。この日にデートでコトノハを訪れるカップルも多くおり、いつも以上にスイーツ類が多く注文された。大学生と思しきカップルのオーダーしたガトーショコラが品切れになったことを伝えると、それならチーズタルトを二つ、といわれた。しかしそれも最後の一個のみだったので美咲が謝ると、「じゃあ、分けあって食べます」と快く注文してくれた。

この日は14時に閉店するため、仕込みの数を減らしていたのだ。美咲はそのカップルに感謝の意味を込めて、この後に使う予定だったハート型にカットされた苺をひとつ、チーズタルトに添えて出した。

彼女のほうが「わぁ!」と嬉しそうな声を出した。それを見た彼氏も満足げで、ひとつのチーズタルトを仲睦まじくふたりで食べはじめたので、美咲はほっと胸を撫でおろした。

カップルの来店はよくあることだが、クリスマスイブの影響か、いつも以上に美咲は羨ましさを感じていた。それでも、美咲の口角はずっと上を向いていた。

(私は、笑顔でいなきゃ)

台拭きで別のテーブルをてきぱきと拭いて片付ける美咲の姿を見て、神谷は一抹の寂しさを覚えていた。


だんだんとレシピに慣れてきた美咲に、初めて一人だけでガトーショコラを作ってみないかと由衣が提案してきたとき、美咲は自分の腕が認められたと感じて「やってみる!」と大はりきりだった。昌弘は「お前にできんのかよ」と憎まれ口を叩いたが、なんだかんだで美咲の作業を見守っていた。

手際には多少の不器用さこそあったものの、材料を正確に測ったりスパチュラで混ぜたりと、美咲なりに一生懸命作業した。出来上がった生地を型に流し込み、あらかじめ熱してあったオーブンに入れる前、美咲は忘れることなく、にっこり笑って魔法の呪文を唱えた。

「美味しくなってね」

やがてコトノハの店内に甘い香りが漂いはじめる。生地の焼き上がりを待つ30分の間、美咲と由衣、神谷、昌弘はテーブルを囲んでいろんな話をした。少しずつだけれど昌弘がこの地域に馴染んできたこと、現在の同級生の両親が実はコトノハの常連であること、お客さんがスマートフォンで撮影したマグの写真が口コミサイトにたくさん載っていること、実はマグに隠れファンが多いこと、そして昌弘の将来の夢のこと。

「俺、弁護士になりたいんだ」
「へー。またどうして?」
「カッコイイから。間違いなくモテる」
「それ、不純すぎない?」
「純然たる動機だ」
「あ、わかった。大金持ちになって美女と港区のタワーマンションとかでブランデーグラス片手に階下を見下ろしたいんでしょう」
「あながち外れてない」
「外れてないのかよ」

そういって笑いあう昌弘と美咲のやりとりを、神谷と由衣はずっと微笑ましく見ていた。

やがてガトーショコラが焼き上がると、美咲は仕上げに入った。ケーキの荒熱を取り、ボウルに生クリーム、グラニュー糖を入れ、泡立て器で7分立てにしたものを添えて、パウダーシュガーをふりかけミントの葉をのせたら、ようやく完成だ。

「できました!」

美咲が得意げにできたてを三人に振る舞う。

一口食べた由衣が、花が咲むように優しい満面の笑みを浮かべた。

「美味しい!」
「ほんとっ!? やったー!」

由衣は白く透き通った手を美咲の頭にそっとのせた。

「これで美咲ちゃんに、免許皆伝ね」
「わーい、よっしゃー!」

クッションの上で丸まっていたマグは、じっと由衣だけを見ていた。


それから数日間、美咲は自宅でも両親に何度もガトーショコラをふるまってみせた。甘いものの苦手な父も、「これはうまいな」と食べてくれた。

美咲は、地域の図書館から借りてきた「なりたい! 菓子製造技能士二級」というタイトルの本を食卓に持ってきて、両親に見せた。

「私、将来、パティシエになりたいんだ」

菓子製造技能士二級とは、高卒の場合なら受検に二年以上の実務経験が必要な資格だ。

美咲が自分の将来に自分から、しかも具体的に言及するのは初めてのことだった。

「大学は、行かなくていいの?」
「うん。コトノハを手伝わせてもらいながら、いつかこの資格を取って、スイーツでたくさんの人を笑顔にしたいの」

美咲の両親はその夢に反対しなかった。むしろ積極的に目標をもってくれたことに、特に母親は安堵した様子だった。

「コトノハに行くようになってから、美咲、よく笑うようになったもんね。自分で決めたことなら、精一杯頑張りなさい」
「ありがとう!」

その翌日、美咲はその報告をしようとコトノハの閉店時間を見計らって店に電話をかけた。

しかし一向に誰も出ないので、おかしいなと美咲が思った矢先、携帯電話を持った父親が深刻な表情で美咲の部屋に入ってきた。

「美咲、どうか落ち着いてきいてくれ」
「なに?」
「神谷さんからさっき連絡があったんだ。由衣さんが、亡くなったって」


人はなぜ、失いながらでしか生きていけないのだろう。大切なものほど近くにありすぎて、きちんと見えずに時間ばかりが過ぎてしまう。決して巻き戻ることのない時計の針は、生きることの虚しさを指し示しているようだった。

それでも人は、生きていく。命尽きるまで生きていく、ただそれだけだ。

苦しみを携えてまで、なぜ生きなければならないのかと透はずっと考えていた。

気づいたら、昼過ぎまで横になっていた。朝、寒さで目が覚めたときから天井を見つめ続けていた透は、何度も隅田の言葉を反芻していた。

『自分の望みを、自分で知っておくこと』。

もしかしたら自分が一番、自分のことをわかっていないのかもしれない。そんな気がして、透は怖くなって考えるのをためた。

しばらくして透はようやく布団から起き上がり、『日課のチェックリスト』のファイルから招待状を取り出した。

〈クリスマスパーティーのお知らせ〉

12月24日(月)15:00~

場所 コトノハ 貸切ります

スペシャルサプライズ あります 来てね!

置き時計を見ると、15時少し前だった。透はユニットバスの洗面所で顔を洗って髭をそり、タンスから一番気に入っているシャツとパーカー、そして穿き慣れたジーパンを選んで着替えた。切りそびれた前髪をどうにかブラシで整えて、物件に据え付けられていた鏡で寝癖が直ったかを確認をする。

厚手のダッフルコートを着て一歩外に出ると、身を切るような冷たい風が吹きつけた。

玄関のドアには、マグにつけられた小さな傷が居座っている。

(いつか、弁償してもらわなきゃな)

冗談めかしてそんなことを思う。

自分の望みがわからないのなら、わからなくてもいいのかもしれない。しかし、このまま日々を無為に費やしても何も変わらない。

(――どうせ、いつかはなにもかも終わるのだから)

透の足は、自然とコトノハへと向かっていた。

第十五話 クリスマスイブ に続く