第十六話 さよなら

もともと得意だった英語や現代文はもちろんのこと、ずっと不得意だった数学に「83」、物理に「79」、化学に「86」という高得点を朋子が獲ったことに、透は驚きを隠せなかった。

透が伝えたのは勉強そのものというより、勉強に楽しく取り組むためのちょっとしたコツだ。そのきっかけを掴んだだけで、朋子は一気に実力を開花させたのだ。

「すごい……」

思わず透は呟いていた。

「沢村さんのおかげです。だからどうしても、それを見てもらいたかったんです」

透は朋子の顔をちらっと見た。朋子は気恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげにこちらを見ている。

「頑張りましたね。これは、僕ではなく朋子さんの実力です」
「そうじゃないです」

朋子はぷっくりと頬を膨らませる。

「沢村さん――透さんがいなかったら、私、ここまで頑張れなかった。勉強は楽しいんだって、とても大切なことを教えてくれた。それで私、気がついたんです。なんで勉強なんてしなきゃいけないんだろうって、ずっとわからなかった。でも、私に数学を教えてくれたときの透さんが、とても楽しそうなのを見て、わかりました。勉強は、将来の選択肢を拡げるためのひとつの大切な手段なんだって」

情熱的に語る朋子を、その場にいた誰もが固唾を飲んで見守っている。

「点数うんぬんじゃなくて、『真剣になれること』と『楽しいこと』をたくさん経験して、『自分を好きになること』が、私にとって勉強をする意味だった。それがわかったら、点数はあとからついてきたんです」

美咲がうんうん、と頷く。

「それでね、自分を好きになったらだんだん見えてきたんです。自分の本当の気持ちが」

香月は息を飲んだ。これまでどちらかというと大人しく少し気弱だった朋子が、こんなにも堂々と話をしているからだ。

「私、大学に行きたい。三学期から、高校に通いたい。もし無事に三年生になれたら、受験勉強を頑張りたいです」

おもむろに神谷が拍手を送る。美咲と香月もそれに続いた。

「なにを専攻したいの?」

ヨーコが問いかける。

「間違っても『大学生になりたいから』は進学の理由にしちゃダメよ。それは手段の目的化ってやつだから」
「もちろんです」

呼吸を整え、朋子はこう宣言した。

「私、魔女なりたいんです」
「なんですって?」
「ええっ。朋子ちゃん、『魔女学部』なんて聞いたことないよ」

美咲の言葉に、しかし朋子は凛としてこう答えた。

「ヨーコさんは以前言ってました、『人の幸せを願い、できることをそっと差し出す方法を知っている人が魔女』だって。私にはまだ、自分になにができるかわからない。けど、魔女修行をすればきっとそれが見えてくる。そう思っています。だから、いずれ海外で魔女修行するために、外国語を学びたいんです」

ヨーコは、熱を帯びた朋子の決意に、「Great!」とリアクションした。

「魔女になるために肝心の資質はね、自分のことを愛せるかどうかなの。朋子ちゃん、あなた素晴らしい原石を持っているわ」
「ありがとうございます」
「ただし、修行は厳しいわよ。向こうの言葉がわかればいいってわけじゃない。ハーブの効能や紅茶の種類、花の名前だって辞典レベルで覚えなきゃならないし、星読みだってできなくちゃならない」
「はい」
「何より、人の幸せを願えるようになるのが大変なことなのよ」
「それは、大丈夫です」
「あら、なかなかの自信ね」
「はい。私には、ここで過ごした時間があるから」

それをきいたヨーコはにやりと笑った。この子ならいずれ、と。

「それで、私から透さんへのお願いというのが……」

朋子は、まっすぐな目で透を見た。そのひたむきさに、透は息を飲んだ。

「今度こそ私の専属トレーナーになってください。私の家、あまり裕福じゃないから予備校には行けないし、浪人はできない。入るなら学費の安い国立大学だと考えています」
「それは……」

言葉を詰まらせた透は、「不安なの?」とヨーコにいわれて、ゆっくり頷いた。

「頑張るのは朋子ちゃんよ。あなたはそばで、応援してあげればいいんじゃないかしら」
「でも……」
「あら、なにか不都合でも?」
「……僕は、病気です」

その言葉は、透の抱く絶望を端的に表していた。

「今日僕は、みなさんにあいさつをしに来たんです。もうここには来てはいけないって、そう思うから」
「どうして?」

朋子が顔を紅潮させて食い下がった。

「どうしてですか。病気だったらここにいちゃいけないんですか。なんで」

透は、慎重に言葉を選んで朋子へ告げた。

「僕が発作を起こしてしまえば、みなさんを驚かせてしまいます。きっと、みなさんは否が応でも僕から距離を取ろうとするでしょう。僕はそれが、とても怖いんです。わかっています、僕は独りでいるべきなんだって」
「なめんなよ」

即座に反応したのは香月だ。

「独りでいるべき? 何言ってんの。自惚れんじゃないよ。浸ってんじゃないよ」

朋子はその隣で、またもや泣きそうになっている。香月はなおも続けた。

「沢村くん、あなたが離れていくのはあなたの勝手だけど、こんなかわいい子を泣かせるのは、私が許さないよ」
「香月さん、もういいです」

朋子は力なく頭を下げた。

「わがまま言って、ごめんなさい」
「……こちらこそ、すみません」

そういうと、透は誰からも視線を逸らし、

「お世話になりました。ありがとうございました」

はっきりとした口調でそういい、無理やり口角を上げて笑ってみせた。

「さよなら」

透がドアベルをからころ鳴らしてコトノハから足早に去っていく。朋子がわっと泣き出したのを見た美咲は、唇をくっと噛んでそのあとを追いかけようとした。急いでコートを羽織り駆け出したが、クリスマスイブの雑踏に透の姿はすぐに紛れて、美咲はそれを見失ってしまう。

「どうしよう……」

焦る美咲の前に、軽やかな足取りで現れたのは、マグだった。

「マグ、もしかして」

美咲が言い終えるより早く、マグは「ついてこい」と言わんばかりにひと鳴きし、商店街のメインストリートにあふれる人々をかわすように歩きはじめた。

「ありがとう、マグ!」


すっかり傾いた日の光が、誰もいなくなった公園のベンチに差し込んでいた。この小さな公園にはイルミネーションがないから、カップルたちは繁華街のきらびやかさを求めて去っていったのだろう。

透は、ベンチに深く腰をかけると、大きなため息をついた。

(これで、よかったんだ)

いつものように見上げた空はよく晴れ渡ったのだろう、細い雲たちが遠慮がちに漂うのみだった。

透はスマートフォンを取り出してその空の表情を収めようとした。すると、ふと通知が一件きているのに気がついた。仕組みがよくわからないのだが、以前朋子にインストールしてもらった「ポケGO」からのものだった。

しばらく開いていなかったが、なんとなくそれをタップすると、【位置情報をオンにしてください】と表示された。慣れない手つきでオンにすると、その途端に画面に「あ! 野生のプリリンがとびだしてきた!」と出てきて、ピンク色のころっとした愛らしいモンスターが現れた。

どことなく、頬を膨らませた朋子に似ている気がした。

どう操作すればいいのかわからなかったので、アプリをとりあえず閉じた。気がついたときには、空はもう表情をすっかり変えて、夜の支度をはじめているようだった。

透は目を閉じた。なにも見えなければ、なににも気持ちを乱されずに済む気がしたから。次に耳を塞いだ。なにも聞こえなければ、誰の悲鳴も聞かずに済むから。

体をすっかり縮こませて、透はベンチの上でひたすら孤独に身を預けた。

そこへ容赦というものをまるで知らない温もりが、彼の丸まった背中を足蹴にしてずしんと体重をのせてきた。

「えっ」

透は瞠目した。自分の右肩に、マグが堂々たる風格でのっかっているのだ。

「お前……」
「見つけたっ……!」

さらに目の前に、息を切らせて走っていた美咲の姿があった。

「もう、マグったら、足はやすぎ!」

そういいながらも、美咲はやはり透ににっこりと笑ってみせるのだ。

「あー、全力疾走なんて、いつぶりだろう」

マグがしっぽで透の頬を軽く叩く。まるでお前のせいだと言わんばかりに。

「……どうして」
「えっ?」

透はマグを自分の膝に置いて、静かに深呼吸してから、美咲にこう問うた。

「……どうしてあなたは、いつもそうやって笑顔なんですか」

第十七話 許しはしない に続く