第十七話 許しはしない

透の問いに、美咲はにっこりと微笑んで答えた。

「私は笑っていたいんです。どんなときも。私の笑顔で他の誰かが笑顔になってくれたら、とても嬉しいから」
「悲しいときもですか」
「えっ」
「悲しいときも、美咲さんはそうやって笑ってられるんですか」
「はい」
「どうしてですか」
「笑顔の自分でいたいからです」
「わからない」
「なにがですか?」
「初めて会った時からそうだった。あなたはいつも無理して笑っている。その笑顔は、僕にはとても寂しく見えるんです」
「でも、私が笑顔じゃないと、大好きなコトノハが寂しくなってしまうから」
「そんな」
「だから私は、笑うんです」


荼毘に付された由衣の遺骨を抱いた神谷が灯りのついていないコトノハに戻ってくると、一番奥のテーブル席で昌弘がゲーム機に黙々と向かっていた。

「電気くらいつけろ」

神谷が声をかけても、昌弘はなにも言わない。柱時計が午後三時を報せても、いつものように「おやつ!」とはしゃぐ昌弘はそこにはおらず、さんざん泣きはらして涙で黒く汚れた顔をそのままに、シューティングゲームの画面を無気力に見つめている。

神谷はそれ以上昌弘に声をかけることができなかった。

由衣が旅立ってから、コトノハには常連客たちが気を遣ってたくさん顔を出すようになった。そんなみんなの気持ちが本当にありがたかったが、それまで接客を手伝っていた昌弘が一切コトノハに顔を出さなくなったこともあり、閉店後に神谷が独りで酒をあおるようになった。そうして、いつしかコトノハから笑顔が消えていった。大好きな場所がどんどん色褪せていくのが、美咲にはとてもつらかった。

あるとき、常連客の一人が「もう由衣さんのガトーショコラ、食べられないね」とこぼしたことがあった。それに対して神谷が「すまないね」と返した声が、以前のような包み込むような穏やかさをまるで失った、疲れに疲れ果てたかすれ声だったのを耳にした美咲は、強い胸の痛みを覚えた。

美咲は、この時決意した。いずれ高校を卒業したら、由衣と神谷が作ったこの空間に、必ず笑顔を取り戻してみせる、と。


「だから私は、いつも笑顔でいたいんです」

美咲は、透の隣に腰掛けてマグを手招いた。マグは大人しく美咲の膝の上で丸くなる。美咲が毛並みをそっと撫でてやると、気持ちよさそうにうとうとしはじめた。

「でもそれって、やっぱり無理してるじゃないですか」

透がそういうと、意外にも美咲はあっけらかんと「そうかもしれません」といってのけた。

「でもそれは、私が自分で決めたことだから」
「それは……美咲さん自身の『望み』という意味ですか」
「そうですね」
「そうですか……」

マグがすやすやと眠りはじめた。少し前まで吹いていたそよ風はぴたりとやみ、しんとした真冬の張り詰めた空気があたりを覆いはじめる。

「……僕は」

透が、まるで罪でも告白するかのような口調で、訥々と話しはじめた。

「自分が、なにを望んでいるかが、わかりません。ただ、時折ものすごく死にたくなります。どうしたら死ねるかを考える、そのこと自体がつらくて。だから、なにかを『望む』ことなんて、とてもできないんです。だから僕には、自分の望みが、わからない」
「そっか……」

美咲は足元に落ちていた小石を軽く蹴飛ばした。

「それはそれで、いいんじゃないですか?」
「えっ」
「沢村さんのつらさや苦しみは沢村さんのものだから、私にはどうこう言えません。でも」
「でも?」
「死にたいくらいつらい時間を耐えてきて、それでも今こうしてここに生きていることって、どう考えてもすごくないですか」
「でも……」
「でも?」
「みなさんに迷惑をかけます。というかきっと、もうかけています」
「ふーん」
「ふーん、って」
「別にいいじゃないですか」

美咲の言葉に、透は目をぱちくりとさせる。

「迷惑をかけるって、そんなに悪いことですか?」
「え……」

美咲は、にこりというよりはにやり、と笑った。

「私は沢村さんを迷惑だなんて思っていませんし、そもそも迷惑をかけることが悪いことだとは、私はどうしても思えないんです。沢村さんが病気ってこととか、そのせいで苦しんでいることとか、それでも私たちと出会ってくれたこととか、それって、一つひとつ、ぜんぶが大切なことだと思うんです」
「大切?」
「うまく言えないんですけど、『大丈夫』って伝えたいなって――」
「だったら」

透は美咲の言葉を遮り、膝の上でこぶしを強く握った。

「だったら、僕にだっていいたいことがあります」
「はい」

素直に応じる美咲にたじろぎつつも、透は思い切ってこう言い切った。

「僕は、美咲さんの笑顔が嫌いです」
「へっ?
「背伸びして、無理をして、気を遣って、口角をあげて。そんな笑顔は嫌いです」
「……」


シャンパンを片手に、ヨーコは朋子の隣に腰掛けた。

朋子はさめざめと泣き続けている。それをその場にいる皆がただそっと見守った。泣けたときが、泣どきなのだ。泣きたいときに泣く以外の代替手段は存在しない。

涙が、心の痛みを連れ去ってくれるからだ。そのことをよく知るメンバーだったから、泣きじゃくる朋子は安心してしゃくり上げることができた。

「つらいわな」

香月が残った料理をつつきながらいう。

「私も、たくさん憂き目に遭ってるから、そのハードなしんどさは身にしみてる」
「でも、初恋は特別よ」

ヨーコが朋子に語りかける。

「初恋も初失恋も、生涯にたった一度しか経験できないからね。ただ、朋子ちゃん、あなたにいいことを教えてあげるわ」

そういって、ヨーコは朋子の肩を抱いて顔を優しく寄せた。

「初恋は実らない。ううん、実らないほうがいいの。なぜだと思う?」
「……わかりません」
「失恋を知らない人生なんて、熟成のなってない安ワインみたいなものよ。痛みの数だけ、人は強く優しくなるの。否が応でもね」

ヨーコは、朋子のほつれたポニーテールを手ぐしでほぐしてあげた。

「あなたは、きっと素敵な魔女になれる。今日のその胸の痛みを、決して忘れないことよ」


透に言われて、美咲はしばらく黙ってしまった。やがて二人と一匹の間に夜がおりてきて、出番を待っていたオリオン座がはっきりとベンチからでも見えるようになった頃、ふと透が口を開いた。

「……僕には、大学院生のとき、将来を約束した恋人がいました」

声に出せば、言葉が白い息となって霧散する。日が暮れて、寒さはいよいよ厳しさを増してきているようだ。

「別れてしまいましたが。僕は彼女を、たくさん傷つけました。研究室で修士論文を書いていた時のことです。締切に追われて、でも進捗は全然で。焦りと苛立ちから夜も眠れなくなって、同じ研究室に在籍していた彼女にたくさん八つ当たりしました。それでも、彼女は言ってくれました。『一緒に病院へ行こう』って。でも、当時の僕には病識がまるでなかった。それどころか、彼女が論文の執筆を邪魔しているのだという被害妄想に囚われて」
「……」
「たった一度とはいえ、僕は彼女に手をあげました。その時の彼女の怯えきった目が、未だに街中にふよふよと黒い影となって浮遊して、僕を睨んでくるんです」
「え……」
「許しはしないと、もっと罰を受けるべきだとその影は言うんです。気がついたら、病院のなかでした。しかもはじめは、保護室という名の独房生活でした。そうなれば、もう論文どころではありません。僕は、それまで積み上げてきたものを全て失いました。病棟スタッフから冷遇されまいと、僕は必死に自分を押し殺してきたんです。……だから僕には、自分の望みがわからなくなってしまったのかもしれません」
「沢村さん……」
「それでもあなたは、こんな僕に笑いかけることができますか」

こちらを試すような視線を刺してくる透に対し、それでも美咲は、

「はい」

と泰然と答えた。

第十八話 もらい泣き に続く