第十七話 アトリエ

心に蓋をするのは、彼にとって簡単なことだった。級友の「事故死」すら、1ヶ月もすれば机の上の花瓶もなくなり、日常がだらしなくやってくる。

また、みんなが空気を読みあい、相互監視する日々がやってきた。人は忘れる生き物なのだろうか。忘れないと、生きていけないのだろうか。特に、思春期という人生の中で最も繊細な時期に、彼に与えた傷はあまりに深かった。

愚かな人間というのは、学ぶことを知らない。まるで鶏舎の中のニワトリだ。弱い者がより弱いものを排除し、強いとされる者に媚びへつらう。いわゆるスクールカーストは、彼にとってもまた生きづらさに直結する現象だった。

あの出来事以来、彼は思うように喋れなくなった。何かを話そうとすると、言葉が上滑りするような感覚に襲われ、また、何を話しても嘘をついているよな気がしてしまい、何も話せなくなった。

元から目立ちがちだった彼が教室の中でターゲットにされるのに、時間はかからなかった。

「よぉ、オブジェ君」

そう茶化されても、反論できなかった。体さえこわばって、震えることすらあった。その反応がよほど面白かったのだろうか、カーストの上位にいた女子生徒たちもこぞって彼をからかい始めた。

それを知っていたであろう教師たちすら、授業でわざと彼を指名し、喋れないその様をクラス中がクスクスと笑う声を看過していた。いや、そうなることをわかっていて指名する教師もいた。恐らくは、そういう下衆な生徒たちに迎合しないと、教師もやっていけなかったのだろう。

からかいからエスカレートしたいじめは彼にひどいストレスを与え続け、ついに彼は学校へ行けなくなった。   家にいても、母親にガミガミ言われるだけだ。彼は私服で公園をふらつくことが多くなった。ゲームセンターに行っても、何もする気が起きない。毎日映画館に行くような金もない。娯楽などそもそも、必要ではなかった。彼に必要だったのは、居場所だった。

晩秋になって進路のことを真剣に考えなければならない時期になって、見覚えのない男性が公園にいた彼に声をかけてきた。彼はよく覚えていなかったが、彼の通う中学校の、美術の教師だった。年の頃なら、五十歳くらいだろうか。

「毎日、ここで何してるの?」
「……別に、先生には関係ないです」

自分でもびっくりした。言葉が、自然に出てくる。教室ではありえないことだ。

美術の教師は続けた。

「学校へ、来ないかい」

彼は頑なにそれを拒んだ。てっきり怒られるかと思いきや、その教師は白い息を吐いて、

「そうだよね。あんな教室、行く気しないよね」
「……」
「僕もそう。正直しんどいの。だから今日は、『体調不良』」

彼は少しだけ驚いた様子で、しかし冷めたテンションを保ってみせた。

「教師がサボりなんて、初めて聞いた」

その言葉に、美術教師はハハハ、と笑った。

「じゃあさ、アトリエに来ないか」
「……アトリエ?」
「そ。と言っても学校の隅だけどさ。美術準備室。公園でフラつくよりはマシでしょ」
「……」

 

後日、その教師は彼に大きくて真白いキャンバスを与えた。

「好きに描くといいよ」

人との出会いというのは不思議なものだ。必ず、別れがつきまとう。出会いは偶然でも、別れは必然だ。

キャンバスを前にした彼は、今まで抑えてきた感情のままに色をぶつけていった。

 

それから卒業までの日々を、彼は美術準備室で過ごした。そこでは普通に喋ることができた。

絵は、一枚も仕上がらなかった。いや、仕上げられなかった。仕上げてしまったら、何かが終わってしまう気がしたから。

 

卒業式の日、彼は美術教師から卒業証書を受け取った。教師は、彼にクロッキーをプレゼントした。「おめでとう」とは言われなかった。ただ、 「元気で」と、言葉をかけてくれた。

 

高校時代は息を潜めるように過ごした。高校入学と同時に、彼は言葉を取り戻した。

髪も黒に戻し、そこそこ普通の友人関係を築き、ここでも繰り返されたカーストとは距離を置き、なるべく「普通」を装った。持ち歩いていた学生カバンにはいつも、「山羊の歌」が入っていた。御守り代わりだった。

自然と、「もっと勉強したい」と思うようになった。中学校で思うように勉強できなかった反動だろうか。両親との関係は冷え切っていたが、常に世間体を気にしていた母親は、彼が進学したいと言ったことを、それなりに喜んだようだった。父親は無関心のようだったが。

学部は文学部を志望した。もっと中原中也のことが知りたかったからだ。 何かに取り憑かれたかのように、彼は必死というよりは夢中で勉強した。寝る時間を惜しんで参考書や問題集にかじりついた。その結果、ストレートで国立大学に合格し、無事に進学した。

「努力が報われる」なんてことを、彼は生まれて初めて経験した。彼は不思議な解放感に満たされていた。強烈な自己肯定感の中にいた。ずっと抱いてきた劣等感が払拭された気さえした。

授業はもちろん、サークル活動やアルバイトにも精を出した。まるでどこにでもいる青春を謳歌する学生だった。

俺は、もう大丈夫だ。そんな確信があった。毎日が、輝いていた。

だが、充実した日々はそう長くは続かなかった。

彼が「昔の級友」の「声」を聞いたのは、大学二年生の冬のことである。

第十八話 許さないということ に続く