第十三話 日記

裕司が見たのは、モノクロの光景だった。時間が止まって感じられた。空間が凍り付いて感じられた。いや、何も考えられなかった。

「ごめんなさいね……」

沙織の母親が頭を深く下げた。

目の前には、空白になったベッド。

すべてが、みるみる色彩を失っていく。

「嘘だ……」

裕司が辛うじて絞り出した声。

それが、沙織に届くことは、もうない。

「昨夜突然ね、急性転化しちゃったの……。ドナーもついに見つからなくてね……」

沙織の母親は、床頭台から一冊のノートを取り出した。

「これ、あの子が入院してから、時々つけてた日記です。よかったら、読んであげて」
「……」

震える手で、それを受け取る。裕司は、おそるおそる表紙をめくった。そこには、沙織の人柄そのもののような、愛らしい字が並んでいた。


5月16日(金)

今日は、裕司が大学の話をしてくれた。大学は楽そうで、何よりも楽しそうで、羨ましい。元気になったら、裕司と同じ大学に行きたい。偏差値が高そうだけど、裕司に教えてもらおう。今のところ、日本史が一番苦手。

5月19日(月)

大学の一覧を母が買ってきてくれる。日社大学は今の私の実力だと少し背伸びが必要らしい。できるなら文学部がいい。裕司と一緒だから。

5月23日(金)

ここに入院して一番不満なのは、21時で消灯されてしまうこと。晴れていても星を見ることができない。いつかまた、あの場所で天体観測をしたい。裕司と、二人で。

5月27日(火)

少しだるさが抜けない。数値が良くないらしい。でも、今日はいい日だった。裕司が、駅前のカフェでシフォンケーキを買ってきてくれたから。でも、なぜか西京味噌風味。やっぱり、裕司は面白い。

5月31日(土)

あまり眠れなかった。うまくボールペンが持てない。力が入らない。星空が見たい。できるなら、流星群が見たい。

6月4日(水)

今日は大安だと、裕司が嬉しそうに話していた。何かいいことが、あるといいな。

6月7日(土)

まるで東京には星がないみたいだ。ここずっと、夜に白い天井しか見ていない。本当に星なんてあるんだろうか。私は、もしかして、夢でも見たんだろうか。

6月12日(木)

今日はバイトの後に裕司が来てくれた。とっても嬉しかった。牛丼屋さんのバイトらしい。牛丼って美味しいのかな。美味しいんだろうな。食べたいな、食欲はないけど。裕司が頑張っているんだから、私も頑張らなきゃ。頑張ろう。

6月13日(金)

裕司、好きだよ。裕司、大好き

日記は、その日付で途切れている。裕司は、繊細なガラス細工に触れるように文字に触れた。沙織の愛した、ささやかな幸せの日々。それは、自分への言葉で終わっている。

終わって、いる。

裕司は全身が硬直していくのを感じた。ぐらぐらと、目の前が歪んでいく。色彩を失ったあらゆるものたちが、こちらを睨んでくる。

嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 
「——」

声にならなかった。突如として自分の認識していたはずの世界が、ぐにゃりと形を変え、一斉に襲い掛かってくる。

裕司は、その場で力なくうずくまってしまった。

それからのことは、裕司の心に暗い影を落とした。沙織の葬儀にも出られなかった彼は、いつまでも彼女の死を受け入れられずにいた。

圭太は、葬儀の間ずっと泣きじゃくっていた。「信じられないよ……」と純子が言った。

理恵と佳恵は、ずっと気丈に振舞っていたが、棺が運び出され荼毘に付される段になって、ついに二人とも泣き出してしまった。「すただす」のメンバーは、誰もが深い悲しみの中にいた。

その後、葬儀に姿を見せなかったことで、裕司の陰口を叩く者も少なからずいた。

「なんだかんだで、薄情だよね」

その声を看過できなかったのは、他でもない佳恵だった。心ないクラスメートに対し、

「そんな言い方ってないでしょ。あんた達に何がわかるのよ!」

そう怒鳴ってしまった佳恵に対し、クラスメートは「やだー」「怖ぁい」「そうだよね。ごめんねー」などとほざき、ケラケラ笑った。

やりきれない日々を、佳恵もまた送った。佳恵が、心傷ついた人の助けになりたいと臨床心理士を目指したきっかけは、沙織の死であった。


裕司は大学も休みがちになり、バイトも無断欠勤でクビになった。一人暮らししていたアパートの部屋は、めちゃくちゃに荒れた。

……裕司が精神的変調をきたすのに、そう時間はかからなかった。

まず、夜になると晴れた日には一晩中、星を見上げるようになった。そして星座などを数えては、美しい星々に彼女の面影を重ねた。

「沙織……」

やがて彼は独り言を漏らすようになった。街を歩いていても、手をつなぎ歩くカップルを見ては『彼女』を想い、空虚に震える左手を握りしめた。大学に顔を出しても、授業は耳に入らず、キャンパスノートの一面にびっしりと彼女の名前を書いていた。

(星の見える夜には、僕らは逢えるんだ)

彼の目の前には美しい星空と静かな緑、あたたかな闇だけが広がっていた。

(僕たち、キスすら、まだだったよね)

「ふふ……っ」

どこまでも優しい、彼女の笑顔。それに向かって、裕司は手を伸ばす。空を切るその手には、空虚と喪失、孤独が載せられた。折り重なるそれらは確実に、着実に、彼を蝕んでいった。