壁掛け時計の音だけが部屋に響いている。彼の両親はさっきからずっと黙ったままだ。彼もまた、俯いてじっと床を見ている。僕がどうにか言葉を出そうと思案しているうちに、部屋に住吉が入ってきた。そうして書類を机の上に置いて、
「ケースカンファレンスの結果です」
とやや事務的に告げた。
「篠崎さんの入院形態ですが、現在は任意入院となっています。退院後は一般的には親御さんのもとへ戻っていただくことが多いですが、どうされますか」
「どうするもなにも、息子にはまだ治療が必要なんでしょう」
父親はそう言って眉間にしわを寄せている。母親は真っ青な顔をしている。この様子ではまだ、自分たちの子どものことを受け入れられていないのだろう。僕はたまらなくなって口を開いた。
「息子さんは、病気ではありません」
「はい?」
「一般的な範疇の感覚や行動とされるものからは多少の逸脱こそありますが、心の優しい繊細な青年です」
僕は本人に視線を移した。彼はやはり下を向いたまま動こうとしない。父親は
「こいつは、どうかしている。病気なんだ。ここにいる他ないんです」
強い口調でそう断言するものだから、僕も少しムキになってしまった。
「そんなことはないです。隼人さんはここにいるべきではない人です」
「じゃあ、先生が責任を取ってくれるんですか」
父親の冷たい言葉に、僕はすぐざま反論した。
「当たり前です」
その場が凍り付いた。しかし、構わずに僕は続ける。
「ここは癒しの場でも、救いの場でもない。僕は、隼人さんと一緒に、ここを去ります」
住吉が唖然とした表情で僕を見る。両親も虚を突かれた顔をしている。当の彼といえば、ちらっと僕を見て、首を傾げた。
「……話にならない!」
父親が机を殴打して、部屋を去っていく。母親はおろおろしながらその後をついていく。住吉は口に手をあてて驚いた表情を隠さないでいる。彼は、この場の雰囲気に飲まれることなく、空気のピアノを弾いていた。
熱を帯びた真夏の風が中庭を吹き抜けていた。ノウゼンカズラの花が咲き乱れ、季節の確かな巡りを主張している。この日、僕は外来担当で、慌ただしく業務をこなしていた。
そのさなかでも(これでよかったのだ)と、何度も自分にそう言い聞かせていた。
「先生、私は、これからどうしたらよいのでしょうか」
目の前の外来患者が苦悩の瞳を僕に向ける。
「ご自身は、どうされたいのですか」
「わかりません」
「そうですか」
心ここに在らず。そんな表現が相応しいと思う。
「殺されて、しまうのではないかと……暗殺者に」
「それは怖いですね」
僕は、患者の妄想を無碍に否定はしない。かといってむやみに肯定もしない。
「どうしたらいいのでしょうか、私はこれから」
「それは、僕も同じです」
「はい?」
「……いえ……では、薬を調整しましょう。夜は眠れていますか?」
院長に辞意を伝えると、辞表を提出するように言われただけだった。特段、慰留もされなかったし、ねぎらいの言葉もなかった。ここは、やはりそういう場所だったのだ。
更衣室で白衣を脱ぐときに、内ポケットからメモ帳が落ちた。彼の言葉を記した大切なものだ。
「ランパトカナル……」
結局、それの正体を彼の口から聞くことはできなかった。でも、それで良かったように思う。僕はメモ帳を拾うと、私服のズボンのポケットに入れた。そして、ふと鏡を見た。そこには、疲れ切った中年の男が映っていた。
ここに、僕の居場所はもうない。心底そう思った。
白衣の権威なんてものがあるとしたら、それはこの時のために存在しているのだ。僕は険しい顔で病棟へ向かった。施錠された入り口にカードキーをあてがい、暗証番号を入力する。高い機械音がして、扉が開いた。
「あら、森下先生」
夜勤帯勤務だった瑞江が声をかけてくる。僕はてきとうに頷いただけだった。
第九章 逃走 へ続く