第九章 脱獄

自分の人生にこれ以上、後悔は積み重ねてはならないという強い想いだけが、僕を突き動かしていた。このことを犯罪だとか、自己満足だとか、職権濫用だとか、いくらでも悪く言うことはできるけれど。

彼は不思議そうな顔で僕を見る。運転席の僕は、黙ったまま彼にミント味の粒ガムを差し出した。噛めば少しは落ち着くだろうか。助手席の彼は、ガムを僕から受け取るとしばらくぼおっと眺めていた。車が高速道路に乗ったあたりで、彼はようやくそれを口へ運んだ。

カーナビが、しばらくはまっすぐだと教えてくれる。

「時間も時間ですし、寝て行ってください」

僕がそう話しかけると、彼は一言、

「今度は、何の治療ですか」

と問うてきた。僕は胸が苦しくなった。治療行為でしか、彼と繋がれていないという現実を突きつけられた気がしたからだ。

「治療ではありません」

時刻にして午前二時半の高速道路は、物流の大型トラックが主で、僕の運転するクーペはひどく頼りなく感じられた。実際、この先に何が待っているのか、もしかしたら彼などよりよほど不安だったのは僕だ。

「先生、どこへ行くんですか」

きわめて率直な質問を彼はした。それに僕は、こう返答した。

「月の、よく見える場所へ」


サービスエリアで休息を取るために車を停めると、僕は仮眠を始めることとした。

「篠崎さんも、寝てください」
「それは、指示ですか」
「いえ。ただのお願いです」
「そうですか」

真夜中のパーキングエリアはトラックの運転手や若者たち男性が中心に利用されており、これなら僕らも紛れていておかしくはないはずだと自分に言い聞かせる。ふとスマホを取り出すが、不在着信は一件もなかった。

僕は彼にハンドタオルを渡した。

「使ってください」

彼は緩慢な動作でそれを受け取る。僕は運転席のシートを倒して、自分の目の上にもハンカチを置いた。

「一体、どういうことですか」

ようやく、彼が訊いてくれたので、僕は口角をにっと上げた。

「どういうことかなんて、僕にもよくわかりません」
「え……?」
「ひとまず、寝ましょう。朝が来たら、そこのショップでコーヒーとサンドイッチでも」
「……」


人類には一定程度、利己的な遺伝子というのが存在するらしい。昔、どこかの詩人がそのような表現をしていた。科学的に証明されていることというよりは、そういう性質を備えた人間のことを、遺伝子レベルでそうであるかのように表した言葉だろう。もしかしたら僕は、その遺伝子の持ち主なのかもしれない。自分のためだけに、彼を精神科病院という名の監獄から連れ出してしまった。

けれど、不思議なことに後悔はなかった。一種の昂りさえあった。真夜中とはいえまだ暑かったので、車内はクーラーを効かせていた。僕はなかなか寝付けなかった。それでも、隣で彼が穏やかな寝息を立て始めたのを聞くと、徐々に気持ちが和んだ。そうして、僕もまた、眠りについた。

運転席に夏の強い陽射しが入ってきてしばらくしてから、僕はうっすらと目を覚ました。おぼろげな意識の中でも、僕の手は隣で眠っているはずの彼に伸ばされた。ところが、その手は空を切るばかりだった。僕はすぐに異変に気づいた。彼が、いない。勢いよく身を起こし、すぐにドアを開けた。足がもつれて、体がふらついた。なんと情けないのだろう、若い頃はこんなこと、なかったのに。

「篠崎さん!」

フラフラしながら名前を呼ぶ姿は、周囲にはさぞかし滑稽に映ったと思う。近くに停車していた家族連れがそろって不審な目をこちらに向けた。

僕はなんとか体勢を整えると、サービスエリアの隅に設えられたベンチに走って向かった。そこからなら、山々が一望できることを思い出したからだ。

案の定、彼はベンチに座って腕組みし、遠くを見つめていた。その姿は、真夏の陽のもとにあって、天使の彫像のように眩しく見えた。だから、僕は息を飲んだ──初めて彼と出会った、あの日のように。

「何を、見ているのですか」

僕が話しかけると、彼はおもむろに鼻歌を歌い出した。

それが何の曲なのかは、すぐにわかった。デイドリーム・ビリーバーだったからだ。僕は彼の隣に腰を下ろすと、その歌に合わせて体をリズムに乗せて揺らした。

そうだ。もう主治医と患者という関係ではない。何者でもない彼と、医師失格の僕と。何もない同士なら、それはもう一緒にいていい理由になるではないか。僕は彼を見つめた。彼もまた、僕の目を興味深げに覗き込んでくる。僕の両手がぎこちなく彼を包み込み、彼が僕の胸にその身を預けてくれたのは、その直後のことだった。

しばらく二人で、蝉時雨に耳を傾けていた。心地よい響きは、生命の胎動のように思えた。

「先生は、もう知っているでしょう」

僕の耳元で、彼が囁く。僕は頷いた。

「ランパトカナル、ですね」
「はい。今、先生の手に満ちているものが」

彼こそが、僕にとってのランパトカナル。理屈抜きに、そう感じた。眩しい陽射しが、しばらくの間、僕たちを包み込んでいた。

第十章 名前 へ続く