第十章 名前

対象から自分の一部へ。それはなんとも哲学的な体験だった。僕の中に棲みついていた孤独や傷が、まるごと肯定されていく感覚すらあった。こういうのを、もしかしたら人はぬくもりだとか呼ぶのだろうか。

悲しみが両手に満ちたら、それを彼は月に還すのだという。あの日からずっと、彼は「悲しい」と訴えていた。そしてそれは解決されなければならないことと、克服して消し去らなければならないことと、長いこと僕は勘違いをしてきた。悲しみとともに歩む人生があってもいいではないか。幻覚や妄想とともに生きる道もあるのではないだろうか。そしてその道程に、寄り添ってくれる誰かがいてくれるのなら、それこそを「幸せ」と呼んでいいのだと思う。

あれからまた高速道路をしばらく走って、北を目指した。汗をたくさんかいたので、カーナビで探して、下みちにおりてスーパー銭湯に立ち寄ることにした。その前に、着替えを買うためにショッピングモールに入った。そこで夏物の最終セールをしていたので、シャツとジーンズを二着ずつ、下着は三セット、購入した。小腹がすいたので、フードコートでたこ焼きを食べた。彼は猫舌らしく、ふうふうと懸命に冷ましながら食べていた。

スーパー銭湯に着いたのは夕方だった。地元住民でとても賑わっていた。自分たちも、脱衣すればその何気ない風景に溶け込める、そんな気がした。

シャワーののち、ざぶんと大きな湯船に二人して浸かる。彼は感慨深げに長く息を吐いた。

「気持ちいいてすね」

僕が話しかけると、彼は心底リラックスした様子で応答した。

「足が好きなだけ伸ばせる風呂なんて、いつぶりだろう」

僕は心に痛みを覚えた。病棟の風呂は通年で週三回、月水金。それも一回二十五分という制限付きだ。時間を守れなければ、看護師たちがずけずけと入ってきて注意をされる。このことだけでも、精神科病院という場所が決して癒しの空間などではないことがいえる。

「のぼせないでくださいね」
「先生も」
「僕はもう、篠崎さんの主治医じゃありませんよ」

彼は一度鼻元まで湯に浸かり、ちゃぷんと音を立ててすぐに顔を出した。そうして、少しだけ躊躇するように頬をかいて、しかしハッキリとした口調で僕にこう告げた。

「……隼人、です」
「え?」
「ちゃんと、名前で呼んでください」

僕は面食らった。けれど、驚きよりも嬉しさが優った。

「じゃあ隼人、僕のことも芳之、と呼んでほしい
「よしゆきっていうんですか、森下先生」
「だからもう、先生なんかじゃないって」

僕は腕を広げて隼人の肩を抱いた。彼はためらいがちに、僕の腕におさまった。

風呂上がりに、隼人とコーヒー牛乳を飲んだ。もちろん、腰に手をあてながら。それは、今まで飲んだどんな高級なワインよりも美味しかった。

着替えが終わると、鞄の中でスマホが光っているのが見えた。画面を表示すると、そこには十数件にものぼる病院からの不在着信が残されていた。僕は一度だけ咳払いをし、隼人がマッサージチェアに沈んでいるのを確認すると、物陰に隠れて着信履歴を消去した。

「芳之、どうしたの?」

隼人がすっかりリラックスした様子で声をかけてくる。僕ははにかんで、

「なんでもないよ」

と答えた。

すっきりとした顔つきで、隼人は新しい服に着替えた。見違えるようだった。改めて、その佇まいが美しいと思った。少しやつれてしまった体も、濡れたままの髪に宿る滴も、憂いと悲しみを帯びた瞳も、まるで宝石のようだった。僕は自分にほとばしる衝動に逆らうのをやめた。僕だって一人の人間だ。誰かを大切に思う権利があるはずで、それが隼人ではいけない理由はどこにもない。隼人を支配する悲しみを消し去ることはできなくても、一緒に悲しみに巣食われることはできるのだ。僕はしばし、彼に見とれた。

「芳之」

名前を呼ばれて、僕はハッとした。

「これからどうするの」

彼の率直かつ素朴な問いかけに、僕は力なく首を横に振った。

「わからない」
「じゃあ、一緒に考えよう」

これではどちらが医師で患者であったかわからない。もっとも、もうそんな隔たりはないのだけれど。

「どうしても隼人に綺麗な月を見せたいんだ」

僕がそう言うと、隼人は小さく頷いた。

「ありがとう」

その表情は、人に許しを与える小さな神さまのようにみえた。


車はさらに北を目指した。僕が北を目指すのは、昔、小学生の時分に行った、とある山を目指しているからだ。そんなに標高はないのだが、空気がとても綺麗で、その山腹から見た月が見事だった。数少ない家族との思い出で、あの頃は父も母も、よく笑っていたように思う。小学生時代なんて、はるか遠い昔のことだけれど。

その話をきいた隼人は、

「芳之の思い出に触れられるのなら、そこがいい」

と言ってくれた。純粋に、嬉しかった。

日が暮れるのと同時に、ゲリラ豪雨に見舞われた。ワイパーが忙しなく動いて、その音だけがしばらく車内を支配していた。助手席の隼人は、うとうとと船を漕いでいる。僕は右手でハンドルを握り、左手で隼人の額に触れた。稲光りが隼人の顔を浮かび上がらせる。綺麗だ。心からそう思った。

雨が去って、濡れた路面が残された。照明に照らされたそれらは、ひどく妖艶に感じられた。

高速を降りると、僕は車を近くのコンビニに停めてスマホを取り出した。見れば、またも不在着信が何件も記録されている。しかし、見たことのない番号からだった。僕はコホン、とわざとらしく咳払いをし、隼人が眠っているのを確かめると、折り返しの電話をかけた。

「森下です」
「もしもし、住吉です」
「ああ、何度もお電話いただいたようで」
「病棟の電話は使えないので携帯から失礼します。森下先生、何をされていましたか」
「出られなくてすみません、自宅で論文を書いていました」

もちろん、これは真っ赤な嘘である。

「結論から申し上げます。事件性があるとして、岩本先生の判断で警察への通報を検討しています」
「……なんのことでしょうか」

岩本というのは、同じ病棟を担当する先輩医師である。製薬会社との癒着が深く、患者を薬のマーケットの標的としか見ていないきらいがある。決して尊敬できる先輩ではない。

僕は冷静を装って、住吉の言葉を待った。

「私も瑞江師長も、みんな心配しています」
「ですから、なんのことですか」

明らかに住吉が苛立ったのが、スマホ越しでもわかった。一呼吸置いてから、彼女はこんなことを言ってのけた。

「あまり私たちを、見くびらないでください」
「え?」
「私たちが、誰を信頼して仕事してると思っているんです」
「それは……」
「これ以上、心配をかけないでください」
「……」
「何よりも、無事に、帰ってきてください」

僕は穏やかな寝息を立てている隼人を見ながら、頭を下げた。

「……すまない」

帰る場所なんて、もうあそこにはない。隼人のいる場所が、僕のいるべき場所なのだから。

己の身勝手さを、誰に裁いてもらおう。できることなら、これはれっきとした罪なのだと糾弾してほしかった。しかし片方で、これでいいのだという確信があった。

かつてイタリアにはフランコ・バザーリアという精神科医がいた。彼の文字通り命がけの行動によって、イタリアでは数十年前に精神科病院が解体された。「自由こそ治療だ」、彼はそんな言葉を残している。

彼のようなヒーローになれなくても、隼人という大切な存在一人守れなくて、何が医師だろう。この国で私利私欲に走っている精神科医なら、嫌というほど見てきた。僕たち精神科医は間違っても癒しなど提供しないし、そもそもできない。何より、僕はもう隼人の前では医師であることを手放したのだった。

僕は住吉との電話を切ると、再び車を走らせた。

夜の国道をしばらく行くと、隼人が目を覚ました。そしてぽつりと、「あ、おはよう」と、目をこすりながら呟いた。

「まだ夜だよ」
「何時?」
「8時前。どこかで夕飯を摂ろうか」
「そんなにおなか空いてない」
「じゃあ、ちょっとだけどこかで休憩しよう」
「うん」

そういえば、僕は隼人のことをほとんど知らないことに気づいた。私立大学の二年生であったこと、アパートで一人暮らしをしていたこと、くらいしか僕の記憶にない。ただ、病院に来る前はとても努力をして家賃をアルバイトで稼いでいたことくらいは、両親から聞いたので辛うじて知っている。

「隼人は、ずっと頑張ってきたんだよね」

運転しながら僕がそう声をかけると、助手席の隼人はコンビニで買ったオレンジジュースを飲むのをやめて、首を傾げた。

「どうしたの、急に」
「知りたいんだ、隼人のこと、ちゃんと」
「そう」
「ああ」
「どうして」
「どうしてって……」

僕は言葉に詰まる。隼人はジュースのパックを潰してビニールバッグへ放った。

「たぶん、あまり、面白くないと思う」

隼人が目を伏せる。

「ごめん、話せたら、でいいから――」
「俺は、出来損ないの罪人だから」
「えっ」
「俺は、芳之みたいにエリートじゃない」

僕は返答に窮した。それからは、なんだか気まずくなって、しばらく黙ったまま車を転がした。

やがてひと気のない道沿いにあった喫茶店に車を停めた。二人とも何も喋らないまま、砂利道の駐車場を歩いた。階段を数段上がって、木製のドアを開けると、カランコロンとドアベルが軽快な音を鳴らした。

「いらっしゃいませ」

壮年のマスターがカップを磨きながら、ちらりと視線だけをこちらに向けた。

「二名です」
「お好きな席へどうぞ」

そう言われたので、僕たちは店の一番奥にあった半個室を選んだ。ソファに身を沈めると、隼人は深呼吸をした。

「大丈夫か」
「うん……」

その声色で、僕は隼人が調子を崩しかけていることを感じ取った。

「少し水を飲んで」

僕に言われるまま、隼人は運ばれてきたコップの水を口に含んだ。

「今、どんな気分?」
「わからない」

隼人はしばらく俯いていたが、マスターがオーダーを聞きにきたので顔を上げた。その瞳は、くすんだ黒曜石のようだった。僕は一瞬だけ息を飲んだ。

「ご注文は?」
「あ、マンデリンとホットミルクを」
「かしこまりました」

マスターが去ると改めて、僕は隼人の挙動を見つめた。隼人は突然、テーブルをピアノに見立てて両手をゆらゆらと動かし始めた。リズムに乗って体を揺らしながら。

「芳之、カフェイン飲めないんだ」
「うん?  ああ……」
「ふーん」

隼人はほのかに笑った。

「カフェインもタバコも、やめたんだ」
「偉いね」
「そうかな」

奇妙な沈黙がおりる。しばらく、トントンと隼人の弾く空気ピアノだけが響いていた。それが、壁掛け時計の秒針の音とリンクして、不思議な浮遊感をしばし味わった。トレモロを弾くような仕草をして、隼人はふとこんなことを話し始めた。

「病棟で音楽療法の時間があるでしょ、毎週火曜日の午後」

僕は小さく頷いた。

「あれは、俺にとって苦痛でしかなかった」

隼人は自分の指先をじっと見る。僕もつられてなめらかなそれを見つめた。

「俺のほうがちゃんと弾ける、もっと上手く演奏ができる。そう思って、看護師に頼んだこともあったよ。デイルームのピアノを弾かせてくれって」

確か、看護師長の瑞江はそれを禁じていたと記憶している。

「知ってる? ピアノって一日弾かないと三日分下手になるんだ」

隼人はトン、と左の親指をテーブルの縁に強く打った。

「もう弾けないだろうなぁ、ベートーベンもショパンも」

そして寂しそうな表情でピアノを弾くのをやめた。

「そういえば、アパートにピアノはあったのかい?  ピアノなんて、そんな簡単に置けないだろう」

僕はふと思った疑問を投げかけた。すると彼は、首を横に振った。

「なかったよ」
「そっか。じゃあ、どこでピアノを弾いていたの?」
「言えない」
「え?」
「きっと、芳之は俺を軽蔑するだろうから」
「……?」

僕の頭の中で、嫌な予感がパズルピースのように組み合わせってゆく。僕は可能な限りの記憶を手繰り寄せた。予感はすぐに確信へと化ける。よそよそしい態度の父親に、「ごめんなさい」を連呼する母親。両親が一度も面会に来ないというのは、悲しいことだが必ずしも珍しいことではない。だが、もしかしたら、彼には――

「お待たせしました」

マンデリンとホットミルクが運ばれてくる。

隼人のことを、自分は何一つわかっちゃいなかった。僕はこの数ヶ月、医師としては彼になにもしてあげられなかった。けれど、今ならば、いや、今だからこそ、僕は知るべきだと思ったのだ。

マンデリンのカップを持った隼人は、やはり猫舌なのだろう、何度も息を吹きかけている。

「急いでいるわけじゃないから、ゆっくり飲んでね」
「うん」

僕は隼人に気づかれないよう小さく深呼吸した。そして、意を決し問いかけた。

「隼人、君のことを教えてほしい」

すると隼人はほんの一口マンデリンを飲んでから天井を見て、息を長く吐いた。

「どうしても、知りたい?」
「知りたい。もっとちゃんと、君を知りたい」

さながら不器用な告白のようだった。それでも、これが今の僕に伝えられる精一杯だった。隼人は足を組んだり、頬をかいたり、しばらく思案していたが、壁掛け時計の秒針が一周したころになって、やっと口を開いた。

「……嫌いにならないかな? 俺のこと」
「まさか」
「わかった」

隼人はゆっくりと息を吐いた。

第十一章 幻影 へ続く