第十二話 子どもたち

「二人」は「家庭」や「日常」といったごくありふれた生活の記憶を、一切持たなかった。確かに彼らは望まれて生を受けたが、それは「利用価値の高い成功体」だからに過ぎなかった。その証拠に、彼らには名前が与えられず、識別のためのコードが割り振られただけだった。

M-07とF-05は、ほぼ同時に生命活動を開始した。研究者たちの目論見通り、M-07とF-05は身体的にはあらゆる部位で正常値を決して逸脱することなく、順調に成長した。第二次性徴を無事に越えれば、いよいよ「計画」は実行のときを迎える。

「世界平和の真の実現」のため、その計画は何としても実行されなければならない。研究者たちはM-07とF-05を徹底的な監視下に置き続けた。ラボから出ることを許されなかった M-07とF-05は、研究者たちの命令に従順であるという意味で、極めて優秀だった。

明もまた、研究者の一人として、自分たちの行っていることは「世界を救う」と信じて疑わなかった。分断が激化し、道徳の崩壊と倫理の頽廃が深化し、腐敗しきってしまった世界をあるべき姿に統合する。それが研究者たちの目的であり、願いであった。

M-07とF-05は、あくまでその目的の達成のためにつくられた存在だった。M-07とF-05がどんな喜怒哀楽を表現したところで、それらは単なるデータとして記録され、必要に応じて海馬や大脳皮質に修正が加えられることさえあった。

しかしある日、想定外の事件が起きた。M-07が、研究者の一人に大けがを負わせたのである。

M-07とF-05が、15歳を迎える直前の真夏の夜のことだ。F-05の胸元には僅かな膨らみが訪れていた。頻回に「精神面のエラー」が観測されていたF-05を「調節する」という口実で、その研究者はF-05を一糸まとわぬ姿にして、己の欲望を発散させようと企てた。

F-05の悲鳴に驚いたM-07が駆けつけると、研究者がF‐05に馬乗りになっていた。F-05の恐怖と絶望に満ちた黒い瞳と目が合った瞬間、M-07の「本来統制されるべき感情」は、一瞬で制御を失った。

M-07とF-05は「失敗作」とされ、「二人」の処分は、あっけなく決定した。F-05に暴行しようとした研究者は、自分のしようとしたことを伏せておきながら、「M-07には暴発的な凶暴性があり危険。F-05の精神面のエラーは不可逆的なレベルに達しており修復不可能である」と主張した。

そのうちにまた「成功体」はつくれるだろうとの見立てもあり、M-07とF-05は捨てられることになったのだ。

この「処分」を押し付けられたのが、明だった。「最後に何がしたい?」と問いかけると、M-07は「夕焼けが見たい」と言った。

「この世界には、『マジックアワー』というものが存在するんでしょう」

M-07は、ラボに所蔵されていた書籍でしか存在を知らない「マジックアワー」を一目見ることを望んだ。

「私は、カフェに行ってみたい」

F-05は、街角のカフェで淹れたての紅茶を頼んでみたいのだという。

「そんなことでいいの? きみたちは、死んでしまうんだよ」
「だからこそ」

M-07が、毅然と答えた。

「僕は――僕たちには、それ以上の望みはない。どうせ殺されてしまうのなら、せめてその望みを叶えたい」

F-05が、M-07の着用していた病衣のような服の袖を細い指できゅっと掴んだ。それをM-07がそっと握り返し、明をじっと見つめる。

処分を実行しなければ、明自身の出処進退に影響が出る可能性はある。だが、そもそも自分はなにを守りたいのだろうか。世界を守るためならこの二人が消されても、それは果たして本当に「仕方ない」ことなのだろうか。

「あとね、ワンピースっていうのを、一度でいいから着てみたいな」

二人の、こんなささやかな望みも叶えてやれないで、何が「世界を救う」だ。

他の研究者たちには、「M-07及びF-05の確実な処分のため、焼却施設のある場所へ行く」と伝えた。

白のミニバンに二人を乗せた明は、深夜の首都高速をひたすら西へと走った。アクセルを思い切り踏み込み、ウィンドウを全開にする。二人は、生まれてはじめて感じた風の心地よさに、子どものような歓声をあげた。

いや、二人だって「子ども」なのだ。たとえ実験体として生み出された命であっても、心を持った存在なのだ。そんな当たり前のことから、なぜ俺は目を逸らし続けてきたのだろう。

奥多摩湖が見渡せる山奥に、小さな丸太小屋の廃屋を見つけた。あちらこちらが朽ちており、天井の梁も歪んでいた。「できれば、都会にあるような洒落たカフェへ案内したかったんだけど」と明はこぼしたが、F-05は瞳をきらきらさせて明とM-07の手を取った。

「古民家カフェを開こう!」
「えっ?」
「ここを、カフェにすればいいんだよ」


買い出しからほくほく気分で「シエル」に戻った一同は、蒼斗から「今度の『まちのマルシェ』には参加しません」と告げられ、鳩が特大の豆鉄砲を食ったような表情になった。

「なんで?」

夕実の声は、戸惑いに満ちている。小夜は蒼斗を睨みつけながら、「みんなにきちんと、理由を説明すべきだよ」と迫った。

蒼斗がテーブルに落としていた視線をゆっくりと上げると、朝香も夕実も晴也も、こちらをまっすぐ見返していた。楓子に至っては、すでに目に涙まで浮かべている。

蒼斗は覚悟を決めたらしく、一度だけ長く息を吐いた。

それから皆に、市からの補助金が減額され続けて法人の運営が厳しくなっており、しかも補助金減額の原因が自分にあるのだと伝えた。

「原因って、なんなんですか」

朝香が努めて冷静に質問する。

「数ヶ月前、市の福祉課から広報誌に『しえる』を掲載したいという依頼がありました。それ自体は悪いことだとは思いませんでしたが、企画書を読んだ時点で、断ることにしました」
「どうして」
「企画趣旨に承服しかねたからです」

蒼斗が見せてきた市の福祉課作成の企画書の一文に、今度は夕実がぽつりと口を開いた。

「なに、これ」

『市が主催する、まちのマルシェにも参加! 心の病気を乗り越え、笑顔で接客をがんばる<カフェしえる>の皆さんを、思いやりをもって応援しましょう!』

晴也は、思い切り眉間にシワを寄せた。

「これは、断るのも無理ない」
「馬鹿にしてんのかな」

朝香が声を震わせる。心の病気を「乗り越え」、笑顔で接客を「がんばる」。「思いやり」で「応援」される。一般的にはその程度の認識しか持たれていない現実を、まざまざと突きつけられた。

自分たちはあくまで社会にとっては「憐憫の対象」であり、ゆえに「健常者を目指し、努力し続けること」を要請されているのだ。

要請というより、もはや脅迫に近い。

「彼らには、決して悪意があるわけじゃないんです」

蒼斗がフォローにもならないフォローを入れると、小夜は壁を一度だけこぶしで強く打った。

「だから、余計に悪質なんじゃない。私だってふざけんなって思った。でも、この話を蹴ったせいで、法人運営に対して市があれこれ書類の提出を求めてくるようになっちゃった。法人設置と市の歴史的背景との合理的な理由を述べよ、だのなんだのって。蒼斗くんは、ずっと身を粉にして頑張ってきた。っていうかもう、かなり無理してた。どうしても提出期限を守れなかったこともあった。市は、それを根拠にして補助金を減額してきたんだと思う」
「そんなの、完全に言いがかりじゃないですか」

朝香が、悔しさを全開にして吐き捨てるように続けた。

「『まちのマルシェ』? そんなの、こっちから願い下げだよ」
「蒼斗さん」

夕実が、詰まりそうになる声をどうにか絞り出した。

「やっぱり、一人で抱えてたんじゃないですか」

その頬には、静かに涙が伝っている。

「私たち、そんなに頼りないですか。どうしても信頼できませんか。だったら、それはきっと私の力不足です。いろいろなことを背負わせてしまって、ごめんなさい。でも、でもじゃあ、どうすればよかったんですか。どうしたら、変な隠し事をやめてくれますか。どうしたら、私、蒼斗さんの力になれますか。どうすれば。私……」

両手で顔を覆って泣き出した夕実の肩を、朝香はそっと抱いた。

あまりの重苦しさに「シエル」が埋もれそうになったその時、階段をどかどかと大きな音を立てて上ってくる足音が聞こえた。暁子とともに「ラッキー号」のメンテナンスをしていた明が、ようやく顔を出したのである。

「やぁやぁ。蒼斗、ひっさしぶり~ぃ。やだ、ちょっと痩せたんじゃない?」

その場の空気を一切気にしない、あっけらかんとした明の声に助けられたのは、おそらく朝香だけではない。

「え。なにここ、お通夜の斎場?」

明がその場をぐるりと見まわして、「まちのマルシェ」のチラシに目を留めると、「へぇ」とつぶやいた。

「市の主催イベントに、『真樹境界』が協賛するようになっちゃったんだ」

蒼斗は顔面蒼白になって、すがるように明を見た。しかし、その視線による制止は、明に全く効果がない。

「蒼斗。もう『すべて』、みんなに伝えたらどうだ? 大丈夫だよ。心配いらない。そのことは、蒼斗自身が一番よく知っているはずだろ」

夕実はこの瞬間から、蒼斗の表情が得も言われぬ不気味な空気を帯び始めたと気づいた。明の「俺から話せることではあるが、お前の口から伝えることに意味があると思う」という言葉を受け、蒼斗の瞳の奥には静かに、純然たる憎悪の影が差した。

誰もが息を飲んだそのとき、ふと暁子がその場の違和感に気づいた。

「ちょっと待って。楓子ちゃんはどこへ行ったの?」


「ぱぴぺぽルッコラ」に変身できないことを悲しんだ楓子は、拗ねた気持ちに突き動かされるまま「シエル」を飛び出し、「あけぼの公園」まで泣きべそをかきながら走った。「遊具エリア」の遊具一式に、悔しさをぶつけまくった。やがて疲れて、ぶらんこに座ったまま、何度も「あおとのばか」と呟いた。

夕暮れが「逢魔時」とも呼ばれることを、楓子は当然ながらまだ知らない。

そんなあどけない楓子は、どうやら「触媒」としての素質がじゅうぶんだと判断されたらしかった。

「お嬢ちゃん、どうして泣いているの?」

柔和な笑みを浮かべた女性が二人、楓子の眼前に現れた。彼女たちはお揃いのシャツを着用しており、胸元には、あのロゴマークが刺繍されていた。

第十三話 蜘蛛の巣 へ続く