第十四話 待ってるよ

蒼斗の口調はどこまでも冷徹で、告白というよりどこか遠い国の出来事を報告するようだった。運転席の明がスン、と鼻を鳴らし、蒼斗の代わりに礼を述べた。

「まぁ、そういうことなんだ。みんな、聞いてくれてありがとうな」

沈みゆく太陽に縋りつくように、ラッキー号は西へと走り続ける。目的地はもちろん、蒼斗たちが心を育んだ土地だ。

すべてを知ったメンバーの受け止めはまちまちだった。朝香は語られた内容を、にわかには信じることができなかった。晴也は表情を変えずに腕組みして、窓の外に視線を逃がしている。暁子は蒼斗の語りの途中から肩を震わせて俯き続けている夕実の手を、柔らかく包んでいる。

小夜が、蒼斗の話に全く衝撃を受けなかったといえば嘘になる。だが、その話が真実だとすると、楓子の身を案じる以上に小夜が優先すべきことはなかった。

「あの子は、どうなるの」

助手席の小夜は、サイドミラー越しに後席2列目の蒼斗を見た。しかし、蒼斗が小夜と目を合わせることはない。いま、蒼斗の瞳には目の前の風景は映っていないのだ。

小夜は、右親指の爪を人差し指に食い込ませるように拳を握った。

「あの子は、私のすべてなの」

蒼斗は、その言葉にも反応しない。それでも小夜は、運転席の明が頷いたことに促され、話を続けた。

「ただの自分語りだから、全然聞き流して。でも、お願いだから吐き出させて。

私ね、会社員のころ駆け落ちしたんだ。妻子持ちの上司と。『妻とは別れるから』ってテンプレートを、そのときの私は鵜呑みにしちゃった。なんせ、どうしようもない馬鹿だったから。

都心の味気ない高層ビル群から抜け出して、海の見える賃貸アパートにわび住まいを始めた。毎晩、寄せて返す波音が子守歌みたいで心地よかったし、『大切な人を想って待つ』って生活自体に、私は救われてしまってたのね」

小夜は、乾きそうになる唇を舌で湿らせた。小夜の言うとおり、「待つこと」とは「愛すること」に酷似している。しかしながら、「愛」が常に人にとって有益であるとは限らない。小夜はそれを、痛いほど知っていた。

強烈なめまいと吐き気に襲われた夜も、そのアパートに彼が姿を見せることはなかった。小夜は、それでも信じ続けた。彼と、生まれてくる子の三人で、この海辺で静かに暮らそう。小さくてもいいから、一軒家がいい。なにか仕事を見つけなくては。簿記2級なら持っているけど、それはこの土地柄、あまり役に立たないかもしれない。

私は、毎日郵便受けに入るチラシを目を皿にして、少しでも安く野菜や魚を買うことに熱心になる。ここは新鮮な魚がお手頃価格で入手できるから、とてもありがたいのだ。

あなたはそんな私を見て、「そこまでしなくても、別に財布は大丈夫なんだぞ?」と朗らかに笑ってくれる。この子も、そんなパパの様子を真似して私を笑ってみるのだけれど、ひとしきり笑った後で「でも、なにがおもしろいの?」なんて尋ねてきたりして。私もあなたも、この子のそんな様子がおかしくて愛しくて、みんなで笑って食卓を囲む。そんな毎日を送るんだ。

彼と音信不通になり、毎月の銀行口座への生活費の振り込みがぱたりと止まった。それから数か月後、彼は「碑」となったのだ。小夜がようやく現実を受け入れたれたとき、すでに臨月を迎えていた。

帰ろう。そう決めた小夜は、ほぼ着の身着のままで自分の生まれ育った街を目指した。電車を幾度か乗り継いでたどり着いた故郷に、しかし小夜の行き場はなかった。両親からは勘当されていたし、大学も職場も、ここから遠く離れた都心にあった。

望郷の念はあったのに、頼れる人や場所を、小夜はこの街に見つけることができなかった。

死にたいほどつらかったけれど、「死のう」とは思わなかった。もうすぐ産まれてくるこの子を守れるのは、自分だけだから。でも、どうしたらいい?

ぐらぐらする頭で考えたのは、公的な支援を求めることだった。その日、午後5時の閉庁時刻が迫っていたが、小夜は藁にもすがる想いで身重の体を市役所の窓口へ運んだ。ところが、市職員は「そういうことは『男女共同参画センター』へどうぞ」とリーフレットを渡しただけだった。

目の前が真っ暗になりかけたそのとき、すぐとなりの窓口で「この野郎!」という怒声がした。小夜がそっと覗くと、ひげ面の男性と物静かそうな少年が座っていた。ひげ面のほうは、今にも窓口の職員に殴りかからんばかりの勢いである。隣の少年は、気まずそうに俯いていた。

「経理は確かに重要、そんなことは百も承知だ。俺がこれから頑張って勉強するから、何も心配ない。福祉系の有資格者の配置要件なんて、とっくに撤廃されたはずだ。これでもう3回目の不受理じゃないか。嫌がらせか? どうしても住民票やら身分証が必要なのかよ。おたくじゃ話が進まない、責任者を出せ!」

ひげ面はいよいよ激昂したが、無情にも午後5時を報せる童謡の「赤とんぼ」が庁舎内に響きはじめてしまった。少年が「もう、帰ろうよ」とひげ面のシャツを引っ張る。

ひげ面は窓口にぴしゃっとカーテンが引かれても、意地になって立ち上がる気配がない。警備員がおそるおそる近づくが、ひげ面の剣呑な雰囲気に怖気づいているようだ。少年が「すみません」と、その警備員やそそくさと帰宅する職員たちに何度も頭を下げている様子を見かねた小夜が、思い切って声をかけた。

「経理って、ほんと重要ですよね」
「ん?」

ひげ面が小夜を見る。あごひげのせいで大きな熊のように見えていたその男性は、近くでみると目がつぶらで、どこかぬいぐるみのような雰囲気すらあった。少年が、人見知りしてその広い背中の陰に隠れる。

「私、むかし企業の経理課にいて。簿記2級なら持ってます」
「んん?」

ひげ面——明が、小夜の姿を見て率直な質問をした。

「あなた、もう産休とかじゃなくて?」
「いえ」

小夜は力なく笑った。

「そんな身分じゃないんで」
「んんん?」

人との出会いとは、常に偶然だ。そこには「別れは、例外なく必然である」という言葉が続くが、だからこそ、小夜は一つひとつの繋がりを大切にしたいと痛切に感じていた。裏切られ捨てられ、帰る場所も居場所も失ったからこその想いなのかもしれなかった。

その後、法人設立申請に必要な書類の作成を小夜が手伝ったこともあり、なんとか「シエル」は開所にこぎつけた。

申請書類の度重なる不受理が、法人設立予定の所在地「廿里町」という地名を、明がずっと「甘里町」と誤記載していたのが原因、という顛末はいまだに語り草となっている(もちろん、「だったら窓口で指摘してくれても良かったじゃん」と小夜が市役所でブチ切れ、明と蒼斗が懸命に宥めたこともセットである)。

無事に開所に漕ぎつけた「シエル」は、憩いの場として、とまり木として、駆け込み寺として、街の人たちにとっての居場所となっていった。

蒼斗が法令上、施設の責任者となれる年齢に達したその年の暮れ、明は「もういいかなぁ by あきら」とだけメモに書き残し、ラッキー号で気ままな旅を始めた。傷だらけのアコースティックギターと、あの日見届けられなかったマジックアワーを収めるためのカメラを携えて。

明の突然の失踪に、小夜は大慌てで二階へ駆け上がり、大掃除で窓のサッシ汚れと格闘していた蒼斗に走り書きのメモを見せた。

ところが、蒼斗は穏やかな表情を崩すことなく、たった一言、こう言った。

「いずれ、こういう日が来ると思ってました」

当時まだ物心のついていなかった楓子には、何が起きているのかは理解できなかった。だが、蒼斗がとても悲しそうに見えたので、掃除に使っていた古い歯ブラシでサッシをばんばん叩いて「うわぁーん!」と声をあげて泣いた。

「シエル」は、これからは私たちで守っていかなければならない。小夜は、泣きじゃくる楓子を抱きしめながら、覚悟を決めたのだった。

「私にとって、『シエル』は第二の実家なの。仕事と居場所を得て、また生き直そうと思えた場所だから。楓子が生まれてからは、特に暁子さんから子育ての知恵をたくさん教えてもらった。蒼斗くんは、明さんから施設を託された頃より、とても逞しくなった。晴也くんや夕実ちゃんがきてくれるようになって、朝香ちゃんも加わってくれて。

なんかさ、むずがゆいことを言うけど。ああ、『シエル』って、みんなの居場所だし、『帰る場所』なんだなって思ったの。

楓子は、みんなからとにかく可愛がってもらって、たくさんの愛情を注いでもらって、本当にのびのび育ってくれてる。それは、私一人では到底できなかったことだから、みんなには感謝してもしきれない。私にとってそんな楓子は、唯一無二の存在なの。だから、私、私は」

ここで、小夜が言葉を詰まらせた。

「楓子は、絶対に助け出す」

蒼斗が厳然とした口調で、託宣するように言葉を放った。


「こんなとこ?」

朝香が、「なんか意外だな」と本音を漏らした。ラッキー号は奥多摩湖を目指したが、蒼斗はミニバンでは進めない勾配の山道を更に奥へ行くよう一同を導いた。

「俺は、ここで待ってるよ」

ラッキー号から降りた一同に、明は告げた。

「待つこと」は「愛すること」にとてもよく似ている。その「愛」が、時として人を傷つけることもあるだろう。だが、それはあくまでも結果であって、「待つこと」つまり「愛すること」が、純粋に相手を想う行為であるのは間違いない。

「留守番だって必要だろ。みんなが戻ってくる時、道に迷わないように、歌でも歌って待ってるさ」
「あら、一人で歌っててもつまらないわよ。よかったら、コーラスをご一緒していいかしら」

暁子の申し出に、明は「大歓迎。最高だ」と笑顔を見せた。

「みんな、行ってきてくれ。そんで、必ず『全員』で、戻ってくるんだ。これは、約束……は、あまり好きな言葉じゃないから……そうだな」

明はあごひげを撫でて、ちらりと晴也を見た。その視線に応じて晴也が出した提案に、一同は強く頷いた。

「『ただいま』と言うまでが『遠足』だ」


ラボは「凪」以後、「真樹境界」は本部機能を都心の地下空間から奥多摩の山頂に移転させた。社会を「平和を維持し、その状態を少しでも長続きさせるため」、というのが表向きの目的だ。しかしその実は、「真樹様しんじゅさま」の神格化とラボが犯した非人道的行為の証拠隠滅に都合が良かったからだ。

山頂に、周囲の自然と決して調和することのない純白の建物が存在している。地上から見える部分はごく一部で、地下にはかつてのラボと同程度の空間が広がっており、最奥の空間に真樹は祀られている。正確には、幽閉されていると表現すべきだろう。

真樹は、手に入れた楓子がかわいくて仕方ない。かわいいから、ずっとそばに置いておきたい。そんな真樹の身勝手な願望と、楓子を触媒として利用することとの相性は、楓子にとって最悪だった。なぜなら、人間を触媒とする際に最も邪魔となるのは、「心」だったから。

「お母さん……!」

楓子がようやく絞り出した悲鳴を無視して、真樹はにっこりと微笑み頬を撫でた。

「もうすぐ何もかもわからなくなるから、安心して」


山頂へと走っていた一同の視界に、直方体の無機質な建築物が入ってきた。辺りは宵闇に包まれていたものの、十六夜の月の光がその白さを不気味に浮かび上がらせている。

息を切らせて、朝香はその扉に手をかけた。体重をかけて押し開けようとした刹那、「その瞬間」を感受した蒼斗が、「ああああああっー!!」と絶叫した。

最終話 夜明け へ続く