夕立

ワイパーがせわしなく動いている。打ちつける雨は容赦という言葉を知らない。フロントガラスを襲う水滴は、ハンドルを握る隆弘の気分を苛立たせるのに十分だった。 あの日も、こんな空だったら。そんなことを考えてしまうのだ。 青の冴…

お友達

カーテンでのみ仕切られた部屋で、ある晩、僕に新しいお友達ができた。 彼はもじゃもじゃの金髪に赤い鼻、派手な水玉模様のサロペットに虹色のチョッキを着ていた。終始、楽しそうに笑顔を浮かべていた。 名前を知らないので、仮に「暗…

爪切り

隣の部屋から、パチンパチンと爪切りの音が聞こえる。今の私にはそれすら疎ましく感じられた。毛布を体に巻きつけて、ふてくされて横になって、私は長いため息をついた。 喧嘩した。ことの発端は情けないほど些細なことで、犬どころかき…

雨傘

五時半に渋谷で、と彼からラインが届いた。金曜日の夜の渋谷なんて、人混みがすごくてうるさいに決まっている。気が重かったが、断るわけにもいかなかった。彼から借りた傘を、今日こそ返さなければならなかったのだ。 黒のコウモリ傘。…

エビフライ

エビフライを揚げていたら、油が跳ねて目に入りそうになった。麻衣子は慌てて洗面所に駆けて、夢中で顔を洗った。というか水で乱暴に何度も拭った。 やだ、どうしよう、跡がついたらやだ。 顔にシミなんて、まだ勘弁だ。 台所から鈍い…

置き去りバレンタイン

【カルテNo.3745 皆川亜樹(ミナガワアキ)】 21歳3カ月、女性。境界性人格障害。 大学生。入学当初より、一人暮らしの緊張や慣れない土地での暮らしに疲れ、不眠となる。 アパート近くの心療内科に二年間通院。一年ほど前…

物語のはじめかた

シンデレラや白雪姫……「お姫様」は、女子の永遠の偶像だ。幼いころ、毎日寝る前に母親に童話を読んでもらっているうちに、比奈子はすっかり絵本に出てくるお姫様に憧れを抱くようになっていた。 比奈子が絵本など読まなくなった高校二…

Amour

「ああ、あの子なら先日、天使になっちゃったよ」 苦笑混じりのその言葉に、僕は持っていた花束を薄汚い廊下に落とした。 「先日って具体的にいつですか」 やや責めるような口調になってしまうのが自分でも悔しい。 『白衣の天使』は…

逝夏

「まるでショパンに対する冒涜よ。そんな弾き方ってないわ」 僕の『幻想即興曲』を水玉はそう評した。 「そうかな」 僕はこみあげる感情と一緒に指先でG#を抑える。反論するわけではないのだが、僕にだってプライドの一片はあるから…

虫歯の国のアリス

やせ我慢を決め込んでいたけど、日増しに高まっていく歯の痛みに、芦花ありす(16歳、花の女子高生)は嫌々ながらついにその日、歯科医院のドアを叩いた。 『ハートデンタルクリニック』という、街はずれにある小さなクリニックである…