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しゃぼん玉

卯月の手前の日曜日、珍しく雪の積もった私たちの住む街は、少し怖いくらいにしんと静まりかえっていた。マンション四階の窓から外を眺めると、はらはらというよりはぼたぼたと雪が落ちて窓に打ちつけていた。

「うわー、季節外れ」

私が声をあげると、きみは文庫本から目を離さずにこういった。

「それって、どういう意味?」
「え?」
「3月の終わりに東京で雪が降るのはおかしいことかな」
「別におかしくはないけど」
「そう」

きみは本を閉じると、洗面所に向かっていった。私はソファに横になってそのままうたた寝を始めようと目を閉じた。

眠りに落ちるより前に、私はもう一度まぶたの裏にぎこちなく舞う白いかけらを思い浮かべた。

ふと、いつかテレビでたくさんの珊瑚礁が白化して死に至るというニュースが流れていたのを思い出した。その時に映像で観た珊瑚の白片は、今日この街に降り注いだそれにそっくりだった。

このとき「なんだか悲しいな」と私はいったのだが、きみは「これはこれで綺麗だね」といったので、本当に悲しくなってしまったのを思い出した。

ほのかな石けんの香りに気づいた私は、はたと瞬きして目を覚ました。時計の針が午後四時過ぎを指した頃、私の視界へ「おかしな」光景が飛び込んできた。

きみが紙コップとストローでしゃぼん玉を作っていたのだ。そのなかでもとびきり大きな一つが、私の目の前までふよふよと遊びにきてくれたのだが、私が手を伸ばすとあっけなくぱちんと弾けて消えた。

「変なの!」

昼寝を邪魔された私が少しだけ不機嫌にいうと、きみはわざと勢いよく息を吹いて、小さなしゃぼん玉をたくさん作った。

「おかしい?」
「うん」

きみは何が嬉しいのか、それからもしばらく洗面所からしゃぼん玉を作り続けていた。そのうちのいくつかはリビングにまで届いて、私のよく見える場所で消えていった。

「おいでよ」

きみがそういっても、私は首を横にふった。

「怖いの?」

なんという挑発をするんだろう。

そんなもの、怖いに決まっている。美しいものほど、すぐに目の前から消えてしまう。しゃぼん玉はいつだって、そのことを教えてくれているじゃないか。

「また作ればいいよ」

私の臆病さをよく知るきみだ。雪もしゃぼん玉も、明日にはすっかり消えてしまうし、消えてしまったことも、きっと私はもう気にしなんてしないのだろう。気にしないうちに忘れてしまって、忘れたことそのものを忘れてしまうのだ。

そう考えたら急に怖くなってしまって、私は考えるより先にソファから起き上がって、すぐにきみの横にぴたりとくっついた。

「どうしたの」
「それは、私のセリフだと思う」
「じゃあ、言ったら?」
「どうしたの」
「どうしたんだろうね」

なんだかおかしくなって、私たちは笑いあった。しゃぼん玉なんて何年ぶりだろう。
ストローを今度は私が吹いて、しゃぼん玉をリビングに飛ばした。そのうち一つが、きみのお気に入りの文庫本の上ではじけた。

「あー」

きみが楽しそうに手を叩く。私も楽しくなってどんどんしゃぼん玉を作っては失った。そのすべてが悲しくて、だから祝福すべきだと私たちはわかりきっていた。

外は暗めの曇天、せっかく満開になった桜もこごえていることだろう。花びらも湿った雪に耐えられずに散っていることだろう。

何もかもが他人事のような気がしていた。けれど、きみとの時間だけが私にとっての本当であれば、それでいいと思う。なにがあっても消えてほしくないと、強く願った。

たとえこのしゃぼん玉みたいに今のこの想いがはじけて消えてしまう時がきても、ふたりで過ごした時間は本当なんだと、いつか「その時」が来ても信じていられますように。

きみは文庫本を手にして、私に窓の外を見るよう促した。私がつま先立ちで窓辺にたたずむと、きみは後ろから腕をまわしてきた。

向かいの一軒家の屋根の上の雪は、すでに溶けかかっている。「なんだか寂しいな」と私がいうと、「これはこれで綺麗だね」ときみがいうから本当に寂しくなってしまったので、私はきみのセーターの袖に噛みついた。ふわりと石けんの香りがした。

変わらないものなんて、何一つ望んでいないよ。何もかもが流転して色彩も体温も変えてゆく。それは私だって同じことなんだ。

だから、いまこうして一緒にいられることも、当たり前だなんて、決して思わないよ。

純愛とか笑わせんな

「志望動機は?」

同期の中竹佳樹がタバコ片手にだるそうに聞いてくる。山積みになった捜査資料にゲンナリしていた僕はため息をついた。

「就活生かよ」

「社会の平和を守るため、は嘘だろ」

「なんでだよ」

「志望動機は?」

竹中は容疑者を詰問するような威圧的な口調で質問を繰り返した。

「なんで刑事になんてなろうと思ったんだ」

「別にどうだっていいだろ」

……言えない。

合法的に「こういう」画像を見られるから刑事になっただなんて、とても言えない。

僕は資料ファイルを閉じると、表紙部分に貼り付けられている数枚の写真を一瞥した。そこには今追っている事件の被害者が写っている。

——あらゆる角度から撮影された、惨殺死体が。

きみが生きている限り、僕はきみを愛せない。

「どうせ殺すなら、私にしてくださいね」

警視庁捜査一課きってのじゃじゃ馬事務員、宮川香織は僕のデスクにホットのルイボスティーの入ったマグカップをどんと置いて、トレイをひらひらさせながらそんなことを言い放った。

「いきなり何言ってるんですか」

「だって、そういう目をしてるんですもん」

「目?」

宮川は僕の顔をじっと覗きこんだ。

「私ね、父の職場見学で子どもの頃からたくさんの殺人犯に会ってきたんですけど」

「それ、いいの⁉︎」

「さあ。で、秋山さんって彼らと『おんなじ目』をしてるんですよ」

「はい?」

それだけ言って、宮川は鼻歌まじりに足取りも軽く去っていってしまった。

僕はそれが仕事にもかかわらず、いかがわしい本でも隠すかのような仕草でそそくさと捜査資料を片付け、席を立った。

きみが生きているせいで、僕はきみを愛せない。

きみが、生きているせいで。

ジグソーパズル

完成したら、終わり。終わってしまえば額縁に飾られて風景画未満になる。

だからふたりのジグソーパズルが完成しないように、私は思い出のひとかけらをポケットにしまった。

「なんだっけ、きみが行きたがってたカフェ」

スーパーマーケットで買った惣菜ととき卵の味噌汁という簡易な夕飯の食卓で、きみはきんぴらごぼうに手を伸ばす。

「なんだっけ」はきみの口ぐせだ。

「並木町のほうのさ、イタリアンの」

「『マルベリー』かな、それとも『ロゼット』かな」

「なんだっけ」

私はそんなきみの口ぐせが好きだ。たとえそれが、病気に所以するものであったとしても。

毎月第三火曜日、きみは精神科に通院をしている。以前は二週間に一度。その前は毎週。さらにその前は通院どころか入院をしていた。

もうずいぶん前の話だし、その頃の話をきみからすることはめったにないので、私からも深く問うことはしない。

別の日、海岸に出かけることになった。どうしても海が見たいときみが言い出したのだ。春先の海なんてのもなかなかオツだねと私が荷物の支度をしていると、きみが困り顔でいった。

「あれがないんだ」

「『あれ』って?」

「なんだっけ」

「なんだろう」

「ほら、あの眩しさを遮るやつ」

「サングラス?」

「そう、それ」

横浜線から乗り換えをして、ガラガラの片瀬江ノ島方面の小田急線に座る。車窓から綻びはじめた桜を眺めている私の肩を、きみが遠慮がちに人差し指でつついた。

「どうしたの?」

「あのさ、これ着けてもいい?」

きみが取り出したのは先刻発見したサングラスだ。まだ西陽の時間ではないけれど、私には着用の理由がよくわかるので「もちろん」と答えた。

「サングラスなんて、好きな時に着ければいいよ。ファッションだと思って」

きみはおずおずとサングラスをかけると、そのままうつむいてしまった。

「疲れちゃった?」

私がそういうと、きみは小さく首を横に振った。

「だって、きっと変でしょう」

「変かもね」

「ごめん」

「別に変だっていいじゃない」

きみが電車のなかでいきなりサングラスをかけたのは、周囲の乗客の視線に恐怖を覚えるからだ。間違っても私はそれを責めたりはしない。

海が見たいときみがいうのだから、私は海を見るきみを見たい。そういうこと。

「あれは、河津桜かな? もう満開だね」

「そうなんだ」

電車の窓から見える鮮やかなピンクは、しかしレンズ越しのきみにはくすんで見えている。茶色いレンズの奥の目が、不安げにこちらを時折見ていた。

藤沢駅でスイッチバックした車両は、一路目的の駅へと向かう。線路のガタンゴトンが、互いの緊張をほどいてくれるようで心地よかった。

鵠沼海岸駅に着くと、時刻は午後2時を少し過ぎていた。

「ここにあるかな」

「何が?」

「なんだっけ」

「ねえ昼ごはん、まだだよね」

「うん」

私がスマホで近辺の食事処を検索していると、きみは「あ、ファミマだ」とつぶやいた。遠くからでも、黄緑と青と白の看板が目についた。喫茶店のホームページを見ていた私に、きみは提案した。

「給料日前だし、おにぎりでよくない?」

「よいよい」

ファミマに入ると、ようやくきみはサングラスを外した。

「もう大丈夫なんだね」

「うん」

鮭と梅のおにぎりをカゴに入れた私は、すぐにきみが隣で硬直しているのに気づいた。私が声をかけるより早く、彼は「なんだっけ……なんだっけ」を連呼する。私はそんなきみの姿がコンビニに溶け込むよう、「うーん、なんだっけ」と相槌を打った。

なんのことはない。きみのほしかった明太子のおにぎりが品切れだったのだ。

ペットボトルのお茶も買って、いよいよ海へと向かった。春独特のうっすらとした光のじゅうたんが、海面いっぱいに広がっている。

「おお、これは見事じゃな」

私がくだけていうと、きみは砂浜の手前のコンクリートの塊に腰かけて、おもむろにおにぎりを食べはじめた。

「なんだっけ」

きみがいう。

「昔さ、千葉のほうでこういう景色を見た気がするんだけど」

「千葉ポートタワー?」

「たぶん、それ」

私はコンビニで買った緑茶をぐいっと飲んだ。

「あの時、ポートタワーの最上階に『恋人たちの鍵』を掛けてきたよね」

「そうだっけ」

「うん」

わかっている。きみがとうにそんなことを忘れてしまっていることは。ハート型の南京錠に、ふたりで相手の名前を書いて設置されていた鎖にかけて誓いを立ててきた。私にとっては忘れられないこと。

きみがそれを思い出せないのは、私がそのピースを隠し持っているからだ。あの思い出が、風景画未満にならないように、私が意地悪をしているからだ。

一羽の海鳥が、甲高い声をあげて私たちの上を横切っていく。

「なんだっけ」

私がきみの口ぐせを真似ると、きみはキョトンとした表情になった。

「え?」

「あの鳥。ウミネコ?」

「……なんだっけ」

おにぎりを食べ終わったきみは、一足先に波打ち際へと歩を進めた。寄せては返す波と無邪気に戯れる姿は、私にとって小さな奇跡のようで。

海を見るきみを見られて、私は満たされてゆくのを感じていた。

梅おむすびの最後の一口を食べ終えると、私もきみのもとに参戦した。

「わっ、押さないでよ!」

よろけるきみに、ケラケラと笑う私。目の前に広がる海面のきらめきの前では、ふたりとも道化になっていい。だから疲れるまで、私たちは白い波しぶきと傾いていく太陽と遊んだ。

「なんかさ、いいね。こういうの」

きみがぽつりという。私はそれがもうどうにも嬉しくて、破顔するのを抑えられなかった。

「なんだっけ!」

私が水平線に向かって叫ぶ。きみも心底楽しそうに、

「なんだっけ!」

と輪唱した。

ふたりの声は、あっけなく波音にかき消されていく。けれど、それでいいのだと思う。

私たちのジグソーパズルは、きっとずっと完成しない。欠けたまんまが、きっといい。

20991231

私があなたを手にかけたのは、これで何度目だろう。目の前で派手に倒れてくたばったあなたは、すぐに起き上がって私の方をちらりとあきれた表情で見やり、それから面倒そうにシャツについた糸くずを払い、その手でテーブルに残っていたチーズ鱈を一本口に放り込んだ。

「お誕生日おめでとう」

生まれてきた日に、そう伝えるのがならわしらしいから、私はルーティンであなたにそう伝える。あなたは麦茶を一口飲んでため息をついた。

「今回の殺害動機は?」

「なんとなく」

この世界から倫理が消え去って、もう何年になるだろうか。科学と技術の進歩は人類を生老病死から解放し、肉体的な痛覚の除去にまで成功した。挙げ句の果てには死んだとしても際限なく蘇ることが可能となってしまった。

痛みを失った人類から、まず歌が消えた。失うという概念がないから、ラブソングはもちろんのこと、情景や憧憬、心情などをわざわざ音声化することは合理的ではないとされたのだ。

歌が消えると詩が消えた。万人に理解されないたかが個々人の心の叫びを目にしたところで、それに心を揺らがせることは全くの無意味であるとされたのだ。

自ずと法律が消えたので、かつて犯罪と呼ばれた行為に人々はこぞって手を出し始めた。誰を傷つけたって相手も自分も痛くないから。やってみたかったから。なにをしたってそれを咎める者がもういないから。

礼節なども早々に消滅した。たとえば肩がぶつかっても「ごめんなさい」ではなく無視。SNSでコメントをされても返信相手を選り好みしてあとは無視。そのほうがクールなことらしくて、「ありがとう」を口にするのはダサいことだからと誰もが避けるようになった。それゆえに優しさなどはとことん忌避され、嘲笑の的となり下がってしまった。

誰もが労せず生きられるために「生きづらさ」ではなく「死にづらさ」がハッシュタグのトレンドとなった。「生きるのがつらい」という文脈がどこにもなくなってしまったのだ。それでもPV数への執着は変わらないのだから、人間の本質は生死そのものとは直接関係がないのかもしれない。

信仰の逸脱もすぐに発生した。神を自称する者たちが溢れに溢れて、本屋ではカレンダーや手帳よりも「あなたもとれる! 正しいマウント(入門編)」が売れてトリプルミリオンセラーとなった。この本の書評はインターネットにこれでもかと出回った。「⭐︎1つ。俺の方がずっと面白いものを書けるわ」「⭐︎をつけるのも嫌です。どこが面白いのかわからなくて、確認のために何度も読み返しました」

死と病気と痛みを喪失した当然ながら医師や看護師は職を失った……わけではなく、これほどの技術革新を達成しても為し得なかったことがある。

超科学をもってしても、人間の心だけは消すことが出来なかった。「人間の」心は、である。神々は揃って手のひらサイズの四角い宇宙を凝視し、今日もしんどそうに気に食わない誰かしらをどうにかやり込めようと、とうに饐えた脳味噌を捻って、難しそうな言葉をコピペしてはさも自分で考えたかのように垂れ流し続けている。「ムカつき」や「苛立ち」にどんなに血圧を上げて最悪血管が破れて死んでしまっても、なんとなく生き返ることが可能だから。

そういうわけなので、今や医師や看護師のもっぱらの作業は、神になり損ねた「人間」の厄介極まりない「心」を管理・監視することなのだ。彼ら彼女らは自ら一切思考をせず、終わりを見失った人間たちのまぶたの裏にシリアルナンバーを焼き入れて暫定的な自由を与えることが具体的な職務内容なのである。

だから私たちは、調度品がすべて乳白色で統一された窓のない狭苦しい部屋で、もう何度目か数えるのが嫌になるほど、どんちゃん騒ぎのパーティーを開いている。でも、どうもみんな神様になってしまったみたいで「神様ゲーム!」とはしゃいでは一人ずつ死んでいき、飽きもせずに生き返っては「あーだりー」だの「暇」だの「うぜぇ」だの言い放って部屋を出て行ってしまった。

残されたのは、あなたと私、チーズ鱈と柿ピーとポップコーンのかす。私があなたを手にかけたのは、これで何度目だろう。そんなことはでもきっと、どうでもいいことなのだ。

「命って、大事なんだよ」

私がそう言ったところで、あなたが私に興味関心を向けることは決してない。その事実が、どうしようもなくつらい。胸がひどく「痛む」。

あなたはあくびをして、惰性で柿ピーのピーだけに手を伸ばした。

「なんで?」

「昔の人がそう言ってた」

「ふーん」

次に、先刻私にワインの空き瓶で頭部を殴打された時に椅子の座面に付着した自分の血を人差し指でなぞり、あなたはそれを口に含んだ。

「まっず」

「命って、尊いんだってよ」

「伝聞なんだ」

「うん」

除夜の鐘が一〇八回鳴らされなくなった理由を知る者はもういないけれど、たぶん煩悩は可算名詞じゃないと、何処かの誰かが気づいてしまったんだろうな。

そんなことよりも、いつまで経っても何度殺されても涼しい顔をしているあなたが、私はやっぱり、どうしても許せない。許せなかったら殺せばいいのだ、だって気に食わないんだもの。

テーブルの上に放置されたクリームまみれの、ホールのショートケーキを切り分けたナイフの切っ先を視認すると、私は精一杯強がって笑ってみせた。

「良いお年を」

trèmolo

どうしても僕のものにならないのなら、壊してしまったほうがいいと考えていた時期もありました。そんな拙いことを、本気で。

桜色の袴が似合う人でした。卒業式の学長のスピーチなんてまったく頭に入ってこなくて、僕の視線はその桜色に釘付けになっていました。僕は変な汗をかいていました。手のひらがぺたぺたしました。呼吸が浅くなり、動悸はさらに僕の焦りを助長しました。

卒業してしまえば、もう、会えないかもしれない。その事実はひどく僕を焚きつけました。

式が終わって、みんなが飲みに繰り出していきます。あなたが手をひらひらさせて、誘いを断ったのを確かに見ました。あなたは袴姿で、咲き急いだ桜の木の下で、こちらを見てにこりと、笑った。

それはどこまでがどう現実なのか、すでに僕には判別がつきませんでした。

(たとえそれがついたとしても、それはtrèmoloのワンフレーズより儚く、やはり認識するには物足りなかったのです)

僕の腕の中で、あなたは眠ります。眠り続けます。優しい風が、桜の花を揺らしています。僕はもう二度と目を覚まさないあなたを抱きしめて、初めて気づきました。

(幸せ、だ)

初期化

パソコンにできて人間にできないことの一つに、初期化がある。人間は初期化することができない。
果たして本当にそうか、試した者がいた。ラスティング博士である。博士は、野原を散歩していた少女をディナーに誘い、ビーフシチューを振舞った。その席で、「どんなことを悩んでも苦しくなくなる方法がある」と切り出した。
少女が頬を赤らめて関心を寄せると、身を乗り出して、少女の瞳を覗き込み、「痛くない筈だから」そう言って最近発明したという『人間初期化装置』を取り出した。それはティッシュ箱ほどの大きさの装置で、管が2本付いていた。
博士は少女の頭部に装置を力のままにぶつけた。あっけなく倒れた少女の体がテーブルへ、そして管はビーフシチューを吸い上げ始める。博士は鼓動を高まらせながら、殴打された少女の初期化が始まるのを待った。
しかし、待てど暮らせど初期化らしい初期化は始まらない。それどころか、ビーフシチューを吸い上げた装置は出血しただけの量を少女に注入したものだから、少女は屈辱と怒りのあまり目を覚まし、「この意気地なし!」と博士を罵倒した。私の白い足がそんなに気に食わないのか、と。こんな発明で私を女にするつもりだったのかと。
博士は驚きと戸惑いのあまり、ビーフシチューを一滴、白衣に染み付けた。初期化がしたいだけなのに!
残念ながら博士の白衣についた染みは取れない。染み一つ初期化できずして、どうして少女を初期化できようか。

これがアダムとイブの前夜の物語です。

赤ずきんの逆襲

要介護状態の祖母を見舞いに行ったら、祖母はとっくに狼に食べられていて、着けていたオムツだけが無惨に散らばっていた。ちくしょう、有給休暇を取ってまで見舞いに来たってのに、なんだこの事態は。

狼は渋々とあたしを家に入れると、紅茶を出しながらこう言った。

「悪気はなかった。老婆の方が味が凝縮されてていいんだ。干し柿とか干しシイタケを、君も食べるだろう」

「アジの干物も食べるわよ。何、おばあちゃんは美味しかった?」

「ええ、それはもう」

「良かったわね。で、あたしも食べちゃう訳?」

「時期尚早。否、青臭いのも悪くないか……」

「ふざけんな」

あたしは祖母にプレゼントする予定だったリボルバーを取り出し、躊躇うことなく狼の眉間にぶっ放した。狼は即死した。

「人の有給をなんだと思ってやがる」

この話はグリム兄弟によって改ざんされたらしいです。

マリーの日記

今日、彼と井の頭公園に行きました。
彼は怯えていました。昔、この公園では花壇から小指が見つかるという事件があったからだそうです。どうも、バラバラ殺人だったみたいです。
せっかくのデートなのに、彼は小指のことを考えていたのです。どうにも私は嫉妬心を止められず、キスをするふりをして彼の小指に噛みつきました。すると、彼は一瞬だけ驚いた顔をしたものの、すぐに手をほどいて私の髪をなぜました。
散歩の途中、ベンチで座ったまま身動きしない男性を見つけました。死んでいるのかしらと冗談を言ったら、彼は首を横にふるふると振りました。その動作が動物園のペンギンに似ていたので、私もよちよちと歩きました。
公園を一周したころ、手先も冷えてきたので喫茶店に入りました。彼はマンデリン、私はアールグレイを注文しました。彼はしなやかな指先でスプーンを持ち、ミルクをかき回していました。私はそのミルクになりたいと言いました。
あなたにかき回されて、そのまま飲み干されたいと。
自分の嫉妬深さに呆れるばかりです。今夜は、私もポインセチアの隣に植わった小指のことを考えようと思います。そうしたならば、きっとよく眠れましょう。

見えない

目の悪いらしい老婆が眼鏡を上下させながら、見えない、見えないと呟いていたので、何かお探しですかと声をかけたところ、愛はどこかと問われたので困ってしまった。老婆はかつては少女で、その頃から探し続けているのだという。哀れな老婆を助けたい気持ちと、何をしているのだという蔑みの気持ちが同時に沸いた。しかし、愛はどこかと訊かれても、自分には答えることができないという事実に直面し、非常に戸惑っているのも確かだ。

この辺にあったはずだ、と老婆は自らの胸元を指した。だが、見えない、見えないと嘆き続けているのである。段々と憐みのほうが優ってきたので、取り敢えず右手を差し出した。すると、老婆は想像以上の力でそれを握り返してきた。老婆は更には頬に一筋の涙まで流して一言、ください、呟いた。戸惑いつつも、何をですか、と聞いてやると、あの日の歌を、と言う。知りませんと答えると、老婆の表情は一変した。

「無関心は最悪の暴力であり、振るうものは万死に値するので、今すぐ探せ♪」

そう、少女だったその女は老婆になるまでずっと歌ってきたらしかった。突き放すのは簡単だ。憐憫を吐き捨てればいい。しかし、どうにもそれが出来なかった。これは果たして同情か、それともただの好奇心か。どちらでもあって、どちらでもない。兎に角、老婆は愛を探していて、それがとても悲しいことなのだと、それだけは理解できた。

帰ってきた旅人

私は、かの詩人に憧れて、旅人が帰ってくるのずっと待っていたけれど、季節を2回繰り返してようやく戻ってきた旅人はもうとっくに壊れていた。

「お土産話をちょうだいな」

私は、彼が帰ってきたら飲もうと決めていた紅茶の葉を開けてやった。それは彼が旅立つ前に、自分を忘れてほしくないと彼がブレンドした、とっておきだ。

旅人はまず、オンボロになったマントを脱いだ。黄砂が部屋に舞った。ずっと身に着けていたのだろう、とくに裾の部分がほどけている。それから古くなった靴も脱いでゴミ箱に捨てた。

「さぁ、お茶を飲みましょう」

私が差し出すと、旅人は嬉しそうにカップを手にとり、飲むのかと思いきや中をじっと見つめている。冷めてしまうから飲んだらいかが? ときいても彼はじっと紅茶を見つめている。

私は沈黙して紅茶を飲んだ。アールグレイとセイロンのブレンドされた不思議な香りが鼻に心地よい。

「地球に絆創膏を貼ってきました」

唐突に旅人はそう告げた。

「かわいそうに。擦り傷、切り傷、火傷。地球は悲鳴をあげて泣いていました。私にできることと言ったら、持っていた絆創膏を貼ってやることくらいしかできないのです。ですので、ありったけの絆創膏を、あの荒野と、大都会の真ん中と、あと私の頬に貼りました」

「そうなの」

「それでも地球は泣きやまない。雨は地球の涙ではありません、悲鳴です。ああいう声で、地球は泣くのです」

「ザァザァ泣くのね」

旅人は、いいえ、と首を振った。

「それは花と蝶が泣く声でしょう。強い雨に日に、特にアゲハ蝶などは撃ち落とされていました。綺麗でした」

「そう」

旅人はふらりと立ち上がった。

「旅は終わらせなければならない。いつか、どうしたって幕が下りてしまうから」

「それは『死』のことですか」

「いいえ。私はもう一度、旅に出ます。今度はもっと遠くへ……誰かが、何かが、泣いていないかどうか探しに行きます」

「せめてもう少し休んでいかれては? 私はあなたに会えるのを楽しみにしていたのに」

「ハハ、ハ。私に待ち人などおりません。誰も待たせておりません」

「そんなに紅茶が美味しくなかった?」

「あの音が聴きたい」

私はすぐにピアノに向い、ショパンのエチュードを弾いた。

「そう、その曲がいい……」

旅人は心地よさそうに目を閉じて、そのまま眠ってしまったかと思いきや、

「さようなら」

そう言い残して、肉体だけを残して静かに旅立った。

もう二度と帰ってくることのない彼のために、私は毎日この曲を弾くことにした。

あの紅茶は夕方に飲むようにした。

雨の日には蝶々を思って胸を痛めた。

何より、彼がもう私のことなど忘れて、地球を労わっていることがどこまでも悲しくて、どうしようもなく誇らしくて、私はもう二度と泣くことはなくなった。

呼吸していた頃の思い出

貴方との思い出も、永遠には成りえないから、約束はしないよ。貴方は私を忘れて生きていくでしょう。さっさと忘れて、のびのびと生きていくのでしょう。私は、何よりもそれを望みます。

過日に貴方が残した白も、私が溶かした赤も、時間と一緒にすべて流れていくだけだから。

「思い出、か。随分と感傷的な表現だね」

幸せになりたい。慾を満たしたい。認められたい。それだけだったのに。それは貴方とて同じことだったはずなのに。だって同じ人間ですもの。だのに、貴方は『幸せ』をこう表現するのね。

「つまるところ、ドーパミンを垂れ流したい。セロトニンに依存したい。アドレナリンを噴出させたい。エンドルフィンに浸りたい。ロイシン=エンケファリンを味わいたい。それらを君はすべて叶えたでしょう」

寄せては返す、欲求の波。私は今、その中に独りで佇んでいる。雨のち雨のち雨のち、雨。私の中の驟雨は、いつになっても止まない。繰り返すだけなのだと私は嘆くが、

「同じ夜など二度と巡らないよ」

警告のように貴方は言う。すべてを見通したかのような透き通った表情で。その茶色い瞳は、一体今何を考え、誰を想い、何のために瞬くのだろう。

「明鏡止水の刻が君には訪れた。それを幸せと呼ばずに何と呼ぶの?」

私は、ただ貴方との偕老同穴を願った。それすらおこがましいというのなら、いっそ私を忘れてください。貴方は生きていくのだから。これからも貴方の表現するところの『幸せ』を満たしながら。

「今さら君に生きろ、とは言わない。無理して生きることはない。『生きる』という行為は、君にはあまり向かないかもしれないからね。だから、せめて心を閉ざすといい。どんな自己啓発も哲学も心理学も倫理も、君の一助にはならないだろう。なぜなら君には圧倒的に『信じる勇気』が欠落しているからだ」

貴方が間違ったことを言ったことはない。絶対というものがこの世にあるのならば、それは死と貴方の言葉だ。しかし、悔しいとは思わない。私は貴方の信奉者ではない。貴方の言葉など、私のこころに降る雨に打ち消される程度のものだ。

ただ、一理あるとは思う。無理して生きることはない。恐らく、私は生きることに向いていない。

「そろそろ時間だ」

貴方はこれ見よがしに腕時計に目をやって言う。

「せめて、君に穏やかな最期が訪れるよう、祈っているよ」

私は生きることに向いていない。

貴方は背を向けた。そのまま、人ごみに紛れて消えた。

――これが、私が呼吸をしていた頃の最も美しい思い出です。美化して美化して美化して美化して、こうして綴ったらこうなりました。私の朽ちた肺を満たすのは、滅んだ臓を打つのは、腐りゆく脳を駆け巡るのは、こんなにも美しい、思い出です。

思い出だけで人は生きてはいけません。酸素、養分、そして『幸せ』が必要です。幸せとは、あの人の言葉を借りるのならば『人を信じられること』なのでしょう。

私はこの先も誰かを信じることなんて、できそうにありません。つまり、幸せにはなれません。

実にいい思い出です。

理想じゃない。

私は、詩を詠んだりネットに作品を投稿していることを、彼氏には内緒にしている。気恥ずかしいというかなんというか……、これといったハッキリとした理由は自分でもよくわからないのだが、未だに告げられずにいる。
内緒ごとの一つや二つくらい、あったほうがきっといいのだ。そう自分を正当化して今日に至っているのだ。

ある日、彼の家でお互いがなんとなくスマホをいじっていた時のことである。
「歩美はさぁ」
画面から目を離さずに恭介が話しかけてきた。
「なにかこう、クリエイティブなことはしないの?」
「は?」
「ほら、ユーチューバーとか今、流行ってんじゃん。ペンパイナッポーアッポーペン」
……実に、実に恭介らしい。流行を気にしたり、芸能界のゴシップを好むところ。ペンパイナッポーなら私も知っている。というか、恭介に半ば強引にその動画を観せられた。
「アッポーペン〜ペンパイナッポー」
「恭介は私にあんな風に踊って欲しいのかい」
「別に」
この会話に、一切の深みはない。恭介に他意はないのだろう、すぐに話題は次に移る。
「日本シリーズ、土曜日からかー。どっちを応援しようかなぁ」
なんとなくだが、確信した。恭介に「詩を書いている」なんて言おうものなら、

「え、見せて見せて! うわー、やべー厨二病じゃねw」

ああ、リアクションが容易に浮かぶ。
こんな相手に自分のとっておきを喋ってたまるものか。

本当なら、例えば中原中也と小林秀雄の葛藤関係についてだとか、そういう高尚なことを分かち合いたいのに! なんでまた、こんな相手を選んだのだろうなぁ……。

「歩美、ほら」
恭介が私のよく知らない芸能人同士の破局のニュース画面を見せてきて、
「マジかよー、別れちまいやんの」
とニヤニヤする。ゲスい。なんというか、理想じゃない。私は腹に据えかねて、咳払いをした。
「あのさ、恭介」
「歩美、俺たちはずっと一緒だからな!」
ストレートを打とうとしてカウンターアッパーを喰らった気分だ。
「はい?」
「破局の『は』の字は、俺たちにとっては『ハッピー』の『は』だ!」
私は思わずふきだした。
「やだ恭介、なんか詩人くさい」
私の茶化しに、しかし恭介は真顔で、
「いや、なんつーか」
唐突に本棚から『薄い本』を取り出し、おずおずと私に見せた。
「いきなりでごめん。実は俺、こういう活動してて……」

『詩集 透明な感情に関する考察』秋野道草 著

って、えええええええっ!?

「いや、『痛い』とか思われるのが怖くて……でも歩美に隠し事をするのが嫌で……」

初めて見た、恭介がガチで恥ずかしがるところ。いや、告白された時以来か。
本をめくると、そこには道草さんの詠んだ詩が十篇ほど載っていた。
私のリアクションが怖いのだろう、恭介は急にしおらしく下を向いている。それをいいことに、私はちょっとした意地悪をするために薄い本を開いた。

「色とりどりの花の中に、しかし君はいない」
「読み上げるなよ‼︎」
うわー、本当に恥ずかしいんだ。やばい、めっちゃかわいい。私はすっかり嬉しくなってしまって、ズバリ質問した。
「影響を受けた詩人は?」
「……中原中也とか。……知ってる?」
まじすか。知っているどころの話ではない。私のバイブルだ。
「雪が降るとこのわたくしには、」
私が中原中也の「雪の賦」の出だしを言うと、恭介は惹かれるように、
「人生が、かなしくもうつくしいものに――憂愁にみちたものに、思えるのであった」
その続きを朗々とうたった。

それ以上の言葉はいらなかった。さっきまで芸能人のゴシップに食いついていた奴と同一人物とは思えない。恭介は照れくさそうに、しかしどこか誇らしげにこちらを見ると、問答無用に頬にキスをしてきた。

心地よい沈黙の後、おもむろに私は口を開いた。
「ハッピーの『は』ねぇ……破顔の『は』の方が綺麗じゃない?」
そう言うと、恭介は「なるほどー」と頷いた。
「なんか歩美も詩人っぽいよ」
そう言われて、私は破顔でカバンから『薄い本』を取り出した。