第二章 洗脳の方法

その日の朝も、ミズ・解剖医は鏡に向かい口紅を塗りながら、惰性で朝のテレビニュースを聞いていた。
「……警視庁は先日、同庁刑事の葉山大志容疑者28歳を、器物損壊容疑で書類送検し……」
何、身内さんが捕まったって? ふーん。
「次のニュースです。春の訪れを感じさせる、鮮やかな花の便りが届きました」
どーでもいい。
ミズは口紅をしまうと「仕事道具」を視認してポーチを閉じた。そこからはカチャカチャと金属のこすれる音がする。
玄関を出れば、嫌味なくらいの晴天だ。ミズはハイヒールで地を蹴りあげるように、階段を軽やかに上がる。都会の喧騒が耳に心地よい。あらゆる雑音が自分を拒絶しているようで気分がいい。最高だ。こんな世界、さっさと解剖してしまいたい。
都内某所にある内科クリニックへ着くとミズは、「おはようございます」と事務的に挨拶した。相手はパートの受付のおばちゃんだ。おばちゃんは「あいよ」と無愛想に応じてミズに鍵を手渡した。
「今日は忙しくなりそうだよ」
「何、また新しい仕事? 昨日の分がまだ残っているんだけど……」
「花粉症の時期だから、『ここ』が忙しいって意味だよ。アンタの本業はいつも通りじゃないのかい」
「あ、そ」
ミズは鍵を受け取るとロッカールームでコートを脱ぎ、白衣を身に纏った。そしてハイヒールを鳴らしながら診察室に入った。内科を標榜しているのはずの診察室で、ミズの白衣のポケットからは金属音が軽やかに響く。
午前9時、診察開始時刻と共に患者が数人やってくる。たいていが高齢者か保護者同伴の小学生だ。ミズはそつなく診察をこなすと、午前診療の最後の患者を呼んだ。
「葉山大志さん」
呼んでから、あれ、と何か心に留まるものを感じた。どこかで聞いた名前だ。
診察室に入ってきたのは、スーツ姿のまだ若い男性だった。しかしミズは一瞬にして彼の「異変」を見抜いた。
目が、死んでいる。
彼は患者用の椅子に座るや否や、ポツリ、かろうじて聞き取れる声量でこう訴えてきた。
「僕を、解剖して下さい」
ミズはポケットに手を突っ込み、受付のおばちゃんからもらった鍵に触れた。ストラップとぶつかってカチャ、と音が鳴る。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
ミズは表情を一瞬だけ硬くした。
「あなた、私のことを知っているの」
「……僕は……取り返しのつかないことをしてしまいました」
ミズはため息をついた。取り返しのつく事象など、この世にあるわけがない。一度切り裂いた皮膚は回復すれども、それがもとの皮膚ではないのと同じで、たとえ挽回出来たとしても、取り返しのつくことなど一つもないのだ。
「まぁ世の中、取り返しのつかないことの連続でしょうね。それがどうかしましたか?」
「そうです。だから、僕を、解剖してください」
「……どこで私のことを知ったかはききません。こっちの業界を知っていることは、あまり褒められたことじゃないわ。多少事情を深く聞く必要があるけれど、構わない?」
「はい……」
「覚悟はあるの」
その言葉に、葉山は目を細めて「ふふっ」と笑った。
「覚悟なんて……とっくに出来ています」
ミズは思わず眉間に皺を寄せた。「覚悟」というのは、そう簡単にできるものではない。ましてやミズの「本業」を知った上でそんなことを要求するからには、それなりの器があるか、それとも、生きるという行為、命を軽視している証拠である。
「悪いけど、今ここで簡単に事情を説明してくれない? 看護師や他の患者には聞かれないから」
「ええ……構いません。つまらない話ですが」
葉山は右手でピストルの形を作って、しばし黙した。
「……」
「……どうしたの?」
「ばーん」
自分のこめかみに宛がいながら葉山はそう呟いた。
「僕は、正義です」
「は?」
「僕は悪くない。それでも、世界が僕を否定したんです」
「申し訳ないけど、来る科を間違えてない? 私の専門は内科、ってことに一応なっているんだけど」
「精神科にでも行けと?」
「紹介状なら書くわ」
「もう行きました。というか、会いました」
ミズはまさか、と心中で呟いた。
「日本で一番優秀な、警視庁お抱えの精神科医のアドバイスで、僕はここに来たんです」
アイツか……。ミズは片手で頬杖を付いた。
「それで、私を訪ねて来たってわけ」
「どうか、お話をさせてください」
葉山は鮮度の落ちた死んだ魚のような眼でミズを直視して懇願した。そこまで言われては断るわけにもいかない。
「あなた確か、先日器物損壊容疑でどうのって……」
「器物?」
葉山の顔色が変った。青ざめていた顔が急激に紅潮したのだ。
「器物、ねぇ……」
その場にミズがいることを忘れたのかのように、葉山はクスクスと笑いだした。これは完全に自分の専門外だとミズは感じるのだが、アイツ……篠畑は、恐らく何らかの意図を持って彼をここによこしたのだろう。葉山は相変わらず掠れた声で薄ら笑っている。
「お話を聞かせてちょうだい」
ミズの言葉で、葉山は夢から醒めたようにぱたりと笑うのをやめた。
「本当につまらない話ですが……」
「結構よ」