カテゴリー: 「彼」について

最終章 誕生

決して、俺を忘れるな。

運命の日、あまりにも澄み切った夜空に、星々が瞬いている。太古の人々は、その配置に物語を与えて意味を紡いだ。誰もそれをただの化学反応だと切り捨てなかった。一種の浪漫などに准えて、愛や正義を謳ってきた。まるで何かに縋りつくように。孤独を星に擦り付けるように。
世界は、それを認識する世界の数だけ存在する。ということは、認識の外にいる者はその個の世界には存在しえないことになる。
星の光は遥か過去の光であるという。可視光は既に滅んだ星の残骸であることを知っている者が、どうして星空を求めようか。誰もがネオンに辟易して下を向いて歩く魔都市で、星の光は忘れられたか、それとも疎まれているのか。
今更、夢など見られないと、ビルに埋もれた人々は妬むのだろう、世界に否定された者たちの自由さを。と同時に、世界に否定された者たちは憎むのだ、愛を肯定された者たちの束縛を。
結局、どう足掻いても解体できない、孤独な素数「2」。
彼を救うか、あるいは奈落へ突き落すのか。いびつな舞台の首謀者は、果たして彼の世界にどのような変容をもたらすのであろうか。

彼の脳裏には未だに、あの影がちらついている。あの日言ってしまった『その一言』に囚われた彼の精神。
しかし彼は、彼女の死を以てはじめて生きることを始めた。
生きている。否、生きていく。彼のこの決意は、あまりにも多大な犠牲の上に成り立っている。彼は、それを自覚しなければならない。

向き合うこと。
逃げないこと。
傷つくこと。
強くなること。

これらは同義である。すなわち、彼にとって生きることとは戦うことだ。
呼吸をし、排泄をし、摂取をし、そこに在るだけでは「生きている」が「生きていく」とは到底言えない。少なくとも、今の彼の世界に認識されはしない。認識されないということは、存在しないということである。
愛を否定し、愛に否定され、認識を失い、自我を失い、罪すら剥ぎ取られた罪人。存在証明のはく奪が、彼にとって何よりの罰であっただろう。

今更、引き下がる場所などない。ということは、立ち位置がハッキリしているということだ。
彼は遂に、重く冷たい鉄の扉を開いた。
虚無にも似た、意味を包含しない深呼吸をしてから、その空間へと足を踏み入れる。
しかしどうだろう、彼を待っていたのはあまりにも緩やかに和んだ芳しい香りのする空間であった。場違いかと思うくらい、安らいだ雰囲気が漂っている。
それに飲まれてはいけない。彼は口元をぐっと引き締めると、待ち受けていた人物の目をしっかり見据えながら、ゆっくりと言った。
「お久しぶりです、Dr.」
彼の言葉に応じた黒い瞳が、ゆったりと細められた。
まるで時が止まったかのような空間。その中央で、穏やかな微笑みを浮かべている篠畑礼次郎。彼がすべての舞台の演出家であり、悪夢の首謀者なのだ。
葉山は跳ね上がりそうになる鼓動を必死で抑えながら、篠畑の言葉を待った。篠畑は、しばらくティーポットに興じていたのだが、焦らすようにゆっくりとした手つきで葉山を手招いた。そして、
「突然ですが」
聞く者のこころを癒すようなテノールを発した。
「君は誰かを愛していますか?」
唐突な質問に、しかし葉山はゆっくりと頭を縦に振った。篠畑は目を細めたまま、
「そうですか、それは一般に幸せなことと言われていますね」
「それが、何だというのです」
篠畑はわざとらしく息を吐いた。
「……それにしても『愛』という感情は、どこまでいっても独善の域を出ません。言葉遊びをすれば、独善は『毒然』です。即ち害悪であると言えましょう。『愛×n=害悪』という方程式は、万人に対して成り立つ。愛の心身への侵襲性を考えれば、それは必然であるとすら言えましょう」
「侵襲、ね。実にあなたらしい表現だ」
「不思議ですね。言葉で縛れないものが数値で表せると思いますか?……素数のお話ですよ。なぜヒトは、いや生命は『2』を求めるのか。『3』の裏切り。無視された『1』からの復讐。正答は限られているのですよ、極めて狭窄な形に。言うなればそれこそが独善の具象であり、人々の大好物なのです」
葉山は黙って篠畑を睨む。篠畑は苦笑して、
「もう少しアフォリズムに話を傾けましょうか。君に解せないことは、僕の腑にも落ちないことですから」
そう言って椅子に腰かけ、悠然と足を組んだ。
「わかっていますよ、君は僕を憎んでいる。それと同時に深い興味を抱いていますね? 『その一言』を言いたがっている。言いたくても言えない、その一言に苦しんでいる」
「……」
篠畑の眼には、明らかな威圧と歪な救いの光が燈っている。それを葉山に向けながら、朗々と、
「楽に、なりたいでしょう?」
しかし葉山は応じない。それでも篠畑は続ける。
「ならば座しなさい。儘に導かれなさい、天啓の下に。すべてを許される時は、そこまで来ているのだから」
「……」
「愛とは、偉大なる言い訳であろう……聖書や教条は、それを頑なに否定します。しかし――」
篠畑のその言葉を遮るように、葉山は声を振り絞って、
「あなたは、間違ってる」
篠畑は微笑んだ。そして、葉山の殺気を無視し、
「僕の好きな曲、ご存知ですよね。とても美しい曲です。ショパンの『幻想即興曲』。あの曲の成り立ちをご存知ですか?」
葉山は怪訝な顔をした。何故今、そんな話を持ち出すのだ?
「なぜ僕があの曲を好むのか、その成り立ちを聞けば自ずとおわかりいただけるでしょう。……そうですね、紅茶の味が出るまでもう少しかかります。時間潰しにでも、お話しましょう」
篠畑はティーコージを指で一回弾いて、こんな話を始めた。
「誕生には諸説あるこの曲ですが、特徴的なのは、左手が1拍6等分、右手は1拍が8等分であることでしょう。非常に難易度の高い曲ですが、聴く者の心を非常に刺激する……そう、この不安定なリズムと高揚感のあるテンポが、人間の脳に適度な不安を与えるのです。最後まで聴かずにはいられない不安をね。物事の結末ばかりを知りたがる人間の心理を見事についた曲なのです」
「ドクター、僕はそんな話を聞きに来た訳じゃない」
「――彼は、裏切りに遭いました。しかも、死んだ後に。彼には無二の友人がいた。病と共にあった彼の生涯に、どんな時にも支えになってくれた、大切な友人が。その友人に、死の間際にショパンは告げました。『自分の死後、この楽譜を燃やして処分して欲しい』と。ところがその友人――フォンタナが遺言に背き公にしたとも言われるのが、この『幻想即興曲』です。本来ならばショパンの嵐のような生涯とともに消滅するはずだったこの曲が、二百年以上もたった今でもこうして人々に愛でられている。一体これは、どれほどの皮肉でしょうか。愛を求め鍵盤に生涯を捧げた彼が、死後に裏切りに遭い、人々に愛されている。このエピソードは、僕の中で宝物のように輝いているのですよ。この曲を公にした瞬間の、フォンタナの精神状態を想像するとね、……どうしようもない快感が僕の中に突き抜けるのです」
葉山はあからさまに不快感を示した。
「あなたは……最低だ」
「君がそう思うのなら、そうなんでしょうね。まぁ、そう怖い顔をしないで、もう少し雑談にお付き合いください。時間ならいくらでもあるでしょう。……事のついでに、昔話をしましょうか。君に最低だと思われるのはいささか心が痛いですからね。いいえ、どんな人間にどう思われようがどうでもいいことです。しかし、僕が興味を持った人間に、そんな風に思われるのは心外であり――本望でもあります」
「本望?」
「このアンビバレントさは人間を常に苦しめるのでしょう。いえ、言っている意味をすべて解する必要はありませんよ。そもそもそんなことはただの幻想であり、思い上がりに過ぎませんから」
篠畑は椅子から立ち上がり、ティーポットの様子を確認した。
「さて。どうして世の中には斯様にも、ラブソングが溢れているのでしょうね。人々は愛を歌い、詠い、謳うのでしょうね」
「さぁ、知りません」
切り捨てるように答える葉山。
「その答えの一つは、寂しいからです。誰もが孤独の中にいる。孤独をいくら足し算しても、死という名のゼロを掛ければすべてが無に帰する。そしていくらプラスの事象を掛けあっても、一つでもそこに裏切りのマイナスが存在すれば、すべてがマイナスに陥る」
「……」
「それを悲劇と嘆かないことです。大切なのは絶対値なのですから。プラスだろうとマイナスだろうと、そこに存在を証明してくれるのが絶対になのです。そして、その存在に意味と確信を与えるのが素数です。その中で孤独を示す『2』が、愛に対する正答なのです。しかし人々は己が『1』を忘れ初歩的な足し算を違え、裏切りの『3』を導いてしまう。フォンタナの背負った罪は、僕に極めて酷似している。ショパンが彼を許すことは、決してないでしょう。誰も素数を解体できないように」
篠畑は、足を組みかえるとこんなことを言い出した。
「……君には、告げておきましょうか。僕が最初に手を掛けた人間の名を」
葉山は一瞬の戸惑いの後、
「何故です」
「君にはきっと、その資格があるから。そして僕には、君にそれを告げる義務がある」
そう言う篠畑の顔は、尚も笑みを絶やさない。葉山は平静を装い、
「僕が聞いて、それをどうするんですか」
「それは君自身が判断することです」
「なんて無責任な――」
篠畑は間髪いれず、その名を告げた。
「若宮恭介」
「――!」
「聞いたことくらいは、あるでしょう」
葉山は、ぐっと唇を噛みしめた。まさか。彼は交通事故で死んだはずだ。
「そう。彼は公には交通事故で亡くなったとされています。ですが……もったいぶるのもおかしいですね、教えて差し上げましょう。恭介は僕がこの手で葬った人間です」
「なんだって……?」
何があった。何があったのだ?
「随分と時間がかかりましたけどね、彼に『決意』させるには。一番手こずった相手だったなぁ。その分、彼の死の一報を聞いた時にはね、本当に楽しかった」
葉山はギッと篠畑を凝視する。
「いい目を、していますね。まるで肉食獣だ。いや蛮勇ではない、それはきっと勇気と呼ばれるに相応しい光を燈している。覚えていますか?君はつい最近まで、右目に絶望を、左目に憎悪を、口元に愛への飢餓を湛えていたことを」
葉山は更に篠畑を睨みつけるが、篠畑は余裕顔だ。
「覚えて、いないでしょうね。それは君の知らないうちに君の中で昇華したものだから。飢えていた部分とは、純粋な欲求によく似ているのですよ。食欲・性欲・睡眠欲。これら3つの欲求は、真っ直ぐ愛につながるのです。少し考えればわかることですが……彼女の死は、皮肉にも君を満たした。それは疑わざる事実です」
葉山の口元が強張る。それを見た篠畑はたたみ掛けるように、
「もう一度言います。彼女の死によって、君が満たされたという事実がここにある。満たされたが故に君は今、こんな場所で呼吸をしている」
「言っている意味が、わからない」
必死で動揺を隠している葉山の姿が可笑しくて、篠畑はわざとこんなことを言ってみせた。
「なぜ僕が君に興味を抱いたのか。それはね、君が僕と同じ眼を持っているからですよ。そう、『孤独な裏切り者の瞳』をね。君は彼女の最後の願いを裏切った。だから今、こんな場所へ来ている」
「違う」
「彼女が望んだのはこんな結末でしたか?君は君自身を見失わないで生きてほしいというのが、彼女の願いではありませんでしたか。何故今、またこうして僕に導かれようとするのです。弱さゆえ、でしょうね」
「違う。僕は貴方に導かれになど来ていない。決着をつけにきたんです」
「勇ましいことですね。しかし、人間の本質はどこまで行っても変わらないのですよ。属性とでも言いましょうか、それは都合よく変えられるものではない」
葉山は湧きあがる感情を抑えきれず、胸ポケットから徐に、拳銃を取り出して直に篠畑へ向けた。だが篠畑は恐れることなどなく、それを嗤った。
「その武器が何よりの証拠です。弱さの証です。彼女は言ったのではありませんでしたか?『武器など、要らない』と」
「貴方の高弁は結構だ。僕はもう、逃げない」
「逃げ場がないから?」
「そうだとしても、それはきっと彼女が遺してくれた場所だ。だから僕はここから逃げない。自分から逃げない。決して」
「随分と……自我意識がしっかりされたようですね。うん、良い目だ。僕好みのね」
葉山は両手で拳銃を支えながら、自分の中にある『彼』の影を一瞬だけ意識しそうになり、首を横に振った。篠畑は、葉山が未だに『彼』の影を恐れていることを知っていながらそんなことを言うのだ。彼はまだ、十分篠畑の掌の上なのだろうか。
篠畑は温められたティーカップにセイロンティーを注ぎ、葉山に差し出す。凶器を向けられている人間とは思えない余裕である。
篠畑は声のトーンをやや高くして、こんな話を始めた。
「知っていますか?虹色のアメーバのお話。とある捻くれた詩人が大昔に詠んだ詩に出てくるんですけどね、その一節に、こうあるんです。

『人のこころはアメーバのように色と形を変え、やがて砕け散る。』

その瞬間が何よりも美しいと、僕は考えます。そう、今の君はそのアメーバがまさに変容する一歩前だ。さぁ、どう変わるのでしょう、君の認識する、その世界は」
「僕はもう、あなたの言葉には惑わされない」
「でしょうね」
「僕は、変わったんだから」
「そうでしょうか?」
「彼女に誓って」
「そうですか。確かに、『僕の』言葉には惑わされないのかもしれません」
紅茶の完成と共に、篠畑が描く最後の舞台の幕開けが迎えられようとしている。それにまだ、葉山は気づいていない。
「ねぇ、葉山君。こんな場所まで来てくれたご褒美に、とっておきを差し上げましょうか」
葉山は拳銃を構えたまま、
「僕に、紅茶の趣味はありません」
吐き捨てるように言った。篠畑はティーカップを小指で小突いて、
「知っています。何、安心してください、必ず君のお気に召す筈ですよ」
「何がどうあろうと、僕は、あの日の彼女への誓いと共にあるんだ」
「だったら尚更だ。それは、どんな誓いでしたか?」
「答える必要がない」
葉山はまだ、篠畑の言葉の真意を理解できていない。
「そうですか、じゃあ、本人の口から聞き出しましょうか」
しかし、嫌でも理解を、というより認識をせざるを得ない事態が直後に起きることを、どうして彼が予測できたであろうか。
「『本人』?」
葉山は言ってから、急激に全身に悪寒が走るのを感じた。構えていた銃を、成す術なく落してしまった。床に叩きつけられた武器が、乾いた音を立てて転がった。
篠畑はそれをせせら笑うように、こう告げた。
「ええ。本人に」
葉山は二の句が継げなくなった。篠畑は勝ち誇ったように白衣を翻し、奥の本棚の片隅に置かれていた箱を取り出した。白い本体に、丁寧に青いリボンが掛けられている。
「特別贈呈品、とでもいいましょうか」
葉山の顔がみるみる歪んでいく。篠畑はその箱を、葉山に手渡した。
「ほら……感じるでしょう?」
重みが。
温度が。
すべてが。
残酷なものとなって、今、硬直した葉山の両の手に託される。
「さぁ、開けてください」
まるでプレゼントを渡すかのような口ぶりで篠畑は言う。いや、篠畑にとってみればこれは『贈り物』であるのかもしれない。極めて怜悧冷徹で嗜虐趣味の至高のような。
葉山は完全に言葉を失った。今、自分の手中には、『ある』のだ。この直感は間違いない。何が起きてもおかしくない魔都市・東京。しかしこんなことがあっていいのだろうか。
こんなことがあって、いい筈がない。しかしありえないこと……はありえないのが、この街だ。土竜が刑事になり、人を殺し、同僚は呪われて土竜と化した。何があっても、今更だ。
しかし――何よりも狂っているのは、今目の前で微笑みを浮かべている、篠畑礼次郎その人だろう。わかりきっていたことなのに、その人格は疾うの昔に崩壊していたのだ。そんな人間相手に、真っ向勝負を挑むこと自体が間違っていたのだろうか。
問いかけは無意味で、今自分の両手にかかる重みや温度が、彼に両価的な感情を抱かせた。
篠畑は言った、自分と彼とは同じ眼をしていると。そのロジックが成り立つとすれば、葉山もまた狂っているのであろう。事実、衝撃と共に彼の中には狂気と呼ぶに相応しい歓喜の感情が湧きあがっているのだ。

(また、会えたね――)

葉山は震える手で箱を開けた。そこには紛れもなく、あの日、若宮郁子を葬ったナイフが転がっていた。
それとほぼ同時に、この空間に動く人影があった。あまりにも不自然な登場に、しかし葉山には動揺が無かった。むしろ、確信に近い感情でそちらを見やった。両目に、いびつな光を灯して。
「僕の、最高傑作です」
篠畑が告げる。
「さぁ、おいでなさい」
ゆらりと葉山の前に現れたのは、他でもない、若宮郁子だった。彼女は、口を真一文字に結んだままだ。
「言ったはずです。僕の趣味は『人形遊び』だと。こうして人形を作ることも、もちろん僕の趣味なのです」
そんな篠畑の言葉は葉山の耳には入らない。ゆっくりと手を伸ばして、若宮の頬に触れた。
「――……」
冷たい。感触は、死んだ人間のそれだ。篠畑は葉山の様子を観察するように言った。
「いかがです?」
「郁子……!」
葉山は若宮の顔を撫でまわす。彼が死体を抱きしめるのに、そう時間はかからなかった。

第十三章 決意

彼女は僕に、絶対的な孤独を与えてくれました。僕がそれをどうして愛さずにいられますか? あの冬の日、彼女は永遠になった。即ち僕の孤独が永遠になったということです。孤独は『1』。死は『0』。僕が彼女と交われば『0』になってしまいますが、絶対的な孤独は未来永劫『1』のままなのです。
葉山君、君はまだ気づかないのですか? 愛しいと自覚した者の死を以て尚、『1』を他の数字と見間違うのですか? 己を世界に無防備に滲ませるのですか?
人間の弱さだと言われればそれまででしょう。この数式に気づかずに生きていく方法はいくらでもある。欲を適度に満たし、気づかぬふりで笑い、現実から目を逸らして生きている人間の方がずっと多い。そういう人間こそ、セイを繋ぐためには必要なのかもしれません。
しかし葉山君、君はまず自分にならなければならない。自分を生きなければならない。そしていずれは自分のために、死ななければならない。
覚悟が、必要です。君は確かに舞台から飛び出した。それは勇気だと認めましょう。しかし、戦うことを選んでしまった君にあるのは、安息や安穏とは程遠い道だと思った方が良い。もっとも、初めからそんなものを望んではいないのかもしれませんが、決して忘れてはならないのは、君が愛したあの子が真に、最期に何を望んでいたのかです。
君が己に『1』を望む覚悟が無ければ、世界は簡単に牙を剥きます。君の弛緩した認識は、いつでも君を喰おうと舌を出しているのです。そして君はもう何度も、それに委ねる感覚を知ってしまっている。それが抗えない感覚であることも、それが一種の快楽衝動に近いものであることも知っている。
戦いとは言いますが、君は、どうやって戦うのでしょうね。武器が、必要ですか? 果たしてそれはあの子の望んだことなのでしょうか。決めるのは生きる者だけです。死んだ者の意志は生きる者が継ぎ、解釈されて砕かれていきます。それはつまり生きる者の特権であると同時に責任でもあるのですね。
果たせない約束を人は裏切りと呼びます。さて、君は唯一無二の契りを完遂できるのか?
……面白そうじゃないですか。
それでも舞台は続くのですよ、世界を君が認識する限り。

第十二章 素数

そういえば、彼女について何も知らない自分に気付いた。彼女の名前は知っている、笑顔は知っている、怒った顔も知っている。死に顔さえ知っていた。けれど、それ以上の何も、彼は知らなかった。十分じゃないかと笑う自分もいる。それでも、求めるだけの叶わない想いは、彼女のことをもっと知りたいという欲求にすり替わって、自然と葉山は足を向けていた――彼女が過ごした家へと。
一転して晴れた日だった。彼は雑踏を抜けて、通勤・通学の人々の流れに逆らって歩を進めた。水たまりが初夏の陽光を反射している。
職業柄、アパートの鍵を大家から借りるのは簡単なことだった。ここで一般人ならば単純な疑問が湧く。家主の消えたアパートがなぜ、そのまま残されているのか。しかし、その理由は至って無味乾燥なもので、『被害者の生前の情報を維持するため』だということを彼はすでに知っていた。知っていて、有効利用した。こういう時に、甚だ己が傅いている職に対して、相反した感情が生まれる。嫌悪と畏敬。不思議なものだ。
彼女の手を握るような気持ちでドアノブに触れる。温もりとは程遠い金属の温度が手に伝わり、葉山は果てない虚しさを覚えた。ずっと握り締めていたかったあの手は、あの日自分の中で冷たくなっていった。あの感覚は一生、忘れられないだろう。否、忘れてなるものか。
玄関を入って最初に目についたのは、下駄箱の上のサボテンだった。生という言葉から遠く離れてしまったようなこの無機質な部屋の中で唯一、それを主張しているかのように、瑞々しく棘を張っているが、その小ささが実に愛らしい。しかし愛でようと撫でれば突き刺さるあたりが、彼女そのもののような気がした。葉山はふっと息を吐いた。まるで、彼女に語りかけるように。すぐに、その行為の無意味さと殺伐さに、自嘲的な笑みが込み上げるが、それは目の前のサボテンに失礼だと思い引っ込める。
部屋全体は、葉山が想像していたよりも女性らしいというか、ある意味で彼女らしくない部屋だった。カーテンは黄緑色のドット柄だし、ラックにはカフェカーテンが引いてあるし、レース柄のテーブルクロスが丁寧に掛けられているし。自分は、自覚していた以上に彼女のことを知らなかったのかもしれない、そう思ったら余計に彼女が遠く感じられて――これ以上ないほど遠くにいるというのに――心に簾が入ったような悲しみがさぁっと広がった。もっと知りたかった、君の口から、君のこと。
僕は、君が望むように強くなれないかもしれない。今だって腰には、存在を静かに示す凶器が据わっている。認めなければならないのだ、自分は弱いと。その弱さ故に君を失ったと。自分を責めてそこに浸るわけではないが、どうしたってその事実は僕に影と落してしまう。影は僕の足元から伸びていて、いつだってこちらを見て睨んでいる、あるいは笑っている、ともすると手招きしている。
人はそれを何と呼ぶのだろう。有体に『狂気』? ……バカバカしい。単一の価値観で測れるものなど、図れるものなど、計れるものなどこの世には無いと、彼女が身を呈して教えてくれたではないか。もっとも、謀れる者は存在することもまた彼女の死が表している現実であるが。
葉山は一通り部屋を見渡してから、次第に視線の置きどころに困るようになった。彼女のことを知りたいとは思う。だが、何をどうしようというわけではない。知りたいから部屋に入った。それだけ見れば、まるで不法侵入のストーカーではないか。そういうつもりは毛頭ない、単純に知りたかった。知ってどうするという訳でもない。知ることに意味があるのだ。
ふと、動かし続けた視線が本棚で止まった。書類に紛れて立てかけてあったのは、アルバムだった。これは葉山の知的好奇心を掻きたてた。自分の知らない頃の彼女が写っているかもしれない。一瞬だけ、彼女とそれを見ながら、笑いあっている風景に思考を持っていかれて、葉山は小さく頭を横に振った。妄想もいいところだ。
いけないことだとわかっていても、手が自然に伸びていた。水色のB5サイズのアルバム。ゆっくり触れると、ビニールのバリっとした感触と、写真が離れる時のパリパリという独特の音がして、それは姿を現した。
大学生の頃だろうか? 確か彼女は合気道を習っていて、有段者だったはずだ。精悍な表情で構えを取っている写真だ。あどけない顔が真剣に相手を見据えている一瞬を撮ったものだろう。あまりにも彼女そのままで、葉山は思わずドキリとした。愛しい人の知らない顔を知るというのは、なんだかちょっとしたスリルだ。いけないことをしているという罪悪感と、彼女を知っていくその快感と、様々な感覚が葉山に、次々にページをめくらせた。大学の合気道サークルの合宿の時の写真は、珍しく髪が長かった。高校生時代に、父親と思しき人物と卒業式を迎えた時の写真は、照れ笑いをしている。ランドセルを抱きしめるようなポーズで友人数人と写っているのは、恐らく小学校高学年くらいだろうか。目元を見ればわかる、どれも、彼女だ。変わらずに彼女は彼女だった。

……君が強かった理由がわかった気がしたよ。君はきっと、一度も君から逃げなかったんだね。

葉山はアルバムを閉じて、再び息を吐いた。これは、ただのため息だ。デジタルの時計が午前10時を知らせる。彼女への思慕はいよいよ募るが、知りたいという欲求は満たされることがない。彼女からの言葉でなくては、意味が無いのだ。もう何物も、何人も、彼女の幸せを願うことができないという現実は、彼の不毛な想いを堰き止めることができない。むしろ助長してしまうのだ、追い求めるものは決してこの胸の中に去来しないのだから。
彼は未練がましいと思いながらも、もう一度アルバムを開いた。保育園のスモッグを着て、父親らしい人物と、むくれた顔をして写っている。不機嫌な顔だって可愛いと思える。目元がそのままだ。黒目の大きい、少しだけつり上がった、意志の強い目。左手に『わかみや いくこ』と名前の入った手提げバッグを持っている。胸元のバッジから察するに、キリン組だったようだ。小さな右手は、父親の手を嫌々握っているかのようで、少し可笑しかった。
「……」
不意に、葉山は違和感を覚えてアルバムを初めから見返し始めた。最初は、大学時代から。高校生、中学生、小学生、保育園――そこまでだ。乳児の頃の写真が無い。普通は、赤ん坊の頃に、一番写真を撮られるのではないだろうか。それはただの一般論か? それに――母親らしい人物が1枚も写っていない。
なんだろう、この感じは。そう言えば、この写真に写っているのが彼女の父親、若宮恭介であるならば、彼は確か数年前に『事故死』したはずだ。有名な話だ、彼は何と言っても警視庁の高官だったのだから。しかし、考えてみれば自分は何も知らない。情報として、何も知らされていない。警視庁の現役高官の突然死は多少、マスメディアに騒がれたものの、直後に確か政治家の大きな不祥事があって、あっという間に世間から忘れ去られたことだった。
胸騒ぎがする。彼は彼女のことをもっと知りたい、というよりは知らねばならないのでは、という想いに駆られた。本当に自分は何も知らなかったのだ。知らなすぎた。何より、知る前に彼女は逝ってしまった。

何が、あった?

第十一章 因果

愛や正義は人間の大好物ですからね。人を裁く時も判ずる時も、そこに愛や正義があれば、否、存在などしていなくてもそれを謳えば、どんな利己的な感情も合理的な凶器になる。そのことを君はわかっていましたね。わかっていて、利用しましたね。有効利用したんですよね。
いいえ、別に責めているわけではないですよ。僕は人を裁かない。決して判じない。そんな資格もないし、そんな心算もありません。ただ、導きが欲しいのなら与えましょう。君が望むなら、君の未来は僕の所有物です。

明日を、夢見ていたのでしょう。輝かしく他者から賞賛される未来を。
何故ですか? そのままでも「他者」の僕から見ればあなたは、十分『幸せ』に見えましたがね。
「他者、か……」
恭介、君の苦悩に歪む顔は、非常に美しい。
美しいか否か。正義か悪かは、それで決まると言っても過言ではありません。
そして君は自らの手で道を選び、僕のもとへ来た。
それが、君の答えならば……僕はただ、受け入れましょう。仮令、それが『罪』と呼ばれても。

第十章 沈黙の詩

「宝飯玲子は、ここにいるわ」
ミズはそう断言して篠畑を見据えた。篠畑は言葉を途切れさせたきり、その場に立ち尽くしている。ミズはしてやったりとばかりにニヤリと笑った。
彼女の狙いはただの腹いせだ。こんな舞台で踊らされたことで安売りされた自分のプライドが許せなかったのだ(しかしそんなものは、その辺の勝ち組連中が夢中のマネーゲームよりも余程つまらないものだとも認識している
彼女であるが)。
「ドクター、どうかしたのかしら?」
我ながら、意地の悪い質問だとミズは自嘲した。戸惑いこそ見せないものの、篠畑の目から余裕の色が消える。
「なぜ……?」
少女の消え入りそうな歌声が篠畑を捕えて離さない。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」

世界に憎まれ、拒否され、果てていく者がいる。繰り返される生命の営みから外れその輪を遠くから見ているだけの者がいる。羨望と失望と絶望に苛まれて歪んでいく正義が在る。しかし、そんな彼らを『不幸』だと決めつけることは、ただの傲慢と欺瞞であると、他でもない篠畑は言う。しかし篠畑は、そう自分に言わしめるこんな世界を『愛しい』と感じている。果てなく憎んでも憎み切れないのなら、いっそのこと愛そうじゃないか。彼は『あの日』からそう決めている。いや、その様に変容した自分こそが本来の自分の姿だと教えてくれた『あの子』に、お礼が言いたくてしょうがない。彼は、疾うに世界の歯車から外れてしまっているのだから。

篠畑は今、自分の両目に映っている目の前の少女の紡ぐ詩にじっと聴き入っている。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」
半音ずつ下がっていく、いびつなメロディ。
篠畑の中で少女の声が滲み、広がり、歪んでいく。その旋律は、あの日に彼の目の前で散った、緋色の徒花のように、彼を彼たらしめていく。

第九章 彼は気まぐれにキスをする

若宮は動揺を必死に抑えながら、再び咳払いをして
「おはよう、葉山君」
と挨拶をした。途端に背後から、痛い視線の集中砲火を浴びるのだが、若宮は毅然と無視する。
葉山は一歩一歩ゆっくり若宮に近づくと、持っていた花を若宮の机の上にそっと置いた。若宮はその花の名前を知らない。
「カンパニュラ。春の花だよ」
葉山は微笑んで言う。
「綺麗でしょ」
「……」
若宮は花に目もくれず、葉山をじっと見た。重なる面影――篠畑の微笑みが浮かぶ。
「おい若宮、どういうことだよ」
大竹がためらいがちに声をかける。すると、その声を皮切りに、勘違いした周囲の無責任な声が一斉に飛んできた。そのざわつきは、しかし若宮の耳には入らない。否、入れない。それどころではない。外野の野次など騒音以下だ。
大竹は自分の言葉で端を発したことを申し訳ないと思ったのか、淹れかけのコーヒーをそのままにして
「おい」
と葉山に声をかけ、そのまま首根っこを掴んで廊下へ引き摺って行った。周囲の視線が今度は大竹に集中する。若宮は自分の机に置かれた花に視線を落とした。
薄紫色の花びら。
若宮がダンマリを決め込むと、周囲はつまらなそうに勝手に解散していった。ただ各々の仕事に戻るだけだ。葉山の処分違反には誰も触れもしない。そういう『面倒なもの』には関わりたくないのだ。責任なら、他でもない名前を呼ばれた若宮がとるべきなのだ。そんなことは、若宮本人が一番わかっている。しかし、いざこういうことになった時、どうすればいいのか心の準備のようなものがまだ、彼女にはできていなかった。
カンパニュラの花を手にする。花の一つ一つは掌に収まる程度の大きさだ。それが鈴なりに咲いている。綺麗と言えば、綺麗だが。その色に、まるで纏わりつくような感情――何とも奇妙な――が醸されているようだ。
篠畑にここで連絡をとるのは危険だろう。ここで彼とコンタクトを取ることは事態を悪化させる気がする。それこそ彼の言う『舞台』とやらの上で弄ばれかねない。しかし、このまま放置したってどうしようもない。ならばここは、自分の力でどうにかしろということなのだろう。
若宮はしばし考えてから、まず葉山本人から話を聞くことにした。ふー、とため息をついて気持ちを整えると、大竹が淹れかけたコーヒーを一口飲んで(インスタントならではの非常に淡白な味であった)、若宮は部屋を出た。

第八章 その面影

「俺を信じるか?」
彼は相手の目をまっすぐ見ながら、というより相手の目をえぐる様な鋭い視線でそう問いかけた。
「それとも、世界を信じるか?」
「……!」
捕えられた相手は、突き付けられている凶器と思しきものをどうにか除けようとするのだが、思うように抵抗できず、詰まった息をようやく吐いている状態だ。
「なぁ、答えろよ」
彼の問いかけにも、そのあまりの恐怖から相手はしゃくり上げるばかりだ。
頭上を、帰宅電車がガタゴト云わせながら通り過ぎていく。
冷たい月が見下ろしている。しかし、その月光は高架下の二名に影を与えない。
お互いの息遣いの聞こえるくらいに近づいた目と目。一方は恐怖で引き攣り、もう一方は獲物を捕えんとする肉食獣のようである。そのカニバルは、しかし食欲で動いている訳ではなかった。
「俺は答えに辿り着かなくちゃいけないんだよ」
彼も必死なのだ。しかし、相手が彼の望む答えを言うことはない。否、できない。それには、どうしようもない事情があるのだが―――彼は、ふと目を伏せて、寂しそうに表情を曇らせた。
「……お前は、世界を一緒に憎んでは……くれないんだな」
心底残念そうに、彼はそんな言葉をゆっくりと吐き出す。
それと同時に、相手の胸部に押し付けていた鋭利な凶器を自分の懐に戻した。解放されたと見るや相手は、悲鳴も上げずに逃げ出した。
その後ろ姿を目で追うこともなく、彼は深いため息をつく。
「次の十六夜までは、待ってくれないだろうな……」
夜空を仰ぐと、月ばかりか春の星座も、苦悶する自分を嘲笑っているかのように、彼には思えた。

第七章 正しい紅茶の淹れ方

春の初めの暖かい風が、彼の頬を掠める。彼の足もとには、芽吹き始めた新しい命たち。朝露を受けてしなやかに伸びる、その葉々を邪魔するように一つ、影が転がっている。朝日を浴びたそれは、先刻、ただの肉塊と化した。
逆光を浴びて薄ら笑う彼は、しゃがんで足もとの土の感触を味わった。

――いつか還る場所、か。

彼はこみ上げる感情を堪え、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきでボタンを押す。その電話はすぐに繋がった。
「もしもし、Dr?」
早朝の、ひと気のない公園の隅。彼は世界への憎悪と、相手への敬意を込めてこう言った。
「あなたの宣託は、俺を苦しめるだけだ」

宣託? これはそんな大それたものではありませんよ。
自分を許せないのが他ならぬ自分なら、自分を寛恕せしめるのも、また自分だけではありませんか?
僕は、とうの昔に決め、選択しましたがね。――自分を、解放することを。

第六章 正義の定義

正義(名)セイ・ギ
【器物損壊容疑の取り調べ時に録音された『彼』の肉声】
「僕は、正義だ。ただひたすらに、自分の正義を貫くだけだ。僕は正義の刑事で、あいつは裁かれるべき殺人犯だった。僕は悪くない。僕が悪いわけじゃない。なぜなら、僕が正義であるからで、この社会に僕という存在を投影した場合、自分の意志に因る部分に依拠して、僕の正義こそが正しいと証明され得るからだ」
「言っている意味がいまいち飲み込めないんだが、要するに罪状に関して否認はしないということだな?」
「何故、今、僕がここに閉じ込められているかと疑問に思う者もいるだろう。それはそれで構わない。ごく自然な発想だとも言える。凡庸な思考回路とも言い換えられるけど」
「認めるんだな」
「そもそも、『閉じ込められている』と言う表現は正しくない。僕は僕を僕たらしめる根拠の一部と同化しているだけ。『拘束された自由』を味わっているんだ」
「どういう意味だ」
「これは確かに僕の意志だ。世界が僕に追いついていないんだ。嘆かわしい事に、僕の理解者はこの世にただ一人しかいない」
「誰だ、それは」
「そう、僕はいよいよ自分の影を失おうとしている。僕自身もまた、見えざる影になるんだよ」
「質問に答えろ。その理解者とやらは何処にいるんだ」
「君にはわからないだろうね……机上の正義しか振りかざせない君には。あの人は到達していたよ、こんな場所より遥か遠くに。そして今度は僕の番だ」
「何の順番だ」
「僕は選ばれたんだ」
「……何の話だ」
「次の舞台が僕を待ってる……こんな場所でいつまでも君と実りのない会話をしている時間はない」
「とても会話になっているとは思えないがな。 葉山。お前、自分が何をしたのかわかってるのか」
「……」
「葉山?」
「……」
「今度はダンマリか。時間を稼ぐつもりだな」
「喉が渇いた。何かないの?」
「お前な、自分の立場くらい理解しろ。麦茶くらいなら持ってきてやるが」
「大竹君、君こそ何もわかってない。君は今、『生かされている』んだよ」
「何だと?」
「君はだいぶ僕の正義に反している。秩序を守ることが、『人間の』正義とやらかもしれない。だが、その秩序が少数という烙印を捺された存在の犠牲によって成り立っているとしても、君はそれを守りたいと思えるかい?」
「いつだってマジョリティが世界を動かしてきた、というのが傲慢だってことくらいはわかるさ」
「犠牲者を『マイノリティ』の一言で片付けてしまうのは、違うな。やはり君はわかっていない。この先もわからないだろう、僕らの苦悩など」
「僕『ら』?」
「麦茶をくれるんじゃないの?」
「ああ、それはわかってるけど、なぁ葉山、お前―――」
「もう一度言う。君は今、『僕ら』に生かされているんだよ。世界と自分との関数が一切失われたその瞬間に、糸は途切れる。認知と現実を繋ぐ細い糸がね。僕はそれを繰る者だ」
「とっくにお前の頭の糸は切れちまってるんじゃないか」
「ねぇ、喉が渇いたってば」
「……わかったよ。今持ってくる。少し待ってろ」
「――あ」
「おい、葉山どうした。疲れたのか」
「大竹君……すごく気分が悪いんだ」
「顔、真っ青だぞ」
「終わらせなきゃ……」
「そうだな。今日のところはもう終わりにしよう」
「違う。君が『終わる』んだよ」

第五章 その面影

「――、おはよう」
彼女の記憶から唯一欠けているものがあったとしたら、それはきっと彼が呼ぶ彼女の名前だ。
名前そのものを忘れたわけではない。あの人が彼女の名を呼ぶその声が、どうしても思い出せないのだ。
「……おはよう」
寝起きでぶっきらぼうにそう言う彼女の頭を、彼――保坂晃は、ぽん、と叩いて、
「素っ気ないね」
と言ってニヤッと笑った。保坂はエプロン姿で卵を片手に持っている。どうやら朝食の準備をしてくれているらしい。
「全然似合わないね」
と、彼女は彼をからかう。
「ありがとう」
「褒めてない」
「ありがとう」
保坂は飄々とそう答えると、鼻歌交じりに台所へ去っていく。料理をする保坂の後ろ姿を、彼女はボーっと眺めている。保坂の細長い指が器用に箸を操り、片手で卵を割り、絶妙な塩コショウ加減を生み出す。
「シェフにでもなったら?」
彼女はなんとなく呟いた。
「そうだね」
保坂もなんとなく答える。このいい加減さが、まさに「よい加減」だった。
「昨日も遅くまで論文と格闘してたんだろ。食事はちゃんと摂らなきゃね、ミスの名が泣くよ」
「それ、やめてって言ってるじゃん」
「はは」

一年前の学園祭での、あれはアクシデントだと思った。元々興味の無かった学園祭の、彼女は主役に祀り上げられたのだ。
所属していたゼミが、どうしても学園祭に店を出すということで、嫌々その焼きそば屋の店番をしていた時だった。解剖学専攻のゼミが作る焼きそばなんて、何が入っているかわかったもんじゃない。自分が何をするわけではないが、いささか変人の多いウチのゼミのことだ、誰かは何かをやらかすだろう。
――例えば、豚肉じゃなくてカエルを使うとか。
いわゆる有効利用ってやつだ。
彼女は、祭にしては閑散とした中庭の一角で暇を持て余していた。ちっとも繁盛しやしない。ちら、と腕時計を見た。店番交替の時間まであと五分。あーぁ、と彼女はあくびをした。はばかることなく大きくあくびしてやった。
その時だ。ゼミ同期の女子が息を切らしながら駆け寄ってきた。
もう交替してくれるとか。ラッキー、と彼女は内心で呟いた。
「今年のミス・白零が決まったってさ!」
「は?」
(なんだ、そんなこと。どうでもいい)
彼女は、あきれた口調でこう言った。
「店番、変わってよ。もう退屈なの。焼きそばだって冷めちゃったわ」
「そんなこと言ってる場合? ミス・白零さん」
「……は?」
ゼミメイトの佐伯愛子は意地悪い声で、とんでもないことを言い出した。
「いや~、おめでとう」
「ちょっと佐伯、それどういう意味?」
「どういう意味もなにも、そのままの意味よ」
彼女は一瞬、頭が真っ白になった。佐伯に引っ張られるまま、彼女は中庭の中央に設えられたステージに上った。まだ、頭が真っ白だった。
当然何の準備もしていない。水色のTシャツにジーパン。化粧だって眉毛を書いてる程度だ。
「今年のミス・白零です!」
学園祭実行委員の司会者が、高らかに彼女の名前を呼ぶ。「ミス・白零コンテスト」は、そんなに人の集まらない学園祭の、それでも目玉企画だ。拍手と同時に、少々のやっかみと祝福が混じった複雑な歓声が起きる。
彼女はめまいを覚えた。何が何だかわからないうちに、商品の図書カードを渡されて、手作りと思われる賞状を渡されて、企画は終了した。
「続きまして、カラオケコンテストでーす!」
司会の明るい声は、彼女の退場を促していた。流されるままに彼女は壇上から降りる。周囲の微妙な温度の視線が鬱陶しかった。
「すごいじゃん、やったじゃん」
佐伯がやはりからかうような口調で言ってくる。
「どういうことなの」
「さーね」
「佐伯、あんたの仕業ね」
だが佐伯はいや、とそれを否定した。
「私がそんな気の利いたことすると思う?」
「余計な御世話、の間違いでしょ」
「まぁまぁ機嫌、直してよ。せっかくの王子様の努力が報われないわよ」
「王子様?」
訝しげに問うたのだが、佐伯はニヤッと笑って、
「邪魔者は消えますわ」
そう言って店番のシフトに入ってしまった。元から身の置き所に困るような学園祭で、却って店番をしていた方がまだ落ち着いたというのに。
ざわめきの中で少々疲れて立ち尽くしていると、彼女は後ろから声をかけられた。
「――」
名前を、呼ばれた。振り返ると、そこにはゼミ同期生の保坂晃が両手にフライドポテトを持って立っている。
「あ、保坂」
「やぁ、ミス・白零」
彼女は怒りと恥ずかしさと戸惑いとで、思わず一瞬だけ保坂を睨んでしまった。
「その呼び方、やめて」
「どうして? 名誉なことじゃない」
「ふざけないで。とんだ恥さらしだったわ」
「もっとオシャレをすべきだったね」
「そういう問題じゃない」
「ポテト、食べる? 河野ゼミの奴らの。油っこくて、まっずいの」
「そんなの勧めないでよ」
「俺が自分で作った方がまだ美味くできるね」
「あ、そ」
涼しい顔で保坂はフライドポテトを次々に頬張る。まずいという割には食べっぷりがいい。
彼女は、店番ばかりで朝から何も食べていなかったことを思い出して、急にお腹が減ってきた。
「図書カードあげるから、そのまずいポテトちょうだい」
「等価交換じゃないな。ポテトに過大評価だね」
「いいからちょうだいよ」
「はいはい」
保坂は紙コップに入ったフライドポテトを彼女に手渡した。彼女は礼も言わずに一本、口にする。それは、思ったよりは美味しかった。もう少し温かかったら、もっとマシな味だっただろう。空腹を埋めるため、彼女はそのまま三本続けて食べた。その様子を、保坂は満足げに眺めている。まるで観察されているようだが、悪い気はしない。
「……あ」
彼女は気づいたことを、そのまま口にした。
「王子様って、まさか」
「王子様?」
「さっき佐伯が……」
口ごもる彼女に、保坂は笑い声をあげた。
「陳腐な比喩だねぇ、佐伯の奴も」
「じゃあ、まさか保坂が?」
「俺が、何?」
意地の悪さなら佐伯より保坂の方が数段上だ。保坂は彼女の口から「言わせたい」のである。彼女も意地っ張りだ、そう簡単に相手の意図には乗らない。だが、
「ミス・白零。いや……、――」
再び名前を呼ばれた瞬間、周囲の雑音が消えた気がした。保坂の唇が確かに、自分の名前を辿っている。それだけで彼女の感情のメーターは振り切れそうになる。
「王子、さま?」
呟いた刹那、彼女は保坂に笑われるだろうと覚悟した。赤面して俯く。だが、次に彼女の予想していなかった言葉が保坂の口から聞こえた。
「はい。正解」
「……は?」
「『は?』ってのが、まったく君らしいよ」
苦笑しながら、保坂は彼女の髪を優しくなでた。

第四章 その手から零れ落ちる羽

【某年某月 獄中での手記】
いつから、僕は自分の影に囚われ、自分の翳に飲まれたのだろう。それとも、これが僕の本当の姿だったのだろうか? だとしたら、きっと僕は幸せだったんだろう。
彼女が教えてくれたのかもしれない、僕の知らない僕のことを、僕に。早くお礼が言いたい。

【1990年代の都内某所】
適度の悲しみは人を成長させる糧になる。人生に刺激を与える一種のスパイスだ。気持ちが低空飛行で困るという人がいる。しかし僕は、それが丁度良いと思う。なぜなら、それくらいの方が謙虚でいられるし、これから上がれるという「伸びしろ」があると考えるからだ。
「もう駄目だ。死にたい」
と口にする人も多い。それでもいいと思う。言葉にして吐き出せるうちは、それ自体が“大丈夫”のサインだからだ。
僕は自分の人生を語ることをあまりしない。必要ないし、気恥ずかしいという本音もある。それでも、相手によってはそれが必要なこともあって、そういう時僕は、必要以上にネクタイをきつく締める癖がある。
「大丈夫です」
そう言う人に限って僕は心配になる。
目の前にいる彼女は、僕が今まで出会った中でも特に印象に残っている子だ。僕のよく知らない遠くから、毎週電車に乗ってやってくる。

その時の彼女は、微笑んでいた。
「私は、もう大丈夫です」
「なぜ、そう思うのですか?」
僕の質問に、彼女は少し沈黙した。
「きっと、おかしいとおっしゃいます」
「そうなんですか」
「ええ」
そう言って再び彼女は沈黙した。沈黙は重要なファクターになる。その時の仕草や目つきなどを観察すると、それが有効な判断材料になるのだ。
「………」
彼女は、ふーっと息を吐いてから、長い髪の毛を弄び「うふっ」と声を出して笑った。僕からは敢えて声はかけない。相手の自発的な発言を促すために、頷きを利用することはある。僕は、彼女の目を見ながら首を一回、縦に振った。
彼女は伏し目がちに、瞳を潤ませている。別段泣いているわけではなさそうだ。むしろ、その微笑を見る限り、幸福感すら感じさせる。詩でも朗読するように、彼女は言った。
「私は幸せです、とても」
「というのは?」
「昨日の夜、天使が羽をわけてくれたんです。だからもう私は、飛べるんです」
「………」
「ね、おかしいでしょう」
「ご自分で『おかしい』という自覚がおありなら、大丈夫なんですよ」
「ええ、私は全然平気です」
「……、少し疲れてらっしゃるみたいですね」
彼女はその言葉に、否定の意思を示した。
「もう大丈夫なんです。これ以上だらけたら、私はダメになってしまう」
「だらけるんじゃないですよ。休養です」
「嫌です」
「焦りは禁物ですよ」
彼女は焦っている。強大な不安に襲われている。急にそわそわと手を中空に動かし始めた。
「2時はまだかしら……」
「夜は眠れていますか」
「世界が滲んでいく」
「睡眠はいかがですか」
「なんてだらしない……」
「どうしましたか」
僕は質問を投げかけることで、彼女の思考の解体を避けようとした。が、彼女は目の前にいるようで、全然違う世界にいるようだった。浮遊感すら与えるような、不思議な感覚。彼女は、笑っている。小さな肩を揺らして、笑っている。
「……」

【後に発見された彼女の詩】

からっぽの小さな鳥かごに両手を取られたのは私
見上げる月に照らされて両目が赤く光ってる
かわいい天使の着地地点

優しいギターの旋律と逆回転する柱時計が
2時を指し示すとき
私自身も天使になれるの

【最後の光景】

「もう大丈夫です」
そう言って帰った日の晩、彼女の家族から電話があった。一糸まとわぬ姿で、家を飛び出したとのことだった。
嫌な予感ほどよく当たる。僕は冬の街を彷徨う彼女の姿を想像して、息を飲んだ。
天使の羽のように舞い落ちる雪が僕の視界を塞いだ。
やがて僕の目の前で、彼女の目にだけ映っていた天使の、禍々しい両眼と同じ色が、雪景色を穢すように広がった。僕の中で、何かが弾け飛んだ。
「死にたい」
「もういやだ」
「どうしたらいいのかわかりません」
「苦しいよ」
「辛いです」
「助けてください」
僕が日々聞く言葉たち。それがどうも、あれ以来僕にはこう聞こえるのだ。
「私は、飛べますか?」

【だから、願いを叶えてあげよう】

「篠畑先生」
僕は呼ばれて振り返る。
「……どうしましたか?」
「助けてください」
そう言われて、僕は微笑む。――あの日の彼女を思い出しながら。

第五章 その面影

第三章 さようならだけはいわないで

冷たい廊下にカツン、と高音が響く。狭い空間によく映える鋭い音。それがテンポよく聞こえてくる。彼は読んでいた本から目を離し、来客を待った。カツカツという靴音は、彼の部屋の前で止まる。

一呼吸置いてから、来客は静かに彼にこう言った。

「……話があるの」

篠畑礼次郎は即答せず、客を迎え入れるために紅茶を淹れようと、椅子から立ち上がった。この緩慢な動作が来客にはひどく不快だったが、篠畑のこのペースは昔からちっとも変わらないので仕方がない。

「セイロンよりアッサムがいいかな」

篠畑は茶葉の入った缶を選んでいる。彼の言動に文句をつけていてはキリが無い。来客はじっと時が過ぎるのを待った。腕組みしながら、篠畑が自分を招き入れるのを待っている。急いでいるとはいえ、「拘束された自由」を侵してはならないと心得ているからだ。

しかし数十秒経った頃、篠畑はあっけらかんとこう言った。

「あ、鍵なら今日は開いてますけど」

来客――ミズはわざとハイヒールで床を軽く蹴とばした。一際高い音が響く。

「相変わらず喰えない奴ね」

小声でそうこぼした。

篠畑は自分の椅子をミズに勧め、自分はベッドに腰かけた。

「あぁ、美味しい」

マイペースに紅茶の感想などを述べるものだから、ミズの苛立ちは増長する。だが篠畑が言う通り紅茶はかなり美味しかったので、ミズのご機嫌は辛うじてキープされる。

ミズは早速本題に入ろうと、こう切り出した。

「ここで新聞は読めるんでしょう?」

「新聞だけじゃないですよ。本だっていくらでも読めます」

「そんな事はどうでもいいの」

「僕の紅茶は我流だったんですが、本でちゃんとした淹れ方を知りました。場数を踏まないと上達はしませんね。まだあの人に淹れてあげるのは難しいな。もっとも、ここにいる限り逢う事はできませんが」

勝手に話を進めて、勝手に苦笑している篠畑をけん制するように、ミズはやや語気を強めて言った。

「Dr.篠畑」

懐かしい呼称で呼ばれた篠畑は一瞬だけ、ぴく、と右眉を上げた。そして何でもないような素振りで紅茶を一口、口に運んでから、

「……なんでしょうか」

「話があるのよ」

「まぁ、そうでしょうねぇ。あなたがここに暇つぶしに来るとは到底思えない」

「篠畑。あなた、私が何を訊きたいのか、もうわかっているはずよ」

「さて?」

篠畑お得意のおとぼけである。ミズは苛立ちを極力抑えて続ける。

「この間、身内が捕まった話は知っているわよね」

「ええと、一昨日の三面記事に載ってた件かな?」

一言発するたびに篠畑は紅茶を飲むので、話がスムーズにいかない。だがそんなことはミズにはわかりきっていることである。

「単刀直入に聞くわよ。あなた、『彼』に何をしたの」

篠畑は首を少しだけ右に傾け、

「と、おっしゃるのは?」

とミズの言葉を促した。ミズは足を組みかえながら、イラついた時の癖である腕組みをした。

「今日はただ捜査協力の申請をしに来たんじゃないの」

「ほう」

「もう一度訊くわ。あなた、『彼』に何をしたの」

「どなたのことでしょう」

ミズは苛立ちを発散させるように、フン、と笑った。

「何がおかしいんです、ミズ。あなたらしくもない」

「本当は貴方だって笑いたいんじゃないの? まったく違う意味で」

そう言われた篠畑は、それでもとぼけた顔である。

「紅茶が冷めてしまいますよ」

「結構よ。これ以上とぼけないで」

「何の話やら……」

尚も白を切る篠畑だったが、ミズは動揺しなかった。直後にミズが続けた言葉に、篠畑の「何か」がオンになったのである。

「……人形遊びも度が過ぎたようね」

「人形遊び?」

篠畑の両目に何かが灯り始める。彼は紅茶のカップをベッドに置くと、あごに手をやった。

「ああ……『彼』かぁ」

まるで懐かしい友人でも思い出すかのようだ。

「そうですね……ちょっと遊びすぎちゃいました」

そう言ってニッコリ笑った。

ミズの顔から、自らを嘲るような笑顔が消える。

「今朝、その彼の机からこんなものが出てきたの」

ミズはコピーされたノートの1ページを差し出した。それを見た篠畑は、しかし顔色一つ変えない。

「悔しいけど、あなたからの情報が必要。今すぐ白状してちょうだい」

ミズの百歩譲った発言に気を良くした篠畑は、残りの紅茶を飲み干して足を組み直した。

「構いませんよ」