中指

より暗いほうを見ていたかった。闇の濃くて冷たい空間に視線だけでも逃してやりたかった。

LEDで照らされた京王線の車内、帰宅のラッシュアワーを少し過ぎた頃に、どうにか座席を確保し仕事で疲れた体を沈めると、7人がけのロングシートに7人の人が、まるで規則であるかのようにずらりとスマホに見入っている。

この光景に違和感を覚えられるうちは大丈夫、と自分に言い聞かせてワイヤレスヘッドホンから聞こえてくるオルタナティブロックバンドのサウンドに気持ちを集中させようとした。

車両が動き出しても、人々は取り憑かれたようにスマホから指を離さない。座席の人だけではなく、立ち客たちも軒並みスマホを見つめている。

1/fゆらぎも、私に安らぎを許さなかった。同じようなポーズの人々に、無性にいらいらした。それ以上に怖くなった。果たしてこの中の何人が、匿名や偽名で罵詈雑言や誹謗中傷を書き込んでいるのだろう。単なる気に食わなさを難しげな言葉や他人の理論で武装して、暴力を撒き散らしているのだろう。いや、最近は手口が巧妙になっていて、被害者を装って誰かしらの悪評を垂れ流すようなこともあるらしいけれど……。ここまでくると、怖いというより、薄気味悪い。ばれないと思っているその神経が悲しい。もっとも、知ったことではないのだけれど。

突然、急ブレーキをかけて列車が停車した。つり革に掴まっていなかった立ち客がよろめいて、危うく転倒しそうになった。人々がスマホから顔を上げる。車内アナウンスで、この先の踏切で安全確認をしている旨が流れると、人々はまたスマホの画面にかじりつき、指をせかせかと動かしはじめた。

「また遅延。まじでクソ」
「バイトに遅れるオワタ。弁償しろ」
「誰か飛び込んだの?ww」
「迷惑かけるなら他所でやれ」

ため息も出ない。これだけ人がいるのに、どうしてみんなして似たようなことをするのだろう。7人いたら7人スマホ、100人いたら100人スマホ。ブルーライトは今やヨコハマではなく皆さまの画面からとても綺麗ね。何言ってんの?

視線だけでも逃してあげたい。光の少ないほうへ。より暗いほうへ。車窓からなるべく遠くを見る。視界だけでも自由に——少なくともスマホに氾濫する情報から——なれる気がした。ヘッドホンではロックバンドが「中指一本立てられないで」と歌っている。

そうだ。嫌なら嫌と表現すれば良い。指先だけを使いテキストデータで汚い感情を吐き出す奴らに向けて、

私は、中指を突き立てた。

誰に咎められることもなく、調布駅に着くと、特急列車からどっと人が降りていく。何事もなかったように。さすがはたくさんのコトモノを無かったことにする思考停止が得意な社会。「カシャッ」という誰かのスマホの安っぽいシャッター音とともに、私の中指は静かに闘いを終えた。

「なんか喧嘩売ってる奴いたwww」

ハッシュタグでもなんでもつければいい。どうぞ勝手に呟いてくれ。あなたがたの御勝利、おめでとうございました。

暗いほうへ、暗いほうへ。もっとずっと暗いほうへ。私の視線だけは、自由だ。