第二群  聖 夜

久々の電車だ。征二はまっすぐ背筋を伸ばして、座席に座っている。ゆらゆら揺られながら、何かを指折り数えているようだ。目の前に立っていた但馬は、「何を数えているの?」と何気なく問うと、征二な柔和な笑みを浮かべた。

「ユイにあげるプレゼント、何がいいかなって」
「そう……」

高円寺駅を降りると、征二は街の賑々しさには全く関心がなく、急ぎ足で教会を目指した。但馬はついていくのが精一杯だ。スニーカーを履いてきてよかった。

駅から征二の徒歩で5、6分で教会に辿りつく。街中に、突如現れる綺麗な白い建造物。
門をくぐり、中へ入ると、その入り口には看板が立っている。

『神は信じる者をすべて許し、すべてを与える。』

征二は、その言葉を数秒ほど凝視した。何を思ったのかは但馬には全然わからなかった。理解できるはずもない。征二の、あまりにも混沌とした自意識の世界に、神が万が一いるとして、それならば何故、彼から恋人を奪ったのだろう。

礼拝が始まると、征二はおとなしく手を組み、目を静かに閉じてじっとしていた。

何を思い、何を感じ、……何を、畏れているのだろう。

征二の穏やかな今の表情からは、普段の様子が想像できない。きっと今、彼は恋人――ユイと繋がっているのだ。

但馬はクリスチャンではないが、征二の様子を見て、見よう見まねで手を組んだ。

壇上では神父だか牧師だかが、聖書を読みあげている。ロウソクがその火を揺らめかせている。パイプオルガンの音色の響く荘厳な空間。

かつて、症状が激しかった時期、征二はよく口にしていた。

「赤い眼をした天使がユイを殺しに来る。俺はそいつらを殲滅する為に選ばれし神なんだ」

と。

今は、どうなのだろう?

『彼女』がいない、今となっては。

礼拝が終わって教会を出ると、但馬は征二に提案をした。

「まだ時間もあるし、寄り道しない?」

本来なら業務の範囲外だ。だが、今日はクリスマスイブ。それくらいは看過してもいいと判断した。

「せっかくだもの。おいしいお茶を飲みましょうよ」
「はい、わかりました」

背筋をまっすぐにして、征二は言った。

教会から歩いて高円寺純情商店街を通過し、道路を一本渡った先に、一軒のカフェがあった。クリスマスイブだというのに、そんなに流行っていない様子だ。特段デコレーションもされていない。ここなら落ち着くと但馬は判断した。

カフェの中は、外見通り落ち着いた雰囲気だ。初老の店主がコーヒー豆を挽く音と、柱時計の秒針の音しかしない。どうやら貸し切りになりそうだ。

「ブレンドください。工藤君は?」
「……カフェオレ」

店主は黙って頷くと、豆を挽く作業を止め、淹れる作業にかかった。但馬と征二はしばらく黙っていたのだが、コーヒーが運ばれてくると、但馬が先に「ほっ」と息をついた。

「ねぇ、工藤君。最近は調子、どう?」

直球の質問に、しかし征二は動じることない。

「お陰さまで元気です。できることならまた、グラウンドで思い切り走りたいです」

征二は学生時代、陸上部に所属していた。確か中距離ランナーだったと但馬は記憶している。

「今は、本ならいくらでも読めます。ランボーはもう全集を何度読んだかわかりません。ボードレールの『悪の華』、中原中也の『在りし日の歌』はもう、表紙がボロボロです」
「そうだね、いつも読んでいるものね」
「ユイに、返さなきゃいけないのに」
「え」
「『悪の華』はユイが大学の図書館で借りてきてくれた本なんです」
「……そっか」

『ユイ』。恐らく一生、征二の心を縛り付けるであろう、恋人の名。

何年か前の、あれも確か今のような冬のことだった。毎週水曜日の午後2時にお見舞いにやってくるのが習慣になっていた佐々木ユイは、その日も手土産を持って征二に会いに来る筈だった。一月下旬、もう大学は早めの春休みに突入していた。

突如として、彼女は姿を消した。

――「今日、ユイ、遅いね」。

この事を知ってか知らずか(周囲の人間は皆、彼に現実を伝えてはいない。伝えたところで彼がそれを正しく受け入れるとは到底思えない)、その日を境に征二は、ますます自閉的で荒涼とした思考の世界の住人となった。

但馬は同情こそしないが、事実を隠している一人として申し訳なさは征二に対して感じているので、彼が「ユイ」と口走る度、胸がちくりと痛む。

「ジャカランダの花が、」

不意に征二は口走った。

「え、何の花?」
「ジャカランダ・ミモシフォリア。ノウゼンカズラ科ジャカランダ属の花です」
「聞いたことないなぁ」

但馬さんは頬を掻きながら、

「工藤君は物知りね」
「白い丘陵に咲き誇り、俺の記憶を世の果てに持って行くんです」
「え、誰が?」
「ジャカランダが、俺からユイを奪ったんです」
「どういう意味?」
「誰の目にも美しいものこそが、この世で最も醜いんだ」

但馬は眉間にしわを寄せた。征二の言動がいつにもまして支離滅裂になっているからだ。

「……大丈夫?」
「どうせまた、俺が兄に小言を喰らうだけです」
「どうして」
「だって俺、殺しちゃったから」

誰を、と問うのは全く愚問だし、野暮だろう。カフェの店主は、何も聞いていないフリをしていてくれる。ありがたいことだ。

「――俺が、この手で」
「工藤君。大丈夫よ。何も怖くないわ」

征二はウソみたいに柔らかく微笑んだ。

「ええ。何も怖くありません。俺には、すべてがあるから」

『神は信じる者をすべて許し、すべてを与える。』

決して満たされない想いというのは、こうもヒトの心を蝕むのだろうか。但馬は自分のPSWとしての技量の軽薄さ、人間としての軽率さを痛感した。

征二の頬を、一筋、涙が伝っているのである。

店内には、無難なクリスマスソングが、ジャズ風にアレンジされて流れている。運ばれたコーヒーはすっかりぬるくなってしまった。

ジングルベル、ジングルベル。鳴らない鈴は誰を待つ?

「……時間もあれだし、あまり長居もできないわね」
「戻る前に、川が見たいです」
「川?」
「見なくちゃいけないんです。役目だから」

但馬はその言葉にはあまり深く突っ込まず、「うーん……この近くだと、面影橋かな」と、携帯電話で地図を見た。