午後2時を回って、真水は病棟の入り口ばかりを気にするようになった。
今日なのだ、征二の家族が面会にやってくるのは。征二はいつもと変わらず、窓辺で陽光を浴びながら詩集を読んでいる。 他の患者もめいめいに過ごしている。
箱庭の日常。そこへやってきた面会者、いわば客人は、そのトロトロとした日常の流れに波紋を投げかけることになる。
「相変わらずだな、お前」
抑揚のない声で言ったのは、征二の兄、俊一だ。久々に会った第一声が、それだった。
「新しい本は買わないのか?」
繰り返し読まれてボロボロになった、アルチュール・ランボーの詩集。それは、征二の止まった時を代弁しているかのようだ。
「兄さん、仕事は?」
「今日はまだ年はじめだから、早いんだよ」
「そう」
会話が止まる。
「……体調はどうだ」
「気にする必要がないよ。肉体はとうの昔に祝福されてる」
「それは、わざと言っているのか?」
――意味の、わからないことを。
真水は他の仕事をしながら、半ば固唾を飲んで様子を見守っていた。高校の教職にある俊一のスーツ姿が、病棟では浮いて見える。
久々の再会だというのに、俊一の口調はどこか冷たい。
「土産だ」
俊一は、以前よく持ってきていたシュークリームを渡した。
「3つ、ある?」
「ああ」
兄と自分と、ユイの分。
「よかった。ここのやつ、ユイが好きだから」
そう言って、征二はシュークリームを頬張った。
マイペース、という表現には語弊があるかもしれないが、どこまでも自分の世界に生きている弟を、兄として俊一はどう思っているのだろう。推し量るには、彼と弟と会話に生まれる溝を見ればいい。
征二の眼は、疾うにこの世の光を映してはいない。違う次元を認識し、表現しているのだ。しかしそれも、本当に壊れてしまわないための、悲しい防御壁なのだろう。
それが仮令、かつて主治医である真水が言った「過剰な自己防衛反応」という名称がつけられていたとしたって、それは俊一の救いにはならない。否、誰の救いにもならない。
「次は、月を食べたいな」
征二はどこまでも、閉じた世界の住人だ。
「面影橋で、美しい最期を見たよ」
「なんだって?」
「救いを求める人を嘲るように、『それ』は、散る……」
「……」
俊一が言葉に詰まったちょうどその時、
「いやだっ!」
病棟の隅で麻衣子の悲鳴が上がった。先日、蠢いた個所がいよいよ『飛び立つ』時が来たのだ。麻衣子は涙目で手袋を押さえるが、蝶は容赦なくその翅をバタつかせる。真水が気づいた時にはもう、
「うっ、ああ」
黒蝶が、ひらりと、舞いあがった。鋭い痛みが麻衣子を襲う。麻衣子は為す術もなくうずくまってしまった。
「樋野さん!」
駆けつけた真水は息を飲んだ。
麻衣子は、左薬指の第一関節を失ったのだ。
病棟は多少ざわついたが、それ以上の混乱はなかった。他人の不幸に構っていられる余裕のある人間など、ここにはいないのだ。それこそ、我が身の「不幸」も手に余しているというのに、他の誰かに向ける情など、持ち合わせていたら、こんな場所にはいないのかもしれない。
それは、2つの意味を指す。1つは、本当に他者に関心がない状態にまで病状が悪化していること。そしてもう1つは、他者に情をかけ過ぎて、その優しさのあまり傷ついた経験を以て病んだということだ。
病棟の蛍光灯に黒蝶がとまる。真水はうな垂れて、
「樋野さん、ごめんね」
「……なんで、センセが謝るの」
「いや……、ううん、何もできないから」
「そんなの、最初から分かってたよ」
「せめて、痛み止めと消毒を」
「うん、お願いします」
俊一は、何も見ないふりをした。関わらないほうがいいのだ、こういうことには。ましてや、自分の家族のことも処しきれていないというのに。
「征二。今度大事な話があるから、こんな場所じゃなくて、外で会わないか?」
「兄さん、」
「何だ」
征二は天井の黒蝶を指差し、
「あれ、採って」
「……」
何も変わらない。何も。
日々はただ流れていくばかりで、そこに想いを刻んで何かを求めても、無情に流されるだけだ。
「丸い月を食べたのは、1267匹目の羊さ」