第三群  再 会

午後2時を回って、真水は病棟の入り口ばかりを気にするようになった。

今日なのだ、征二の家族が面会にやってくるのは。征二はいつもと変わらず、窓辺で陽光を浴びながら詩集を読んでいる。 他の患者もめいめいに過ごしている。

箱庭の日常。そこへやってきた面会者、いわば客人は、そのトロトロとした日常の流れに波紋を投げかけることになる。

「相変わらずだな、お前」

抑揚のない声で言ったのは、征二の兄、俊一だ。久々に会った第一声が、それだった。

「新しい本は買わないのか?」

繰り返し読まれてボロボロになった、アルチュール・ランボーの詩集。それは、征二の止まった時を代弁しているかのようだ。

「兄さん、仕事は?」
「今日はまだ年はじめだから、早いんだよ」
「そう」

会話が止まる。

「……体調はどうだ」
「気にする必要がないよ。肉体はとうの昔に祝福されてる」
「それは、わざと言っているのか?」

――意味の、わからないことを。

真水は他の仕事をしながら、半ば固唾を飲んで様子を見守っていた。高校の教職にある俊一のスーツ姿が、病棟では浮いて見える。

久々の再会だというのに、俊一の口調はどこか冷たい。

「土産だ」

俊一は、以前よく持ってきていたシュークリームを渡した。

「3つ、ある?」
「ああ」

兄と自分と、ユイの分。

「よかった。ここのやつ、ユイが好きだから」

そう言って、征二はシュークリームを頬張った。

マイペース、という表現には語弊があるかもしれないが、どこまでも自分の世界に生きている弟を、兄として俊一はどう思っているのだろう。推し量るには、彼と弟と会話に生まれる溝を見ればいい。

征二の眼は、疾うにこの世の光を映してはいない。違う次元を認識し、表現しているのだ。しかしそれも、本当に壊れてしまわないための、悲しい防御壁なのだろう。

それが仮令、かつて主治医である真水が言った「過剰な自己防衛反応」という名称がつけられていたとしたって、それは俊一の救いにはならない。否、誰の救いにもならない。

「次は、月を食べたいな」

征二はどこまでも、閉じた世界の住人だ。

「面影橋で、美しい最期を見たよ」
「なんだって?」
「救いを求める人を嘲るように、『それ』は、散る……」
「……」

俊一が言葉に詰まったちょうどその時、

「いやだっ!」

病棟の隅で麻衣子の悲鳴が上がった。先日、蠢いた個所がいよいよ『飛び立つ』時が来たのだ。麻衣子は涙目で手袋を押さえるが、蝶は容赦なくその翅をバタつかせる。真水が気づいた時にはもう、

「うっ、ああ」

黒蝶が、ひらりと、舞いあがった。鋭い痛みが麻衣子を襲う。麻衣子は為す術もなくうずくまってしまった。

「樋野さん!」

駆けつけた真水は息を飲んだ。

麻衣子は、左薬指の第一関節を失ったのだ。

病棟は多少ざわついたが、それ以上の混乱はなかった。他人の不幸に構っていられる余裕のある人間など、ここにはいないのだ。それこそ、我が身の「不幸」も手に余しているというのに、他の誰かに向ける情など、持ち合わせていたら、こんな場所にはいないのかもしれない。

それは、2つの意味を指す。1つは、本当に他者に関心がない状態にまで病状が悪化していること。そしてもう1つは、他者に情をかけ過ぎて、その優しさのあまり傷ついた経験を以て病んだということだ。

病棟の蛍光灯に黒蝶がとまる。真水はうな垂れて、

「樋野さん、ごめんね」
「……なんで、センセが謝るの」
「いや……、ううん、何もできないから」
「そんなの、最初から分かってたよ」
「せめて、痛み止めと消毒を」
「うん、お願いします」

俊一は、何も見ないふりをした。関わらないほうがいいのだ、こういうことには。ましてや、自分の家族のことも処しきれていないというのに。

「征二。今度大事な話があるから、こんな場所じゃなくて、外で会わないか?」
「兄さん、」
「何だ」
征二は天井の黒蝶を指差し、
「あれ、採って」
「……」

何も変わらない。何も。

日々はただ流れていくばかりで、そこに想いを刻んで何かを求めても、無情に流されるだけだ。

「丸い月を食べたのは、1267匹目の羊さ」