麻衣子の携帯にメールが来たのはその日の夜だった。夕飯も終わり、あとは消灯を待つだけの退屈な時間に、羊子から華麗なお誘いが来たのだ。
『土曜日、六本木あたりでデートしない?』
「わぉ」
麻衣子はひとりごちた。
でも、着ていく服がない。そんな都会に出るのは久々だし、ずっと病棟生活で、ファッションに気を遣うこともなかったからだ。
しょうがない。せめてマシな格好をしよう。ジャージじゃなくて、スカートとか。でも、スカートなんてあったっけ? 病棟は基本的に肌の露出の多い格好は敬遠される。
困ったなー……。
こういう時は、迷う前に相談。直接、羊子に聞けばいいのだ。麻衣子は携帯のメールを返信しようとしてハッとした。
指先が2本、無い。
わかっていたけれど、とっくに覚悟はしていたけれど、それでも、悲しい。今は、左の小指の先が少しだけ黒ずんでいる。これもそのうち蝶になって飛びだっていくんだろう。
わかっている。わかってはいても、悲しいものは悲しい。
『何を着ていけばいい?』という麻衣子の質問に、羊子からの返信は早かった。
『温かくして来て。新しい服をショッピングしましょう。』
真水は一人で気を揉んでいた。羊子のことだから何もないとは思うのだが、羊子のことだから何かあると思ってしまう。学生時代から彼女はそうだった。一人で何かを考えて勝手に行動し、突っ走っては周囲に心配をかける。しかし、本人に反省の意はなく、それを問うと却って気を悪くするのだ。
「何がいけないの?」は、もはや羊子の常套句である。
土曜日になって、雨が降った。傘が要るかいらないか程度の雨だったが、麻衣子の気を滅入らせるには十分だった。
「せっかくのお出かけなのにね」
看護師が慰めだかなんだかよくわからない言葉をかける。麻衣子は辛うじてとってあったチュニックを着て、コートを羽織った。
「行ってきます。7時には戻ると思う」
「戻らなきゃいけないの、よ。ごめんなさいね、決まりだから」
「わかってる」
麻衣子は、誰にともなくため息をつき、病棟から久々に外へ出かけた。
目の前の道路を見ただけなのに、なんだかとても遠くの世界に来たような感覚に襲われた。これなのだ、この感覚だ。箱庭に引きこもっている自分には無いもの。失ってしまったもの。
息を吐くと、白かった。そんなことすら、忘れてしまっていたのだ。
目指すは六本木。新宿で、赤いしるしの電車に乗り換える。携帯で乗換案内を見ながら、麻衣子は軽くジャンプした。
なんとなく、自由な気がしたからだ。気がするだけで、ちっともそうではないのは、彼女自身が一番よくわかっている。
曇天からそれこそ申し訳程度に降る雨に、麻衣子はちょっとだけ恨みの念を覚えた。
やってきた電車に揺られていると不思議な気持ちになる。終点まで乗れば、海が見られるだろう。しばらく彼女は海を見ていない。そういえば。季節の花も見ていない。去年の紅葉も知らずに過ごしたし、名前の知らない赤い実のことも忘れていた。
忘れながら、人は生きていくのだろうか。
忘れないと、生きていけないのだろうか。
六本木に着くと、麻衣子は小走りで待ち合わせ場所へ向かった。
「偶然ね」
羊子は笑って手を振った。ヒルズ前にいた彼女は、麻衣子と同じ色のコートを着ていたのだ。
「羊子さん、あまりベージュってイメージじゃないな」
「そう? 麻衣子ちゃんは良く似合ってる」
「ありがと」
「そこの喫茶でいい?」
洋子の指した先には、小ぢんまりとしたカフェがあった。
「うん。羊子さん、タバコ吸うでしょ?」
「うーん。禁煙中、と言いたいんだけどね」
「医者とは思えないなー」
店内に入ってすぐ、羊子は灰皿を取って席に着いた。
小さな店内だ。すぐに気付くべきだったのかもしれないが、羊子にはそこまでの鋭さがその時には無かった。麻衣子は久々の外出でどこか舞いあがっていたし、そもそも彼女が気づくべきではなかったことなのかもしれない。だが、安易な運命論を否定し続けるその存在が、樋野麻衣子というある意味運命に侵されている存在を、その視界に捕えたのも必然なのかもしれなかった。
運命は、妥協と策謀の織成す布のようなものだと、羊子は認識している。その布を切り裂くのは、意思という刃だ。
だから、羊子は注文したコーヒーが来る前、タバコに火をつけたその瞬間に、
「……偶然、よね」
眼光鋭くそう呟いた。
「え? 何が?」
麻衣子の質問はもっともだ。
「今日ここに来ること、誰かに言った?」
「うん。だって外出届を出さなきゃいけないから」
「そ。じゃあ白田は知ってるのね」
「そりゃ、一応主治医だもん」
「一応、か。白田が聞いたら泣くわ」
そう言いながらも、羊子の目は笑っていない。
「どうしたの? 羊子さん」
「あのさ、麻衣子ちゃん」
「ん?」
「つまんない昔話をしてあげる」
「はい?」
羊子が視線を一瞬だけ刺したその先には、携帯電話の操作に夢中になっている、小湊浩之の姿があった。
第四群 曇 天 へつづく