『運命』なんて言葉は便利すぎて吐き気がする。羊子は心からそう思っている。
誰が何を企もうと、誰が何処で笑おうと、それを『運命』だからしょうがないのだと片付けようとする安易さに立ち向かって生きてきた。だから、
「私ね、とんだ不良学生だったのよ」
「医学生が?」
「犯罪者、だったかも」
「えーっ! 万引きとか?」
「だったら、まだ良かったかもね」
羊子の表情は硬い。
「過去は、どこまで追いかけてくるのかしら」
「うーん。羊子さん、詩人だ」
「ありがと」
麻衣子は羊子の様子の異変に、目をぱちくりさせて、
「何かあったの?」
何も無かった、そんな訳がない。
聞く人によっては、本当につまらない、ただの思い出話だろう。だが、羊子にとっては一生に影を落とす出来事だったのだ。
それは、若気の至りと呼ぶにはあまりにも残酷で、出来心と呼ぶにはあまりにも痛烈だった。
今にも泣き出しそうな曇天の下で、友人を見送ることになった。
彼は、静かに息を引き取った。
無力さに、その場にいた二人は打ちひしがれた。
小湊浩之は、先天性の心臓の病で二十歳まで生きられればいい方だと医師から言われていた。
スポーツを禁じられていた彼の一番の楽しみは、スペインサッカーリーグ・リーガエスパニョーラを観戦することだった。
彼はファンタジスタと称賛されるプロ選手たちの華麗な技に、心奪われた。彼は特にバルセロナのファンで、赤いレプリカのユニフォームを大事にしていた。
二十歳の誕生日を迎えるその日、彼は言った。
「一度でいいから、思い切りサッカーがしたい」。
大人は誰も、その言葉を真に受けなかった。ただ、彼の幼馴染だった工藤俊一と黒峯羊子を除いては。
見ただけでは何もわからない。浩之の体にある心臓が、さながら時限爆弾のように脈打っていることなど。
俊一と羊子は、決意して彼を病棟から連れ出した。
冬の日の出来事だった。「一度でいいから」、その言葉通り、浩之の人生でサッカーをしたのはそれが最後になった。
ハーフに入る直前だった。3人でとはいえ、心からプレーを楽しんでいた浩之の表情が、突然凍りついた。そして、そのまま為す術なく倒れ込んだ。
「浩之!」
俊一と羊子は浩之に駆け寄った。切れ切れの息で、浩之は、うっすら目に涙を浮かべていた。
「……俊、ヨーコ。ありがと」
どこまでも、曇天の日の出来事だった。
話を聞いた麻衣子は、どう返答していいのか分からず、
「……そうなんだ」
とだけ言った。
「ごめんなさいね、いきなり暗い話して」
「でも、なんで?」
「『なんで』って?」
「2つのイミで。なんで、そうなるってわかてって連れ出したの?」
羊子は伏し目がちなった。
「どちらにしろ、長くなかったからよ。願いを叶えてあげたかった」
「……そっか」
「もう一つは?」
「うーん」
麻衣子は、首を傾げた。
「なんでその話を、今、したの?」
自然と言えば自然な質問だろう。しかし、羊子の心中は穏やかではない。
「そうね。麻衣子ちゃん、運命って信じる?」
「へ?」
「因果応報、とかそういう類の」
麻衣子はいつもと羊子の様子が違うのを察し、
「そうだね、一応、無いことないとは思う、けど」
と曖昧な返答をした。
「羊子さんらしくないね、なんだか」
「そう、かしら。……そうかもね」
まるで独り言だ。
過去は何処までも過去なのだ。縋ろうがこだわろうが、変えられない。決して変わらない。
しかし、過去の処し方によっては、未来に影響を及ぼすことも多々ある。そして人はそれを「運命」だと呼びたがる。
小湊浩之は確かに、あの曇天の日に逝った。この目で見届けさえした。けれど、彼は確かに今、ここに存在している。
「羊子さん。コーヒー冷めちゃうよ」
麻衣子に話しかけられて、羊子ははっとした。
そんなこと、あるわけがない。こんな場所に、居るわけない。ただの人違いだ。
「ごめんなさいね。せっかくのデートなのに」
そう言って、コーヒーに口をつけた。
「うーん、まぁまぁ、かな」
「冷めちゃったからだよ」
「それもそっか」
羊子は非常に複雑な心境だったが、それを押し殺して苦笑した。
―――ただの、人違い?
今日も、あの日の様な曇天だ。
「運命、ね。つまらないわ」
「物事を片付けるのにもってこいの言葉だね」
麻衣子もそう思っている。いや、身を以て実感している。
黒蝶への変化が運命だなんて言われても、納得いくわけがない。
「指先。見せてくれる?」
「ははぁ、観察だね?」
「そ。一応診察って言って欲しいけど」
「どっちでもいいじゃん。変わらないよ」
「そうね」
そう微笑んで、麻衣子の指先を見た羊子は、しばし黙してから、
「……進んでる、わね」
「うん。3匹目がこの間飛んでいったよ」
「……そう。痛かったでしょうね」
羊子は力なく首を横に降った。
「ごめんなさい。何もできなくて」
「羊子さんが謝ることじゃないよ」
医師としての無力さ、人としての軽薄さ、それらを、羊子は麻衣子を通じて感じる。
黒蝶は飛んでいく。麻衣子の一部は、勝手に自由を得て飛んでいく。
しかし、それが、切断されて発見された。
それは果たして、自由に対する侮辱か?
……その『組織』に関しては、ネット社会になった今、様々な場所で噂がされているが、いわゆる一般人は誰もその全貌を知らない。
食品会社だったり、製薬会社だったり、製紙会社だったり、学校法人だったり、それこそ日常にいくらでも存在している社会の中に紛れているとも言われている。
組織の目的は、それこそ国家機密に比するほどのもので、知った者は暗黙の了解で暗殺者にデリート=殺害されるとまで言われている。
しかし、あくまで噂だ。そもそもそんな『組織』が存在するのかも定かではない。
だから、高校で教鞭を執る工藤俊一も、そんな『噂』には懐疑的「だった」。
―――「なんでも願いが叶う組織、か。まるで新興宗教じゃないか」。
幼馴染を失い、心病んだ実弟を持つ彼にとっては、もしかしたらこの現し世のすべてがまやかしの様なのかも知れなかった。誰もその空白を埋めることは、できない。
人は孤独を抱えて生きていく。孤独を忘れた魂は呆ける一方で、その本質から外れる。孤独の中にしか、価値ある生命は存在しない。
だから、身を裂く思いで日々を必死に生きる人間には、漫然と生きる満たされた人間が理解できない。否、理解など、したくもない。言わずもがな、『価値』を失うからだ。
「生きている、それも欲を発散しながら。それ以上に満たされ凡人が何を望むっての」
かつてそう言ったのは、どこの皮肉屋だっただろう。孤独を放棄した人間は、魂に欠陥を持っている。孤独からの逸脱は、「生きる」という行為に対する、侮辱なのだろう。
「工藤先生、お疲れですか?」
後輩教師の城崎 諭に声をかけられ、俊一はハッとした。
「パソコンの前でフリーズしてましたよ」
「あ、あぁ。すみません。最近疲れが溜まっているもんで」
「まだ新学期始まったばかりのなのに、大変ですね」
「まあ、そうですね」
何気ない会話。それが、自分の弟とはできない。弟は夢を見ているんだろう。夢の世界に生きているんだろう。
―――目を、覚ませ。
何度そう言ったかわからない。だが、それは本当に弟の幸せを担保するのだろうか? こんな現実を見つめることに、どんな意味があるというのだろう。
「工藤先生?」
城崎が怪訝そうな顔で、こちらを覗き込んでいる。
「眉間にしわが寄ってますよ」
「……すみません」
「いや、謝ってもらわなくてもいいんですけど、本当に大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
言葉に全く説得力がない。
「……いや、やっぱり今日はこの辺で引き上げます」
「その方がいいですよ。明日から連休だし、ゆっくりしてくださいね」
連休?
ああ、成人の日があったのか。
「ええ、そうです。成人の日です」
「え?」
「え、何ですか?」
「……いえ」
……疲れているんだな、自分。
「そんな訳で、門限破り確定☆」
「どんな訳? しかもウキウキ言わないでくれる? 看護師長に小言を喰らうのは僕なんだから」
「あら、私じゃないからいいじゃない」
「君のその性格、羨ましいよ、本当に」
「ありがとう」
「褒めてない」
真水は頭を抱えた。薄々予感はしていたのだが、こうも的中するとなんとも複雑な気分になる。
羊子は麻衣子をディナーに誘うという。麻衣子も乗り気なのだそうだ。それはそうだろう、いつも冷めた病院食なのだから。
「どういうことですか、白田先生」
電話が切れると同時に、看護師長の重厚な声がして、真水はぐったりして振り返った。
「どういうことというか……。いえ、僕の責任です」
「困るんですよねー」
困る、というのは、患者を『管理』しなければならないから、という立場から来る言葉だろう。真水は内心、そんな看護師のスタンスにあきれつつも、自分の立場もあるので、力なく言葉を返した。
「黒峯先生には、強く言っておくから」
「頼みますよ!」
……はぁ。
自分が夜勤の日に限って、だ。ついてない……というか、羊子に振り回されている。
もっとも、今に始まったわけではないので、分かっていたといえば分っていたのだが。
「白田先生」
また呼ばれて、真水は半ば適当に「はい」と返事したのだが、相手が征二だったので、慌てて向き直った。
「どうしました、工藤さん」
「黒蝶は」
「はい」
真水は征二の話を傾聴するよう、心がけている。他の医師だと「ただの妄言だ」と切り捨ててしまいがちだが、真水は、征二のこうした言葉の中にこそ、何かが隠れているはずだと考えている。
つまり、症状としてではなく、一つの「表現」として発言を受け止めているのである。
「……あの子の一部は、地球に還れるんです。……幸せだったのに」
「どうして逆説なんですか?」
「運命の操作、命の選別、奇跡の捏造をどう思いますか」
「えっ」
思わぬ質問に、真水はしばし絶句した。
診断という名の、命の選別。例えば出生前診断、着床前診断などが挙げられる。征二はそんなことにも造詣が深かっただろうか?
真水は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「そうですね、生まれる前の命にラベルを貼る行為は、僕も好きじゃありません」
「違います」
「違うんですか?」
征二は真顔のままである。
「死んだ人間に対して、です」
「し、死んだ人?」
「命は、何があっても凌辱されちゃいけません」
「ちょっと待ってください、死んだ後って」
真水は非常に真面目だ。だから、
「……どういう、意味ですか?」
メモを取り出して、征二の言葉を書き取り始めた。
「教えてください」
「俺には何もないが、命はある。しかし、命を失って尚、全てを奪うことでしか満たせない存在があるとします」
「それは仮定の話ですか」
「いえ―――暫定的な真実の話です」
征二の言葉はすぐには解せないが、恐らく意味があるのだ。真水は懸命に筆記する。
「奪うことでしか満たせない存在は、決して満たされない愛によって存在を奪われるんだ」
まるで、なにかの『みことのり』のようだ。
「黒蝶は幸せになるだろう。そのために生まれてきたんだから」
「樋野さんと、死んだ人がどう関係あるんですか?」
「じき、さ」
「えっ」
「じきに彼らは出会うだろう。その邂逅は、地球を傷つけるかもしれない」
征二は突然、夢から覚めたように言葉を止めた。
「どうしましたか」
「地球が、泣いている!」
「へ?」
文学青年であったし、元々その気はあったが、征二は実に詩人然としている。
「止めなきゃ……止めなきゃ……、あ、あぁ」
その挙動は、一瞬にして『正常』の領域を踏み越える。真水がしまった、と思った次の瞬間には、
「……助けてください……」
征二の切れ長の瞳から、涙が零れ落ちた。
「工藤さん。落ち着いて」
この世にもしも、意味のない事象など一つもないのだとしたら、征二の言葉にもまた、彼にだけ理解しうる意味があるのだろう。しかし、たった一人のために成立する意味など、世界にとってはそれこそ『意味がない』。
真水は征二に安定剤を処方し、一錠飲ませてから看護師に頼んで、部屋に戻ってもらった。それから彼のカルテを取り出し、
『妄想と現実の境界が極めて希薄。現実検討能力が低下』
そう記した。
征二の症状は確実に悪化している。よく、人間の精神は器のようだと譬えられるが、征二は一度その器が壊れている。
療養によってその破片をどうにか集め、箱庭の環境で護られているに過ぎない。ヒビは入ったまま、つまり崩壊は、常に傍にあるのだ。
しかし、征二にとっては、『彼女』のいない世界など、正常に認識するに値しないのかもしれない。
それでも、征二とていつまでも箱庭の住人ではいられないはずだ。
真水は思うのだ……この箱庭に堕ちた人々を救う、などというのはとんだ驕りだと。人は人を救えない。多少の支えになることはできても、救うことなどできない。
だが、箱庭の住人の中には、『誰かが救ってくれるはず』と、絶望の淵で笑っている者もいる。
真水はそんな彼らに幻滅しながらも、それでも、彼らを信じている。彼らは彼ら自身の手で、自らの人生を取り戻してくれると。
独りよがりな信念だと、羊子は言って捨てるだろうが。
―――征二は、どうなのだろう?
閉じた世界で、閉じた心で、夢を見る。それが『幸せ』なら、誰もそれに干渉する資格はない。
自意識を満たせれば、それでもう、十分すぎるのだろう。だが、よく言われる通り、人は一人では生きていけない。
独りよがりな世界への固執が、どれほど周囲に不幸を撒き散らしているのか、自覚できる者はまだ良い。
その自覚も無しに、我が身をガラス細工のように過剰に護る者の、なんと多いことか。
だが、征二は何か違う。無責任に己が不幸を主張しているわけではない。しかし、その心はまるで孤独に埋もれたクリスタルだ。美しいがゆえに、非常に壊れやすい。
「助けてください、か」
真水は、ぼそっと征二の言葉を反芻した。
自分の無力さを、彼を通じてよく感じる。医師には、なにもできない。せいぜい薬を調整する程度だ。
そもそも、だ。人の心はどこにあるのだろう? 魂はどこにあるのだろう? 心と魂と精神は同義か? 答の出ない問いかけは、ひたすらに自分を責める。
管理して、受容したふりをして、カルテを書いて。それ以上に箱庭作りに加担して。自分は、なんと愚かなのだろう。
責めたとしたって、そんなことさえ自己満足だ。ループする感情は、感傷に成り下がって、お手軽な痛みとなる。誰もがそこそこ経験する、インスタントな傷になる。自分という人間の、軽薄さを知る。
「僕は誰も……」
誰も救えないし、変えられないよ。
頑なな心は身を滅ぼす。そんなこと、今時、中学生だってわかっているだろうに。
偶然というのは運命の対語ではない。偶然の反対に在るのは必然だ。
どんな出会いも必然だとしたら、運命とは必然が織り成すものなのだろう。羊子が、運命に対して嫌気がさすのもよくわかる。そんなものを言い訳に、人はあまりにも欲を満たし過ぎてきた。
「ねぇ、今日は誰なの?」
純粋無垢なその質問の意味するところは、
「ターゲットが、か?」
影の問いかけで全て闇に彩られる。
「やだなー、まるで俺、犯罪者じゃないか」
「日本は法治国家だ。今のところお前は法には触れていない」
「いい言い訳だね、法律!」
「そうかもしれないな」
研究、発展。それらを言い訳に、葬られていい命など、存在するのだろうか?
「ターゲットとも言うけど、もっといい表現があるじゃない」
「……モルモット、か」
「かわいいねぇ、小動物、俺好きだよ」
ニコリともせずに浩之が言う。浩之は基本的に笑わない。いや、笑えない。まだその術を『得ていない』のだ。
「そろそろ、笑顔が欲しいな」
「『笑う』のか? お前が」
「ん、変かな?」
「いや……いいかもしれないな。そろそろ」
笑顔。人に備わった、威嚇からの進化。浩之は、奪うことでしか、満たせない。
「この子でいいじゃん」
指差した先には、携帯電話の画面に映る、羊子と会話をしている、樋野麻衣子。
「さっきからいい笑顔してるんだよ、この子」
「よく見てるな」
「この機能。便利でしょ?」
携帯電話にダウンロードされている、盗撮アプリ。『組織』から一般社会より先行して配信されたものだ。
技術の進歩は必ずしも、いや、決して正義を意味しない。
「別に誰でもいいだろう。どうせ奪うんだから」
「まあ、ねぇ」
影はため息をついた。
「お前のペースに合わせる、俺の身にもなれ」
「え、おもんぱかるの? 無理無理」
「お前のためにも言っている。時間が、ないんだぞ」
それを聞いた浩之は、口角を上げて笑う真似をした。
「ちっとも面白くないね。時限仕掛けなのは、人間も一緒でしょ」
「組織が、お前をこのまま許すとは思えない」
「関係ないね」
影―――工藤俊一は、浩之の発言にうんざりして窓の外を見た。道には、幸せそうに寄り添い歩く人影が蠢いている。まるで動物園のようだ。
彼は『なんでも願いをかなえる』組織などと言う『噂』には至って懐疑的だ。彼自身、『組織』の全ては知らない。だが、彼は託された―――小湊浩之という、実験体を。
単なるマッチングなのだ。弟を救いたいという彼の想いと、実験をしたいという機関の思惑が一致した。そして機関の末端が、彼の勤める学園に繋がっていた。ただ、それだけだ。
浩之には時間がない。残された時間で、『満たされなければならない』。そして満たされることが、幸福であると証明しなければならない。
「自分の使命を忘れるな」
「うん。忘れてないけど、面白くないよね」
「そういう次元の問題じゃないからな」
浩之は笑う真似を辞めて、首をちょこっと傾げた。
夜には、すっかり雨も上がり、濡れた舗道が乾きかけている。
「おいしかったね! あのベシャメルソース最高」
「よかったわ、喜んでもらえて」
麻衣子は上機嫌で羊子と夜道を歩いていた。六本木のフレンチでディナーを堪能した麻衣子は、ブランド物の紙袋を手に提げて、アスファルトの舗道を新品のエナメル靴を鳴らしながら、羊子と手を繋いで弾んでいる。
「寒いわね。さっさと地下道に潜りましょうか?」
「ううん、もうちょっと見たいな。イルミネーション」
「それもそうね」
羊子は微笑んで、麻衣子の手を握り返した。
「青い光が綺麗だね。白と銀と、青」
「まるで宝石箱ね」
「うん!」
彩られた道を歩く。
「あ、コレ見て。トナカイがソリに乗って、サンタが牽いてる。形勢逆転! 面白ーい」
「本当ね」
しばらく続いた、その光の花束が一段落し、静かなビル群に入った頃、不意に羊子は言った。
「……そっか」
「え?」
「麻衣子ちゃん、ごめん」
「なんで謝るのさ」
「上手く捲けなかった」
「捲く?」
麻衣子が見上げると、羊子の表情は先ほどまでと打って変わって硬かった。
「え、え、何、何?」
戸惑う麻衣子を、なるべく脅えさせないように、
「大丈夫よ。ディナーに誘った責任はちゃんと取るから」
そう言って、そっと麻衣子の肩に手を置いて、
「……つけられてる」
「えっ」
「大丈夫だから」
「…………」
羊子はキッと後ろを振り返った。その鋭い視線の先には、雑踏に紛れてこちらを凝視する、浩之がいた。
第五群 水 面 へつづく