羊子は片方の手で麻衣子の手をぎゅっと握りしめたまま、後方を睨んでいる。
「羊子さん……」
「大丈夫よ」
「誰か、いるの?」
麻衣子は非常に素直だ。だから、羊子の視線の先を辿って、程なくして、『彼』――浩之と目が合った。
「いる、ね」
浩之はじっとこちらを見ている。人混みはやがて薄れ、邂逅の図ができあがった。
「誰か、なんて愚問だわ。私は、あいつを知っているもの」
「知り合い?」
「……私が、葬った人間だから」
「えっ」
麻衣子と羊子に向かって、浩之はまっすぐ歩いてくる。『葬った』はずの人間が、今、確かにここにいて、こちらに近づいてくる。
過去は、どこまで追いかけてくるのだろう。
まるで悲劇の具象体だった浩之が、『生前』とは変わって、どこか奇妙な威圧感を持って歩を進めてくる。
互いの表情が確認できる距離まで接近した時、羊子の予感は確信に変わった。
間違いない。彼は、あの曇天の日に逝ったはずの幼馴染だ。
「どういうこと、かしら」
麻衣子の、羊子の手を握る力が強くなる。
羊子の問いかけには答えず、浩之は麻衣子に向かって、
「ねぇ、笑顔をちょうだい」
「えっ」
羊子は戸惑う麻衣子をかばうように立ちはだかった。
「どういうことなのかしら。説明して頂戴」
浩之はちらっと羊子を見やって、
「貴方に用はない」
あら、と羊子は前置きした。
「貴方、だなんて随分と他人行儀じゃないの。ヒロ」
名前を、それも懐かしい呼び方で呼ばれて、浩之は一瞬視線を固まらせた。だが、
「……知らない」
「そんな訳ないでしょう。私はあんたの死に顔さえ知っているのよ」
麻衣子は、少しだけ怯えながら、しかし、
「ねぇ、何が起きてるの?」
そう率直に羊子に訊いた。だが、羊子だってこの状況は、まるで意味がわからない。
しかし、彼女は秀麗な頭脳を以って、現在進行形で起きている事象に対応しようと、思考をフル回転させているのだ。
「運命を信じないと、私は言ったでしょう」
「うん」
「でもね」
羊子は、浩之に言葉を投げつけた。
「罪には罰が要るのよ」
麻衣子は戸惑いを隠せない。
「何の、話なの」
「つまんない昔話のこと」
「それって、さっきの話?」
羊子は、射抜くような視線で浩之を捉えている。
「ヒロ、まるで時が止まったかのようね。面白いこともあるもんだわ」
「貴方は、俺の何を知ってるの? 名前、だけじゃないよね」
浩之は初めて羊子に興味を示したようだ。
「俺のこと、どうして知ってるの? 貴方も『組織』の人間?」
「組織?」
羊子はその響きに、直感で嫌悪感を覚えた。
「別に何だっていいけど。僕は、その子の笑顔がほしい。それと、貴方がなぜ俺を知っているのか知りたい。それだけ」
浩之の口調はどこか単調で、機械的だ。冷たさすら感じる。どこか、人間味がない。
「ねぇ、笑ってよ」
浩之は腕を伸ばす。しかし、麻衣子は当然拒絶する。
「君の笑顔、俺にちょうだい」
彼は一歩一歩、近づいてくる。しかし羊子と麻衣子は動かない。いや動けない。
「大丈夫よ……麻衣子ちゃん、何も怖くない」
「うん」
意外にも、麻衣子は気丈に振舞ってみせた。
「あの人、何を言ってるんだろうね? よく意味がわからない」
「麻衣子ちゃん。取りあえず、気にしなくていいわよ」
「でも……」
麻衣子は浩之の『目』が気になった。
まるで、子どものように純粋で、ハンターのように鋭い。不思議なバランスをとっているように感じたからだ。
麻衣子は言った。
「私も、あの人、知っている気がするの」
「え?」
「気のせいかな」
彼は、雑踏をかき分けて、あっという間に二人の目の前に現れた。
間違いない。彼は確かに羊子の知る、小湊浩之だ。
「ねぇ、俺に笑顔をちょうだいよ」
「意味が分かんない」
麻衣子は尚も拒絶する。
「俺、笑いたいんだよ。君みたいに」
「じゃあ笑えばいい」
「笑えないんだよ。欠けているんだ」
浩之の表情は均一だ。動かない。
「可哀想でしょ? 俺って」
真顔でそう言われても。
羊子は汚れた物を遮断するようにして、麻衣子と浩之の間に立ちはだかった。