「そんな訳で、門限破り確定☆」
「どんな訳? しかもウキウキ言わないでくれる? 看護師長に小言を喰らうのは僕なんだから」
「あら、私じゃないからいいじゃない」
「君のその性格、羨ましいよ、本当に」
「ありがとう」
「褒めてない」
真水は頭を抱えた。薄々予感はしていたのだが、こうも的中するとなんとも複雑な気分になる。
羊子は麻衣子をディナーに誘うという。麻衣子も乗り気なのだそうだ。それはそうだろう、いつも冷めた病院食なのだから。
「どういうことですか、白田先生」
電話が切れると同時に、看護師長の重厚な声がして、真水はぐったりして振り返った。
「どういうことというか……。いえ、僕の責任です」
「困るんですよねー」
困る、というのは、患者を『管理』しなければならないから、という立場から来る言葉だろう。真水は内心、そんな看護師のスタンスにあきれつつも、自分の立場もあるので、力なく言葉を返した。
「黒峯先生には、強く言っておくから」
「頼みますよ!」
……はぁ。
自分が夜勤の日に限って、だ。ついてない……というか、羊子に振り回されている。
もっとも、今に始まったわけではないので、分かっていたといえば分っていたのだが。
「白田先生」
また呼ばれて、真水は半ば適当に「はい」と返事したのだが、相手が征二だったので、慌てて向き直った。
「どうしました、工藤さん」
「黒蝶は」
「はい」
真水は征二の話を傾聴するよう、心がけている。他の医師だと「ただの妄言だ」と切り捨ててしまいがちだが、真水は、征二のこうした言葉の中にこそ、何かが隠れているはずだと考えている。
つまり、症状としてではなく、一つの「表現」として発言を受け止めているのである。
「……あの子の一部は、地球に還れるんです。……幸せだったのに」
「どうして逆説なんですか?」
「運命の操作、命の選別、奇跡の捏造をどう思いますか」
「えっ」
思わぬ質問に、真水はしばし絶句した。
診断という名の、命の選別。例えば出生前診断、着床前診断などが挙げられる。征二はそんなことにも造詣が深かっただろうか?
真水は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「そうですね、生まれる前の命にラベルを貼る行為は、僕も好きじゃありません」
「違います」
「違うんですか?」
征二は真顔のままである。
「死んだ人間に対して、です」
「し、死んだ人?」
「命は、何があっても凌辱されちゃいけません」
「ちょっと待ってください、死んだ後って」
真水は非常に真面目だ。だから、
「……どういう、意味ですか?」
メモを取り出して、征二の言葉を書き取り始めた。
「教えてください」
「俺には何もないが、命はある。しかし、命を失って尚、全てを奪うことでしか満たせない存在があるとします」
「それは仮定の話ですか」
「いえ―――暫定的な真実の話です」
征二の言葉はすぐには解せないが、恐らく意味があるのだ。真水は懸命に筆記する。
「奪うことでしか満たせない存在は、決して満たされない愛によって存在を奪われるんだ」
まるで、なにかの『みことのり』のようだ。
「黒蝶は幸せになるだろう。そのために生まれてきたんだから」
「樋野さんと、死んだ人がどう関係あるんですか?」
「じき、さ」
「えっ」
「じきに彼らは出会うだろう。その邂逅は、地球を傷つけるかもしれない」
征二は突然、夢から覚めたように言葉を止めた。
「どうしましたか」
「地球が、泣いている!」
「へ?」
文学青年であったし、元々その気はあったが、征二は実に詩人然としている。
「止めなきゃ……止めなきゃ……、あ、あぁ」
その挙動は、一瞬にして『正常』の領域を踏み越える。真水がしまった、と思った次の瞬間には、
「……助けてください……」
征二の切れ長の瞳から、涙が零れ落ちた。
「工藤さん。落ち着いて」
この世にもしも、意味のない事象など一つもないのだとしたら、征二の言葉にもまた、彼にだけ理解しうる意味があるのだろう。しかし、たった一人のために成立する意味など、世界にとってはそれこそ『意味がない』。
真水は征二に安定剤を処方し、一錠飲ませてから看護師に頼んで、部屋に戻ってもらった。それから彼のカルテを取り出し、
『妄想と現実の境界が極めて希薄。現実検討能力が低下』
そう記した。
征二の症状は確実に悪化している。よく、人間の精神は器のようだと譬えられるが、征二は一度その器が壊れている。
療養によってその破片をどうにか集め、箱庭の環境で護られているに過ぎない。ヒビは入ったまま、つまり崩壊は、常に傍にあるのだ。
しかし、征二にとっては、『彼女』のいない世界など、正常に認識するに値しないのかもしれない。
それでも、征二とていつまでも箱庭の住人ではいられないはずだ。
真水は思うのだ……この箱庭に堕ちた人々を救う、などというのはとんだ驕りだと。人は人を救えない。多少の支えになることはできても、救うことなどできない。
だが、箱庭の住人の中には、『誰かが救ってくれるはず』と、絶望の淵で笑っている者もいる。
真水はそんな彼らに幻滅しながらも、それでも、彼らを信じている。彼らは彼ら自身の手で、自らの人生を取り戻してくれると。
独りよがりな信念だと、羊子は言って捨てるだろうが。
―――征二は、どうなのだろう?
閉じた世界で、閉じた心で、夢を見る。それが『幸せ』なら、誰もそれに干渉する資格はない。
自意識を満たせれば、それでもう、十分すぎるのだろう。だが、よく言われる通り、人は一人では生きていけない。
独りよがりな世界への固執が、どれほど周囲に不幸を撒き散らしているのか、自覚できる者はまだ良い。
その自覚も無しに、我が身をガラス細工のように過剰に護る者の、なんと多いことか。
だが、征二は何か違う。無責任に己が不幸を主張しているわけではない。しかし、その心はまるで孤独に埋もれたクリスタルだ。美しいがゆえに、非常に壊れやすい。
「助けてください、か」
真水は、ぼそっと征二の言葉を反芻した。
自分の無力さを、彼を通じてよく感じる。医師には、なにもできない。せいぜい薬を調整する程度だ。
そもそも、だ。人の心はどこにあるのだろう? 魂はどこにあるのだろう? 心と魂と精神は同義か? 答の出ない問いかけは、ひたすらに自分を責める。
管理して、受容したふりをして、カルテを書いて。それ以上に箱庭作りに加担して。自分は、なんと愚かなのだろう。
責めたとしたって、そんなことさえ自己満足だ。ループする感情は、感傷に成り下がって、お手軽な痛みとなる。誰もがそこそこ経験する、インスタントな傷になる。自分という人間の、軽薄さを知る。
「僕は誰も……」
誰も救えないし、変えられないよ。
頑なな心は身を滅ぼす。そんなこと、今時、中学生だってわかっているだろうに。