第五群 水 面

羊子は片方の手で麻衣子の手をぎゅっと握りしめたまま、後方を睨んでいる。

「羊子さん……」
「大丈夫よ」
「誰か、いるの?」

麻衣子は非常に素直だ。だから、羊子の視線の先を辿って、程なくして、『彼』――浩之と目が合った。

「いる、ね」

浩之はじっとこちらを見ている。人混みはやがて薄れ、邂逅の図ができあがった。

「誰か、なんて愚問だわ。私は、あいつを知っているもの」
「知り合い?」
「……私が、葬った人間だから」
「えっ」

麻衣子と羊子に向かって、浩之はまっすぐ歩いてくる。『葬った』はずの人間が、今、確かにここにいて、こちらに近づいてくる。

過去は、どこまで追いかけてくるのだろう。

まるで悲劇の具象体だった浩之が、『生前』とは変わって、どこか奇妙な威圧感を持って歩を進めてくる。

互いの表情が確認できる距離まで接近した時、羊子の予感は確信に変わった。

間違いない。彼は、あの曇天の日に逝ったはずの幼馴染だ。

「どういうこと、かしら」

麻衣子の、羊子の手を握る力が強くなる。

羊子の問いかけには答えず、浩之は麻衣子に向かって、

「ねぇ、笑顔をちょうだい」
「えっ」

羊子は戸惑う麻衣子をかばうように立ちはだかった。

「どういうことなのかしら。説明して頂戴」

浩之はちらっと羊子を見やって、

「貴方に用はない」

あら、と羊子は前置きした。

「貴方、だなんて随分と他人行儀じゃないの。ヒロ」

名前を、それも懐かしい呼び方で呼ばれて、浩之は一瞬視線を固まらせた。だが、

「……知らない」
「そんな訳ないでしょう。私はあんたの死に顔さえ知っているのよ」

麻衣子は、少しだけ怯えながら、しかし、

「ねぇ、何が起きてるの?」

そう率直に羊子に訊いた。だが、羊子だってこの状況は、まるで意味がわからない。

しかし、彼女は秀麗な頭脳を以って、現在進行形で起きている事象に対応しようと、思考をフル回転させているのだ。

「運命を信じないと、私は言ったでしょう」
「うん」
「でもね」

羊子は、浩之に言葉を投げつけた。

「罪には罰が要るのよ」

麻衣子は戸惑いを隠せない。

「何の、話なの」
「つまんない昔話のこと」
「それって、さっきの話?」

羊子は、射抜くような視線で浩之を捉えている。

「ヒロ、まるで時が止まったかのようね。面白いこともあるもんだわ」
「貴方は、俺の何を知ってるの? 名前、だけじゃないよね」

浩之は初めて羊子に興味を示したようだ。

「俺のこと、どうして知ってるの? 貴方も『組織』の人間?」
「組織?」

羊子はその響きに、直感で嫌悪感を覚えた。

「別に何だっていいけど。僕は、その子の笑顔がほしい。それと、貴方がなぜ俺を知っているのか知りたい。それだけ」

浩之の口調はどこか単調で、機械的だ。冷たさすら感じる。どこか、人間味がない。

「ねぇ、笑ってよ」

浩之は腕を伸ばす。しかし、麻衣子は当然拒絶する。

「君の笑顔、俺にちょうだい」

彼は一歩一歩、近づいてくる。しかし羊子と麻衣子は動かない。いや動けない。

「大丈夫よ……麻衣子ちゃん、何も怖くない」
「うん」

意外にも、麻衣子は気丈に振舞ってみせた。

「あの人、何を言ってるんだろうね? よく意味がわからない」
「麻衣子ちゃん。取りあえず、気にしなくていいわよ」
「でも……」

麻衣子は浩之の『目』が気になった。

まるで、子どものように純粋で、ハンターのように鋭い。不思議なバランスをとっているように感じたからだ。

麻衣子は言った。

「私も、あの人、知っている気がするの」
「え?」
「気のせいかな」

彼は、雑踏をかき分けて、あっという間に二人の目の前に現れた。

間違いない。彼は確かに羊子の知る、小湊浩之だ。

「ねぇ、俺に笑顔をちょうだいよ」
「意味が分かんない」

麻衣子は尚も拒絶する。

「俺、笑いたいんだよ。君みたいに」
「じゃあ笑えばいい」
「笑えないんだよ。欠けているんだ」

浩之の表情は均一だ。動かない。

「可哀想でしょ? 俺って」

真顔でそう言われても。

羊子は汚れた物を遮断するようにして、麻衣子と浩之の間に立ちはだかった。

「説明が必要よ。悪いけど今私、とても怖いわ」
「怖い? それは『恐怖』のこと?」
「当り前じゃない。死んだはずの人間が、目の前にいたら誰だって怖いわ」

浩之は首を傾げて、呟いた。

「ここは、笑うところ?」
「勝手になさい」
「困るなー」

羊子は浩之の眉間にすらりとした人差し指を近づけ、

「ヒロ。リーガエスパニョーラの去年の王者は、どこ?」
「は?」
「バルサ? それともレアル・マドリッド? それとも―――」

麻衣子は困り果ててしまう。

「羊子さん、何のこと?」
「ヒロ。あんたが知らないこと、ないわよね? よく病室までサッカーの雑誌を持っていったのは私なんだから」
「ん……?」

浩之は、キョトンとした表情をする。

「……何の話? それ、面白い話?」

羊子は、その発言を受けて、

「―――操作、されたわね」

そう言い捨てた。

「随分と滑稽じゃない。麻衣子ちゃんの笑顔は渡さないわよ」
「くれないなら、奪うまでだ」

羊子は身構えた。

しかし、麻衣子は、意外なことを言ってのけたのだ。

「いいよ。あげる」
「え?」

驚いたのは他でもない浩之である。

「笑顔。欲しいんでしょ?」
「え、うん」
「じゃ、あげる」

麻衣子は、浩之に向けて左腕を伸ばした。

「こんな私ので、よければね」

手袋が外れて、蠢く黒蝶の姿が、寒空の下で露わになる。

「!」

浩之は目を瞠った。

「麻衣子ちゃん―――」

羊子の制止も聞かず、麻衣子は変貌した指先を浩之に見せつける。

浩之は、吸い込まれるようにその黒蝶になりかけている指先に触れようとした。すると、

「うあっ!」

浩之の体に、感じないはずの『痛み』が走った。

羊子は、険しい表情で、

「まさか、『奪った』……?」

そう言って一歩、後退した。浩之はやはり真顔のまま、

「痛い……これが『痛い』ってやつか、そっか……」

一人でぶつぶつ呟いている。

麻衣子は、すっかり泣きそうになっている。

「ねぇ、あげるって言ったのに。触れてすら、くれないの?」

浩之はよろめきながら、どうにか体制を整えた。

「今日は、いいや。戻る」
「待ちなさい!」

羊子が無謀にもハイヒールで駆けようとしたが、麻衣子がそれを止めた。

「麻衣子ちゃん、なんで―――」
「いいの。私なら大丈夫」

そう言った矢先、寒気を受けた指先の蝶が、激しく蠢きだした。

「あ! 麻衣子ちゃん、」
「ううん、大丈夫なの」
「え?」

羊子が戸惑う間もなく、麻衣子の指先から黒蝶が飛んでいく。

「初めてちゃんと見た。思ったより、綺麗だね」
「痛く、ないの?」
「うん。あの人が、痛みを持って行ってくれたのかな?」
「え……」


「忘却の次には何が来る?」

翌朝。征二はOT(作業療法士)に指導されながら(ただし、征二自身に「指導されている」という認識はない)、皮細工を作っていた。

「さぁ。何でしょうね」

OTの鮫島ひろみは、また征二のいつもの妄言だと、適当に受け流した。

「忘却の次には、贖罪が来ますよ」
「しょくざい?」
「そう。忘れたことを贖えるんです」
「ははぁ。また難しい言葉を遣うね」
「他に相応しい言葉はありません」
「あ、そう。ところで工藤さん、今回は何色にしますか?」

征二は、一輪差しのカバーを指さした。

「赤と、黒」

鮫島は首を傾げてしまう。

「工藤さん、白と青が好きじゃなかったっけ? まるで反対色ですね。まあ、別にいいけど」
「赤は天使の目。黒はその翼」
「それじゃまるで、悪魔じゃないの」

鮫島は笑うが、征二は真剣そのものだ。

「違う。祝福されたんだ、俺たちは」
「俺『たち』?」

征二の瞳は疾うに現実を映していない。非現実の世界、彼にだけ理解しうる世界の中で、彼は彼だけの真実を糧に生きている。

閉じた世界の中で、それはそれは、美しい光景と戯れている。

忘却の次は贖罪。それは、彼を忘れた彼女への責めなのだろうか?


「痛みを知った、だと。お前がか」
「うん」

浩之は真顔で、指先の赤みを見つめている。麻衣子に触れた部分だ。

「痛いって、あまりいい感覚じゃないな。怖いよ」
「余計なものを……。笑顔を奪うんじゃなかったのか?」

俊一は浩之の手を取って、

「傷なら、すぐに治るだろう。心配するな」

そう言ってため息をついた。

「ため息が多いね」
「誰の所為だと思ってる」
「さぁ」
「お前な……。まぁいい。笑顔を今度こそ手に入れろ。誰のでもいい」
「いや、あの子がいい」
「何?」

浩之は、頑なだ。

「あの子のがいいな……」
「どうしてだ?」
「なんか、懐かしい感じがするから」
「?」

この時はまだ、俊一には浩之の言っている意味がわかる由はなかった。


「ごめんなさい」

ちょっと気まずそうに言う麻衣子を、真水は快く迎えた。

「謝ることないよ。おかえり」
「……ただいま」

私の帰る場所。歴史ある、と言えば聞こえはいいが、ちょっと古びた精神科病院。またの名を、箱庭。

「工藤さん、いますか?」

麻衣子はそんなことを言った。

「ああ、さっき作業療法から帰ってきたけど、どうして?」
「……なんとなく」
「ああ、そう。デイルームにいるよ」

麻衣子は羊子と六本木で買い物した紙袋を自分の病室へ置いてから、デイルームへ向かった。

「工藤さん」

麻衣子が話しかけると、

「なんですか」

詩集から目を離さずに、征二が返事をした。麻衣子は一呼吸置いてから、

「返してもらえますか」

征二はふと、顔を上げた。

「何をですか」
「蝶。持ってるでしょう」

征二は全く表情を変えない。

「返すというのは、どういう意味ですか」
「あれ、私だから」
「はい?」

麻衣子は少しむっとした。

「知ってるくせに。返してよ」

征二は一向に表情を変えないままだ。

「あれは、ユイにあげるから」

と言ってのけた。麻衣子は手袋を外し、蝶に変化しかけている患部を見せつけ、

「これでも、そんなこというの?」

征二は機械的なくらいに冷たい視線でそれを見やると、

「はい、そうですね」

麻衣子は諦めて、しかし聞こえよがしにため息をついた。当然、征二はそんなものを気にしない。余計に麻衣子は腹立たしかったが、どうすることもできなかった。

このモヤモヤとした気持ちを解消するため、麻衣子は自分の病床に戻ってストレッチを始めようと思った。

日常なんて、こんなもんだ。麻衣子がそう感じて、デイルームの周りを囲っている淡い緑色のカーテンをふと見ると、蝶が一匹、とまっている。

「あれ?」

いつのだろう。左手の痛みは、そういえばここ最近感じていない。

麻衣子が、なんとなく違和感を覚えて右手を見ると、

「あ」

右手の小指の第一関節が無くなっていた。

いつの間に?

麻衣子は努めて平静を装って、近くにいた看護師に声をかけた。

「どうしました?」
「あれ、見て」
「え?」

看護師は、見上げてすぐに息を飲んだ。

「白田先生を呼ぶわね」
「やめて」
「どうして?」
「イミ、無いもん」
「……そうは言っても」
「報告しないと、怒られるから?」
「あのね樋野さん、私は貴方の為を思って――」

看護師が傲慢な一言を放とうとした、その時だ。

「許しなさい」

声を挟んできたのは、征二である。

「少女に責めは似合わない。誰にも彼女を裁ける権利はない」
「工藤さん! 向こうへ行ってて下さい」
「許しなさい」
「わかったから、ね」

ポカンとしてるのは麻衣子だ。

この人、もしかして、助けて、くれた?

「あの、ありがと……」
「君には、告げておかなければならないね」
「え?」

征二の一貫性の無い、解体した会話はいつものことだが、今日は真剣な彼の表情が一層引き締まっているので、麻衣子は息を飲んだ。

「季節は、じきに春になる」
「はぁ。そうですね」
「俺が、冬を殺す。君は、春になれ」
「はぁ。ええ、わかり、ました。あのー、もういいですか?」

さっさと自室に戻りたい。そう上の空の麻衣子には構わず、征二は尚も、

「時間が無い」
「え?」
「俺たちには、同じ季節は決して巡らないんだ。いいね」
「わかった、わかりました。はい、ええ」

麻衣子は、征二には申し訳ないと思いつつも、半ば逃げるように自分の部屋に戻った。

途中で鼻をくじかれた看護師が、鼻息を荒くして麻衣子の部屋を訪れたのは、それから間もなくだ。専門職というのは、概して対象を見下し、気を済ませないといられないらしい。

「樋野さん。あなた、ちょっと調子に乗っているわね」

調子に乗っているのはどっちだか、と麻衣子は胸中で毒づく。

「ちょっと不思議な病気だからって、自分のことを可哀想だと思ってない? そんな人はね、ここから一生出られないのよ」

結構な暴言なのだが、麻衣子は心を閉ざして傷つくのを避けていた。どうでもいい人間の暴言など、どうでもいい。

「自分を可哀想だと思って、可愛がってもらって。あなたはね、もう少し病棟内の規則に従うべきなのよ。音楽療法にも、作業療法にもロクに参加しないで、だらだらと毎日……――」
「うるさい」
「何ですって?」
「聞こえなかった? うるさい」

看護師が顔を真っ赤にした、まさにその時だ。

「逝けぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

奇妙な叫び声を聴いて、看護師も麻衣子も一瞬、挙動を止めた。

「今の声は……」

麻衣子は首を横に振った。彼が、発作でも起こしたのだろう。そう、

「工藤さん?」

征二だ。

大事なものを返してくれない、意地悪な奴だ。

「樋野さん、今日のことは白田先生に報告します。いいですね」
「ご自由に」

看護師は足早に去っていった。人手が足りないのだ。

あまり一般には知られていないことだが、精神科には『精神科特例』というものがあり、医療スタッフの人員配置が一般科より少なくてもよいとされている。そのため、医師はもちろん看護師や看護助手の疲弊は激しい。

「御苦労様だこと」

麻衣子は、少しの嫌味と拗ねた気持ちを吐き出した。

自分には、関係無い。誰が暴れようが誰が自殺を企てようが、関係無い。

関係が無いということは、繋がりがない。繋がりがないということは、ストレートに孤独を意味する。

何処で誰が死のうと、生きようと、関係無い。私にはもう、何もかもが関係ない。

寂しいかと問われれば、間違いなく寂しいと答えるだろう。しかし、私にはそれを問いかける人がいない。


工藤征二は保護室に入れられた。保護室という名の独房に。突如としてデイルームで暴れ出したのだ、無理もない……と言いたいところだが、独房への監禁のどこが人権侵害ではないと、純粋な医療行為だと、主張できようか。

彼は囚われたのだ、健常者の認識し、支配する世界から排除されつつあるのだ。

「一時的な必要措置」

だと、苦々しく真水は言った。彼自身にも、良心の呵責が無い訳がない。しかし、他の患者の動揺や与える影響を考えれば、

「……しょうがない」

のだと、必死に自分に言い聞かせている。真水は、ますますこの世界に対する諦観の念を濃くした。

そういう時に限って、征二に面会者があるという。

「どうしますか?」

指示を仰ぐ看護師に、真水は疲れ切った表情で、

「断わってくれ。会わせられない」

自分でも吐き気のするような言葉を口にした。

「しょうがないんだ」

しょうがない。しょうがないのなら、何もかもが許されるのか?

問いかけは無情にも、彼の医師としてのレーゾンデートルを責め立てる。だから、彼は目を逸らし続ける。

「逃げちゃ、ダメだ」

そんな台詞のアニメが、昔あったっけな。

「工藤さんのご家族だそうですが……」
「え?」

真水は虚をつかれた表情になった。

「先ほどいらした面会の方です」
「そう……」
「どうしますか?」
「………本人にはまだ、会わせられないです。僕が応対しましょう」

デイルームの一角に、明らかに周囲とは異なる雰囲気を漂わせる男性が一人、足を組んで座っていた。工藤征二の兄、工藤俊一その人である。

「こんにちは」

俊一は、頭を軽く下げた。

「弟がお世話になってます」
「こんにちは、工藤さん―――」

どうしてまた、こんなタイミングに?

そう言いかけて、それをぐっと飲み込んだ。

「御苦労様です」
「それはこちらの言葉ですよ、先生」
「え、ええ」

俊一はやや難しい性格をしているという印象だ。真水は、下手に隠しだてするのは得策ではないと思い、

「弟さんは今、保護室に居ます」
「そうですか」

顔色一つ変えずに俊一は言う。

「しょうがないですよ」
「すみません」
「先生が謝ることですか?」
「………いえ」

真水の謝る筋ではない。否、謝ったところで何かが変わるわけではない――――「意味がない」のだ。

「今日は、用事があってきました」
「はい」
「申し訳ないのですが、僕は先生に、というより、先生の担当されている、ある患者さんに用事があるんです」
「え?」
「許可をいただけますか」
「えっと、えー、どなたに? どういった関係で?」
「樋野麻衣子さん」
「えっ」
「昔からの友人が来ているんです」

勿論、それは嘘だ。しかし、家族に見捨てられ、精神科に身を置く麻衣子に友人がいたことに、素直に喜びを覚えた真水は、

「どうぞ、面会時間は16時までですが」

半ば顔を紅潮させて、あっさりと俊一の申し出を許可してしまった。正確には、浩之と麻衣子の邂逅をみすみす許してしまったのだ。

このことで、しかしどうして何も知らない真水を責めることができようか。


「あ。あなた、この前の」

麻衣子は面会室に入るや否や、率直な感想を述べた。待ちくたびれて昼寝寸前だった浩之は、麻衣子にひらひらと手を振ってみせた。

「どーもどーも」
「何か私に用?」
「うん。ね、笑ってよ」
「は?」
「俺、笑えないんだ。だからさ、君の笑顔をちょうだい」

麻衣子はムッとした。

「また? 意味分かんない。黒蝶の物見遊山ならお断り。帰ってよ」
「俺、これも真剣なんだけどな。くれないなら、奪っちゃうよ」
「そんなに笑いたいの?」
「うん。できるなら、君のがいい」
「……そう。じゃあ、条件があるわ」
「条件?」
「等価交換。笑顔ならあげるよ、私に必要ないもん。だから、あなたも、要らないもの、私にちょうだい」
「……変わった子だね、君は」
「よく言われる。ね、あなたにとって要らないものって、何?」

浩之は挙動を一瞬だけ停止した。考えたことも無かったのだ。失ったものばかりに目をやって、必要のないものなど、自分にあるのかなんて。

「教えてよ」
「えっと、えーっと……」

一転して戸惑う浩之に、麻衣子は泰然と告げた。

「決まったら教えて。また今度ね。これ、私のメアド。気が向いたらメールして」
「え」
「あなた、見た目の割に子どもっぽいね」
「そう? 一応、肉体は20歳で止まってるんだけど」
「へぇ。驚くことなんてもう起きないと思ったけど、あなたもきっと、可哀想なんだ」
「可哀想? 俺が?」
「うん。私に負けないくらいね」
「………?」
「じゃ、またね」

麻衣子はあっさりと姿を消した。

浩之の中に、味わったことのない気持ちが広がっていく。

やっかいな感情だ。人間を時に追い詰め、時に支え、時に振りまわし、時に破滅へ導かせる。

この邂逅が、浩之の「偽りの永遠」の崩壊を意味することを、本人が身を以て思い知るのは、そう遠い未来のことではない。


「代償は愛であがなう、などと人間は言う。世界を認識した罪を、己の欲求で解消しようとするのだ。死は誰にでも平等だという。しかし生は必ずしもそうではない。生死は一連の現象だ。ならば死すらその訪れは等しくはないのではないか? ロゴスよ、貴殿は暇かね? 俺と言ったらつまらぬ囚われ人だ。恐らくこのまま死ぬだろう」

彼の瞳はどこまでも薄暗い。決して未来など映さない。

「奇跡を願うのは寂寥故か? 終わりを認識した者への罰なのか」

その悲しみの中には、いつも『彼女』がいる。美しくいつまでも変わらない、若かりし彼女の笑顔がある。

そんな彼の手首に穿たれた傷跡を手当てしながら、看護師の高橋美和は話しかけた。

「ねぇ、工藤さん」
「……」
「もうすぐ春ですね」
「春? 目覚めのこと?」
「えっと。季節のです」
「季節。勝手に逝くものたちの群れさ」
「あ、動かないでくださいね、消毒液がハネちゃう」

征二は虚ろな瞳で、美和をまっすぐ見た。

「……君でいい」
「はい、何がですか」
「遺してくれ。そして伝えてくれ」
「何を、ですか?」
「……………」

静かに、確かに、おもむろに、征二の頬を涙が伝う。

美和は一瞬驚いたが、彼の一貫性のない言動はいつものことなので、

「わかりました、私でいいのなら」

そう返事した。

「ちょっと待ってくださいね。メモの準備――――」
「自我と奇跡の両立は生と死の両立に同じく、あり得ない。『お前ら』には等しく奇跡以上の罰を降らせよう」
「え、え、ちょっと待って」
「奇跡は黒蝶の姿をして現れるだろう。少女の願いだけ、贖いはもたらされる」
「じがと、きせきの、両立……?」

美和が首を傾げる間もなく、征二は、ベッドに倒れ込んでしまう。

「工藤さん!?」
「美しいものは、無知なる地球の傷跡。面影橋に、面影橋で、全ては――――眠りを迎える」

征二はそのまま、意識を失った。否、告げるべき予言を終え、その使命を果たした彼の心臓が、静かに動きを止めた。

 

 


征二の死は、すぐに病棟中に知れ渡った。救命処置を施したが、彼の心臓が動くことは二度となかったのだった。

当然、その事実は麻衣子にも伝わったのだが、不思議と麻衣子はショックを受けなかった。むしろ、『理解した』。

「そっか。…………ちゃんと、葬ってくれたんだ」

その、命を懸けて。

「じゃあ次は、私の番だ」

第六群 奇 跡 へつづく