「説明が必要よ。悪いけど今私、とても怖いの」
「怖い? それは『恐怖』のこと?」
「当り前じゃない。死んだはずの人間が、目の前にいたら誰だって怖いわ」
浩之は首を傾げて、呟いた。
「ここは、笑うところ?」
「勝手になさい」
「困るなー」
羊子は浩之の眉間にすらりとした人差し指を近づけ、
「ヒロ。リーガエスパニョーラの去年の王者は、どこ?」
「は?」
「バルサ? それともレアル・マドリッド? それとも―――」
麻衣子は困り果ててしまう。
「羊子さん、何のこと?」
「ヒロ。あんたが知らないこと、ないわよね? よく病室までサッカーの雑誌を持っていったのは私なんだから」
「ん……?」
浩之は、キョトンとした表情をする。
「……何の話? それ、面白い話?」
羊子は、その発言を受けて、
「―――操作、されたわね」
そう言い捨てた。
「随分と滑稽じゃない。麻衣子ちゃんの笑顔は渡さないわよ」
「くれないなら、奪うまでだ」
羊子は身構えた。
しかし、麻衣子は、意外なことを言ってのけたのだ。
「いいよ。あげる」
「え?」
驚いたのは他でもない浩之である。
「笑顔。欲しいんでしょ?」
「え、うん」
「じゃ、あげる」
麻衣子は、浩之に向けて左腕を伸ばした。
「こんな私ので、よければね」
手袋が外れて、蠢く黒蝶の姿が、寒空の下で露わになる。
「!」
浩之は目を瞠った。
「麻衣子ちゃん―――」
羊子の制止も聞かず、麻衣子は変貌した指先を浩之に見せつける。
浩之は、吸い込まれるようにその黒蝶になりかけている指先に触れようとした。すると、
「うあっ!」
浩之の体に、感じないはずの『痛み』が走った。
羊子は、険しい表情で、
「まさか、『奪った』……?」
そう言って一歩、後退した。浩之はやはり真顔のまま、
「痛い……これが『痛い』ってやつか、そっか……」
一人でぶつぶつ呟いている。
麻衣子は、すっかり泣きそうになっていた。
「ねぇ、あげるって言ったのに。触れてすら、くれないの?」
浩之はよろめきながら、どうにか体制を整えた。
「今日は、いいや。戻る」
「待ちなさい!」
羊子が無謀にもハイヒールで駆けようとしたが、麻衣子がそれを止めた。
「麻衣子ちゃん、なんで―――」
「いいの。私なら大丈夫」
そう言った矢先、寒気を受けた指先の蝶が、激しく蠢きだした。
「あ! 麻衣子ちゃん、」
「ううん、大丈夫なの」
「え?」
羊子が戸惑う間もなく、麻衣子の指先から黒蝶が飛んでいく。
「初めてちゃんと見た。思ったより、綺麗だね」
「痛く、ないの?」
「うん。あの人が、痛みを持って行ってくれたのかな?」
「え……」