第五群 水 面

「あ。あなた、この前の」

麻衣子は面会室に入るや否や、率直な感想を述べた。待ちくたびれて昼寝寸前だった浩之は、麻衣子にひらひらと手を振ってみせた。

「どーもどーも」
「何か私に用?」
「うん。ね、笑ってよ」
「は?」
「俺、笑えないんだ。だからさ、君の笑顔をちょうだい」

麻衣子はムッとした。

「また? 意味分かんない。黒蝶の物見遊山ならお断り。帰ってよ」
「俺、これも真剣なんだけどな。くれないなら、奪っちゃうよ」
「そんなに笑いたいの?」
「うん。できるなら、君のがいい」
「……そう。じゃあ、条件があるわ」
「条件?」
「等価交換。笑顔ならあげるよ、私に必要ないもん。だから、あなたも、要らないもの、私にちょうだい」
「……変わった子だね、君は」
「よく言われる。ね、あなたにとって要らないものって、何?」

浩之は挙動を一瞬だけ停止した。考えたことも無かったのだ。失ったものばかりに目をやって、必要のないものなど、自分にあるのかなんて。

「教えてよ」
「えっと、えーっと……」

一転して戸惑う浩之に、麻衣子は泰然と告げた。

「決まったら教えて。また今度ね。これ、私のメアド。気が向いたらメールして」
「え」
「あなた、見た目の割に子どもっぽいね」
「そう? 一応、肉体は20歳で止まってるんだけど」
「へぇ。驚くことなんてもう起きないと思ったけど、あなたもきっと、可哀想なんだ」
「可哀想? 俺が?」
「うん。私に負けないくらいね」
「………?」
「じゃ、またね」

麻衣子はあっさりと姿を消した。

浩之の中に、味わったことのない気持ちが広がっていく。

やっかいな感情だ。人間を時に追い詰め、時に支え、時に振りまわし、時に破滅へ導かせる。

この邂逅が、浩之の「偽りの永遠」の崩壊を意味することを、本人が身を以て思い知るのは、そう遠い未来のことではない。