第六群 奇 跡

工藤征二の葬儀は、しめやかというよりは、あっけなく執り行われた。

弔問客も少なく、既に父親を亡くしていた征二の周囲は、彼を悼むどころか、その死を知ることすらなかったようだ。

小雨の降る教会で、黒いワンピースに身を包んだ羊子は、刺すような視線で、式を取り仕切っている征二の兄、俊一を睨んでいた。

式の最後に、参列客に向かって、俊一は恭しく首を垂れた。

「本日は、ありがとうございました」

他人行儀に、というよりは白々しく聞こえる、そんな俊一の言葉が羊子には耳障り極まりなかった。

事務的に物事を済ませ、さっさと立ち去ろうとする。そんな俊一の姿を見て、堪りかねた羊子は、

「待ちなさいよ」

式後、人のはけた礼拝堂で声をかけた。

「征二君とはよく小さい頃、一緒に遊んだわね」
「…………」
「――何で、黙ってるのよ」

俊一の表情は、弟を突然失ったとは思えない程に冷静だ。

「だっておかしいじゃないの、どう考えたって」
「言葉の割に、全然楽しそうじゃないね」
「悪いけど、笑うに値しないわ」
「突然の心臓発作だ。しょうがないだろ」
「違う。実験が失敗した、ワクチンの副作用による心不全よ」

それを聞いた俊一の表情が、一瞬硬くなる。

「どこで、その話を?」
「あこぎな商売してるとね、余計な情報がいっぱい入ってくるの」


羊子の情報収集癖に巻き込まれた一番の被害者は、青野だろう。

青野は羊子に頼まれて、機密機関へのハッキングまでさせられた。ちなみに、報酬は全国共通お米券3万円分。それが悪くない、と思ってしまうあたりが、青野のお人よしぶりを象徴している(どうでもいい情報だが、青野は大の白米好きである)。


「『組織』。知らないとは言わせないわよ」

羊子は睨みつける。しかし、俊一はとくに怯まない。

「幼児期に誰でも受ける、予防接種。そこに奴等は目を付けた」

羊子のいうところの『奴等』とは、すなわち、

「『組織』の行ったのは、公的人体実験、とでも言うのかしら? とんだ話だわ」

俊一はしかし、首を横に振った。

「ダメだよ。それ以上介入しないほうがいい」
「これは歴史的発見よ」
「触れちゃいけないブラックボックスさ」
「じゃ、消されるのかしら? 私」
「……無視されるだけだ」

羊子は行き場のない苛立ちを、データの書かれた資料を持った左手で机にぶつけた。

「1999年? ずいぶんといい加減な告知だったわね」
「ヨーコ。もういいじゃない。どこで盗聴されているのかわからない」
「だからなんだって言うの」
「冗談抜きで消されるよ」

羊子はしかし、言葉を止めない。否、止める理由と術を知らない。

「まだ、あの子たちは『潜んでいる』段階だわ。間に合うかもしれないのよ」

羊子の中の、彼女なりの正義が、燃えているのだろう。

「間に合うかもしれない……救えるかもしれないの」
「無理だよ」
「無理じゃない」
「もう遅い」
「シュン!」

羊子はヒステリックに叫んだ。

「私にこれ以上、不可能を突き付けないで。私にだって救える存在が居る筈なの。あんたは悲しくないわけ? 征二君は、死んだのよ!」
「……そうだよ。でも、さ」

俊一は心底申し訳なさそうに、しかしどこか冷たい目で、羊子を突き放すように言った。

「人が人を救う? それは驕りじゃないのか」
「そうだとしても、私は、前に進みたい」

羊子は、裏切りや失敗を恐れない。何故なら、その先に得るものを知っているからだ。

「シュン、あんたが私を消すの?」
「まさか。返り討ちに遭うだろ」
「どうだか」
「デリートは別部隊の仕事だ」

そう言って俊一は、ため息をついた。

「この国は、いや世界は『組織』が裏で暗躍して成り立っているんだ。教職、医師、弁護士、政治家、町の八百屋や魚屋にも『組織』の人間は潜在している」
「目的は何」

睨みつける羊子に、俊一は余裕の笑みすら浮かべる。

「ヨーコ、思ったことない? 『もしも奇跡が起きたなら』って」
「それが何だって言うのよ」
「不可能を可能すること。それが組織の目的。究極を言ってしまえば、奇跡を人為的に起こすこと、さ」

羊子は蔑むような目で俊一を見やった。

「人為的に起きたらそれは、既に奇跡なんかじゃないわ」
「そうかな?」
「命そのものが、奇跡よ。そこへの侵襲は、命への侮辱だわ」
「……そうかもね」
「シュン。悪いけれど、私、行くわ」
「どこへ?」
「私が救えるはずの者たちの暮らす場所へ」
「…………」


今からおよそ450年前、フランスのプロヴァンスで怖しい実験が行われた。ノストラダムスは予言者として有名になったが、彼は本来医者だった。

当時ペストが流行した時、彼は医者として活躍したが、その時に怖しい実験をしたと言われている。

ペスト菌は一部の人間に、進化遺伝子を狂わせる作用があることを、彼は発見してしまった。

そして、ペストの治療法が確立されてから、威力を弱めたペスト菌を、ワクチンと称して一部の人間に植え付けた。この菌は、人間以外には猛毒である。

ノストラダムスは「1999年7月に恐怖の大王がやってくる」と予言した。しかしそれは予言ではなく、彼自らが計画した人体実験の結果が出る時期に他ならなかったのだ。

しかし予言はやや外れて、7年後の2006年、ノストラダムスの計画を450年前から引き継いできた『組織』によって続けられた人体実験―――ワクチン接種の皮を被った―――によって、一部の人類に変化が見られるようになった。

「私の知る限りでも、犠牲者は三人いる」

樋野麻衣子。体が徐々に黒蝶に変化する進化を無理やりさせられた少女。

工藤征二。精神的な傷を代償に、不可思議な予言の能力を手に入れてしまった青年。

小湊浩之。死して尚、全ての記憶と引き換えに、奪う存在として現存する運命を負わされた存在。

疑心暗鬼が羊子の心を支配しようとする。それでも、尚、

「私は自分で道を拓く。どんなに無様でも、ね」

彼女は決して、振り向かない。

そして俊一は、羊子がそういう人間であることを、古くから知っている。

「待ってくれ」
「え?」
「いずれデリート部隊に消されるのは、俺も一緒だ。だったら足掻けるだけ、悪あがきをしてもいいのかもしれない」
「どういうこと?」

俊一は、三つ折りにされた便箋を羊子に手渡した。

「遺言だ」
「遺言って、征二君の……?」
「倒れる寸前まで傍にいた看護師が、書き取っておいてくれた」
「……そう」
「これで俺も、『組織』から見れば裏切り者だな」

そう言って、俊一は苦笑した。羊子は久々に俊一の笑顔を見た気がした。けれど、こんな形では、できれば見たくなかったとも思う。

「裏切りついでに、情報を頂戴」
「構わないよ。あとは時間の問題だ。どうせ、今日の数少ない参列者の中にも『組織』の人間はいただろうし」
「聞きたいことは山ほどあるのよ。ここじゃあまりに無防備だから、どっかの喫茶店にでも行きましょう」
「どこにいても一緒だろうけどね。まぁいい、俺もタバコが吸いたかったんだ」


真水は打ちひしがれていた。患者の死を看取ったことは、医師という立場上、何度かはあった。しかし、征二のあまりの突然の死は、真水の心にも大きな傷を残した。

自分は無力だ。心病んだ青年一人、救うことができなかった。いや、救うというのは驕りだ。

治す、というのにも表現に違和感を覚える。どうにもこうにも、自分は、無力以外の何者でもなかった。

なのに、どこかで盲信していた――「なんとかなるだろう」と。と同時に、どこかで諦めていなかったか? あの青年が、箱庭から出ることは一生なかっただろう、と。

何がどうなろうと、工藤征二は二度と戻ってはこない。遺された者たちは、各々に己の無力さを味わわされるのだろう。

真水は何度目になるかわからないため息をつき、白衣を脱いだ。力なくタイムカードを押すと、覚束ない足取りで病院の職員用玄関を出た。

「あ……」

雨だ。気付かなかった。予報にも無かった筈だ。さながら、送り涙雨、か。

感傷に浸る余裕もなく、もとい、そんな資格もなく、真水は小走りに濡れながら最寄り駅を目指した……つもりだった。

その足が、気づいたら駅の入り口を通り越していた。小走りのまま、真水は雨に打たれ、スーツを台無しにしながら、ある場所を目指していた。


「白田先生。川を見たことはありますか」
「川? は、まぁ、いくらでも」
「恐らく無いでしょう。先生は、生きているから」
「工藤さん、それ、もしかして三途の川の話ですか?」
「世界で最も淀んだ、魂の還る場所。美しき人の面影を映した川のことです」
「へぇ。そんな場所があるんですね」
「ええ。新宿区に」
「へ? そんな近場に、ですか?」
「近いのに、遠い。まるで俺とユイの様だ」


見に行かなければ。見届けなければ。それが、自分にできる、自分に許された唯一の贖いの様な気がした。

「どっちだっけ……」

美しき恋人を想いながら、心を閉ざしたまま逝ってしまった、征二の最期のメッセージ。

「地球が、泣いてしまう。助けてください……!」

――――ごめんね。何もできなくて、本当に、ごめんね。謝る以外にもう、何もできないんだ。

嘘つきだと、罵られてもしょうがない。何が医師だ。何が、人を助ける職業だ。誰一人として僕は、してあげられることがない。その辺の偽善者の方がまだマシだ……――――

どれくらい走っただろう。何度も行き交う車にクラクションを鳴らされた。何度もアスファルトに躓きそうになった。

やがて、暗く速い流れが見えた。びしょぬれの真水は、息を上げながら、多少よろついて、コンクリートでできた橋に体をもたれさせた。

「ここが、面影橋……」

真水はこみ上げる想いを飲みこんで、しばらく川を見ていた。

ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。そう言ったのは鴨長明だったか。

時と一緒だ。流れるばかりで、しかも決して戻らない。

重なるのは罪ばかりだ……誰が償うのかもわからない、行き場のない悲劇だけ。

けれど。工藤征二が遺した言葉には、意味があると、真水は信じている。

面影橋から淀んだ川を見ながら、真水は唇を噛み締めた。


羊子は煙草を吸いながら、征二の遺言に目を通した。

「……予言、か」

向かいで同じく煙草に火をつけながら、俊一が、

「俺が馬鹿だったよ」
「知ってる」
「相変わらずだな。まぁいいけど」
「単刀直入に聞くわ。あんた、なんで手ぇ染めたのよ」
「『組織』は約束してくれた……手を貸せば、征二の病気に効く、未承認の特効薬を治験の名目で使わせてくれると」
「で?」
「結果の通りだよ。俺は成果を出せなかったし、征二は―――間に合わなかった」

「本当に特効薬なんて貰えたのかしらね。甚だ疑わしいわよ。シュン、あんたもきっと被害者ね」
「……かもな」
「でも、一番の被害者は征二君だから」
「……そうだな」
「ヒロは?」

羊子は煙草をふーっと吐き、俊一を見やった。

「組織から託された『実験体』だ。奇跡を体現した存在だとさ。しかし、人間としての感覚、感情が欠けた状態だった。だから、それを『奪う』ことで『完全な奇跡』になろうとしているんだ」
「ハッ」

羊子は苛立ちと蔑みをこめて鼻で嗤った。

「奇跡だの、完全だの。組織ってのは、脳味噌お花畑集団?」
「全貌は俺も知らない……。けど、ヒロの遺体が利用されてるってのは、間違いないだろ。託された時、ヒロは何も覚えちゃいなかった」
「あんだけケンカした私のことも、すっかりだったわね」
「最近、あいつは『痛み』を知った」
「奪ったのでしょう、誰かから」

俊一は頷いた。

「その誰かってのは、樋野麻衣子だよ」
「麻衣子ちゃんから?」
「あいつは今、あの子の笑顔を欲しがってる」
「欲張りな奴ね」
「その前に、強欲な主婦から恐怖を奪ったからかな」
「は?」

俊一は、声を一層ひそめた(そのことに意味がないのは重々承知の上なのだが)。

「『死にたい、死にたい』と周囲に漏らしながら、誰かに殺されたがっていた女性がいた。知ってるはずだろ、ヨーコはあの辺の管轄なんだから」
「まさか――」

確かに、主婦の遺体は、面影橋に、あった。

「ヒロがやったの?」
「いや。直接は手を下してない。ヒロはその女性から、自殺への躊躇いの根源にあった『恐怖』を奪った。恐怖を奪われた瞬間から、その女性は、笑いながら泡を吹いて、自分で首を絞めて、すぐに逝ったよ」
「……気分の悪くなる話ね」
「間接的に殺したようなもんだけど、そんなことを言ったら、誰のどの言動が、誰を殺すかわからないだろ」
「そんなの屁理屈よ」

俊一はため息をついた。

「さらに、その場には黒蝶が存在した。それをヒロが欲しがったから、俺がその場で捕まえて半分に切断した」
「あんただったの!? ちょっと、本気で許せない。どうして、そんなことをしたのよ」
「黒蝶とは言え、生命体を所持することは、ヒロに悪影響を与えるからだ」

羊子はタバコの煙を乱暴に吐いた。

「神経質なまでにご丁寧な真っ二つにするあたりが、確かにあんたらしいわ」
「そういう訳だ。ヒロに、会うか?」
「言ったはずよ。私は、私が救える存在の元へ行くと」

そう言ってタバコを灰皿に押し付けて消して、席を立った羊子の後姿には、もう一切の迷いが無かった。


真水はしばらく、面影橋を流れる神田川に見入っていた。

普段は穏やかな川。今は雨を受けて、やや速い瀬の淀んだ川。

征二は言っていた。ここが、「魂の還る場所だ」、と。

どういう意味なのだろう?

真水は、征二の言葉の意味を紐解くことが、自分に課せられた使命のような気がしていた。唯一できる、償いだとも。

「あれー?」

突如として割り込んできた声に、真水は驚いて振り返った。

暗闇の中で、通過する車のライトで一瞬だけ浮き上がった姿を見て、

「あ、あなたは、確か……この前、面会に来た方ですね」

なぜ、こんな場所に?

「白田センセーが、今日のターゲットなの?」
「ターゲット? 何の話ですか」

浩之はつまらなそうに首を傾げた。

「困ったなぁ。医者から奪いたいものなんて、何も無いよ」
「あの……」
「この川ね、俺たちの待ち合わせ場所なの。人通りも適度で、行きかう人は皆、他人に興味がないから丁度いいんだ」
「はぁ」
「って言ってもさ。俺には戻る場所はあっても居場所は無いワケ。可哀想でしょ? 欲しいんだよね、居場所」

居場所がない。そう嘆く者は、このギスギスした時代に非常に多くなった。

真水は真剣に言葉を返した。

「それが、あなたの生きづらさですか」
「『生きづらさ』? それは、この前死んだあの患者さんのことじゃないの。生きるのが辛いから、死んじゃったんじゃないの? 俺は良く知らないけど」

真水の表情が曇る。

しかし、浩之の場合、物理的にも精神的にも、文字通り居場所がないのだ。なぜなら、存在そのものが『奇跡』という名の罪だから。

「あの人、まだ若かったんでしょ。可哀想だね」

真水は『可哀想』という言葉があまり好きではない。むしろ疎ましく感じている。しかし、今は堪えて浩之の言葉を受けるしかない。自分には、反論する資格など無いのだから。

悔しいこと、またおこがましいことこの上ないのは承知で、目頭が熱くなってしまう。

浩之は構わず話を続ける。

「可哀想な人は、可哀想じゃない人に救われるんでしょ? で、救われない人は存在を認識されなくなるんだ。可哀想じゃなくなった人は、今度は自分が可哀そうな人を救いに走るんだ。で、そこから漏れ落ちる人がまた出る。で、その、ただの繰り返し。あー俺って、ホント可哀想!」

違う。工藤征二は憐れみの対象などではない。

―――真水は、元来の頭脳を以て、征二の遺言をすべて暗記していた。そして、征二の魂に導かれるように、その遺言をこの場で思いだした。

「―――!」

真水の体に、わずかながら不思議な痺れが走った。そして、突如として、征二の遺言が、真水の口から流れ出したのである。

「自我と奇跡の両立は生と死の両立に同じく、あり得ない。『お前ら』には等しく奇跡以上の罰を降らせよう」
「え?」
「奇跡は黒蝶の姿をして現れるだろう。少女の願いだけ、贖いはもたらされるのだ」
「何言ってんの?」

なぜ、それが口を衝いて出たのか、真水にもわからなかった。しかし、それを聞いた浩之の表情が、妙に硬くなっていくのは良く見てとれた。

―――――贖え。祝福されただけ、罪が翳になる。

―――――償え。払いきれない欲望のままに存在した罰を。

そして―――――いい加減、お眠り、ボーヤ。

「永遠は、ここに終焉を知る。俺はまだ君を愛しているよ。それは奇跡以上の何物でもないんだよ。そして奇跡は永遠を知らない」

征二の遺言が次々に真水の口から飛び出してくる。まるで、プログラミングされたかのように。真水は、にわかに苦しみ出した浩之を見ても、尚、遺言の詠唱を続ける。

「奇跡は黒蝶の姿をして現れるだろう。黒蝶は、死を司り、偽りの永遠を否定するのだ」
「気味悪いよ。やめてよ、それ……!」

浩之が懇願しても、真水には止めることができない。真水は自分でも戸惑っていた。どうしても止まらないのだ。この言葉を、浩之に向けるまでは。

「地球に、還りなさい」
「黙れ!!」

浩之の怒声の所為か、それとも告げるべきことを告げた所為か、真水は不可思議な現象から解放された。

「黙れ、黙れ……! 俺は絶対に土になんてならない。地球になんて還らない! 俺は永遠を歩くんだ。全てを奪って、どこまでも! いつまでも! ここに居続けるんだ!」

真水はその言葉に、ごく素直に、深い悲しみを覚えた。

「どうしてだい?」
「どうしても、何もない。存在したいんだよ、俺は、ここに……!」
「命が有限なのは、どうしてだろう。僕もそれはずっと思っていたよ。けど、だけど、今、わかった気がする」
「医者の説教なんて聞きたくない」
「違う。ただの無力な個人として、思うんだ。命に限りがあるのは、意味があるからだって」

すなわち、無限のものには意味がない。キリがないことには意味がない。そして、意味がないことには、価値がない。

「永遠に価値が無いのは、そういうことじゃないのかな」
「意味がない、だって?」
「ああ。永遠には意味と価値は、皆無だ」
「じゃあ」

俺は、何のために?

「何の、ために……」

どうして、死んでまでここに『居たい』のか。

他人から『奪って』まで、存在することに固執するのか。

「無意味と無価値を覆すのは、命という『有限』じゃないのかな。工藤さんが身をもって、それを僕たちに教えてくれたような気がしているんだ」

いつの間にか、小雨はやんでいた。真水はまっすぐな目で浩之を見る。

「君は、生きていないんだね」
「どうしてわかるんだ」
「瞳孔が開いてる。一応、医師なんでね、それくらいはわかるんだよ」
「驚かないの?」
「今さら。何が起きてもおかしくない世の中だ。僕だって、たった今、よくわからない経験をしたもんな」
「……そう、じゃあ」

浩之の眼に、突如として狩人のように鋭い光が差し、

「その賢いアタマでいいや。俺に、ちょうだい」
「何だって?」
「俺に、ちょうだい」
「ちょっと――」

浩之の腕が、真水に伸びようとする。真水がおののいて、一歩後退したその時だ。

「ヒロ!」

凛とした声が、闇夜を切り裂いた。

懐かしい(当人には記憶はないが)その呼称は、しかし浩之の凶行を止めるのには不十分で、浩之は真水に襲いかかろうと突進してきたものだから、

「うわぁっ!」

真水が真横に転んだせいで、浩之はコンクリートに頭を思い切りぶつけてしまった。

「い、痛い……これが『痛い』……か……。あまり楽しくないな」

羊子は浩之のそのありさまに、怒りを覚えた。

「ヒロ。あんたはそんなに馬鹿だった? 仲間内で一度も、誰の陰口も言わなかったあんたが、どうして今、そんなコトを平気で出来るのよ!」

真水はどうにか姿勢を整え、浩之から距離を取った。

「く、黒峯先生……どうして、ここに」
「全ての魂が還る場所だから」
「えっ」
「それに、こんな茶番は観てられないからよ」

羊子は挑発するように浩之に言葉を吐きかける。

「使命だの、奇跡だの、幸福だの。バカバカしいのよ」

『組織』への侮辱は天へ唾吐くような行為かもしれない。それでも、降り注ぐのが罰ではない分だけ、余程マシだ。

「あんたもそう思うわよね、シュン」

現れた、もう一つの影。

「ヒロ。お前には、申し訳ないことをした」

憂いを宿した目で、俊一は無様な格好のままの浩之に言った。

「お前を利用して、弟を救おうとした……俺は、本当に愚かだった」

浩之の表情が強張る。

「何、言ってんの」
「俺は、お前を眠らせてやることくらいでしか、償い方を知らない」
「どういうことさ。今まで、一緒に『奪って』きたのは、何だったのさ――――」
「過ちだ」

そう断言する俊一は、どこまでも怜悧冷徹だ。

「過ちと知った以上、断ち切らなければならない」
「その通りよ。ヒロ。心から名残惜しいけど、あんたは存在してはならない存在。奇跡なんて、人為的になんて起こさなくても、いくらでも起きてる。なぜなら命そのもの、地球そのものが、奇跡だから」

浩之は体を震わせる。

「それなら……」

そうしてやがて、両目に鋭い光を灯す。

「お前らからすべて奪ってやる! 俺は一人でも、永遠を歩くんだ。存在するんだ。地球になんて還らない!」
「ヒロ、やめなさい!」

浩之が呼吸を立て直し、叫び声を上げながら、三人に襲いかかろうとした、その時だ。

ふと、止んだ雨の代わりに、何かの欠片のような影が、周囲に舞い落ちた。

それは、見る間にその数を増やしていき、その一つ一つがひらりと動き始めた。というよりは、蠢き始めた。

真水はすぐ気付いた。

「――黒蝶……!」

面影橋を取り囲むように、どこからやってきたのか、何匹もの黒蝶が飛び交い始めた。

面影橋で、全ては――眠りを迎える。

征二の遺言は、その言葉で終わっている。何匹もの黒蝶は、まず麻衣子の一部だと見て間違いないだろう。

しかし、だとしたら、こんな大量の蝶がるということは……?

最終群 一緒 へつづく