第六群 奇 跡

真水はしばらく、面影橋を流れる神田川に見入っていた。

普段は穏やかな川。今は雨を受けて、やや速い瀬の淀んだ川。

征二は言っていた。ここが、「魂の還る場所だ」、と。

どういう意味なのだろう?

真水は、征二の言葉の意味を紐解くことが、自分に課せられた使命のような気がしていた。唯一できる、償いだとも。

「あれー?」

突如として割り込んできた声に、真水は驚いて振り返った。

暗闇の中で、通過する車のライトで一瞬だけ浮き上がった姿を見て、

「あ、あなたは、確か……この前、面会に来た方ですね」

なぜ、こんな場所に?

「白田センセーが、今日のターゲットなの?」
「ターゲット? 何の話ですか」

浩之はつまらなそうに首を傾げた。

「困ったなぁ。医者から奪いたいものなんて、何も無いよ」
「あの……」
「この川ね、俺たちの待ち合わせ場所なの。人通りも適度で、行きかう人は皆、他人に興味がないから丁度いいんだ」
「はぁ」
「って言ってもさ。俺には戻る場所はあっても居場所は無いワケ。可哀想でしょ? 欲しいんだよね、居場所」

居場所がない。そう嘆く者は、このギスギスした時代に非常に多くなった。

真水は真剣に言葉を返した。

「それが、あなたの生きづらさですか」
「『生きづらさ』? それは、この前死んだあの患者さんのことじゃないの。生きるのが辛いから、死んじゃったんじゃないの? 俺は良く知らないけど」

真水の表情が曇る。

しかし、浩之の場合、物理的にも精神的にも、文字通り居場所がないのだ。なぜなら、存在そのものが『奇跡』という名の罪だから。

「あの人、まだ若かったんでしょ。可哀想だね」

真水は『可哀想』という言葉があまり好きではない。むしろ疎ましく感じている。しかし、今は堪えて浩之の言葉を受けるしかない。自分には、反論する資格など無いのだから。

悔しいこと、またおこがましいことこの上ないのは承知で、目頭が熱くなってしまう。

浩之は構わず話を続ける。

「可哀想な人は、可哀想じゃない人に救われるんでしょ? で、救われない人は存在を認識されなくなるんだ。可哀想じゃなくなった人は、今度は自分が可哀そうな人を救いに走るんだ。で、そこから漏れ落ちる人がまた出る。で、その、ただの繰り返し。あー俺って、ホント可哀想!」

違う。工藤征二は憐れみの対象などではない。

―――真水は、元来の頭脳を以て、征二の遺言をすべて暗記していた。そして、征二の魂に導かれるように、その遺言をこの場で思いだした。

「―――!」

真水の体に、わずかながら不思議な痺れが走った。そして、突如として、征二の遺言が、真水の口から流れ出したのである。

「自我と奇跡の両立は生と死の両立に同じく、あり得ない。『お前ら』には等しく奇跡以上の罰を降らせよう」
「え?」
「奇跡は黒蝶の姿をして現れるだろう。少女の願いだけ、贖いはもたらされるのだ」
「何言ってんの?」

なぜ、それが口を衝いて出たのか、真水にもわからなかった。しかし、それを聞いた浩之の表情が、妙に硬くなっていくのは良く見てとれた。

―――――贖え。祝福されただけ、罪が翳になる。

―――――償え。払いきれない欲望のままに存在した罰を。

そして―――――いい加減、お眠り、ボーヤ。

「永遠は、ここに終焉を知る。俺はまだ君を愛しているよ。それは奇跡以上の何物でもないんだよ。そして奇跡は永遠を知らない」

征二の遺言が次々に真水の口から飛び出してくる。まるで、プログラミングされたかのように。真水は、にわかに苦しみ出した浩之を見ても、尚、遺言の詠唱を続ける。

「奇跡は黒蝶の姿をして現れるだろう。黒蝶は、死を司り、偽りの永遠を否定するのだ」
「気味悪いよ。やめてよ、それ……!」

浩之が懇願しても、真水には止めることができない。真水は自分でも戸惑っていた。どうしても止まらないのだ。この言葉を、浩之に向けるまでは。

「地球に、還りなさい」
「黙れ!!」

浩之の怒声の所為か、それとも告げるべきことを告げた所為か、真水は不可思議な現象から解放された。

「黙れ、黙れ……! 俺は絶対に土になんてならない。地球になんて還らない! 俺は永遠を歩くんだ。全てを奪って、どこまでも! いつまでも! ここに居続けるんだ!」

真水はその言葉に、ごく素直に、深い悲しみを覚えた。

「どうしてだい?」
「どうしても、何もない。存在したいんだよ、俺は、ここに……!」
「命が有限なのは、どうしてだろう。僕もそれはずっと思っていたよ。けど、だけど、今、わかった気がする」
「医者の説教なんて聞きたくない」
「違う。ただの無力な個人として、思うんだ。命に限りがあるのは、意味があるからだって」

すなわち、無限のものには意味がない。キリがないことには意味がない。そして、意味がないことには、価値がない。

「永遠に価値が無いのは、そういうことじゃないのかな」
「意味がない、だって?」
「ああ。永遠には意味と価値は、皆無だ」
「じゃあ」

俺は、何のために?

「何の、ために……」

どうして、死んでまでここに『居たい』のか。

他人から『奪って』まで、存在することに固執するのか。

「無意味と無価値を覆すのは、命という『有限』じゃないのかな。工藤さんが身をもって、それを僕たちに教えてくれたような気がしているんだ」

いつの間にか、小雨はやんでいた。真水はまっすぐな目で浩之を見る。

「君は、生きていないんだね」
「どうしてわかるんだ」
「瞳孔が開いてる。一応、医師なんでね、それくらいはわかるんだよ」
「驚かないの?」
「今さら。何が起きてもおかしくない世の中だ。僕だって、たった今、よくわからない経験をしたもんな」
「……そう、じゃあ」

浩之の眼に、突如として狩人のように鋭い光が差し、

「その賢いアタマでいいや。俺に、ちょうだい」
「何だって?」
「俺に、ちょうだい」
「ちょっと――」

浩之の腕が、真水に伸びようとする。真水がおののいて、一歩後退したその時だ。

「ヒロ!」

凛とした声が、闇夜を切り裂いた。

懐かしい(当人には記憶はないが)その呼称は、しかし浩之の凶行を止めるのには不十分で、浩之は真水に襲いかかろうと突進してきたものだから、

「うわぁっ!」

真水が真横に転んだせいで、浩之はコンクリートに頭を思い切りぶつけてしまった。

「い、痛い……これが『痛い』……か……。あまり楽しくないな」

羊子は浩之のそのありさまに、怒りを覚えた。

「ヒロ。あんたはそんなに馬鹿だった? 仲間内で一度も、誰の陰口も言わなかったあんたが、どうして今、そんなコトを平気で出来るのよ!」

真水はどうにか姿勢を整え、浩之から距離を取った。

「く、黒峯先生……どうして、ここに」
「全ての魂が還る場所だから」
「えっ」
「それに、こんな茶番は観てられないからよ」

羊子は挑発するように浩之に言葉を吐きかける。

「使命だの、奇跡だの、幸福だの。バカバカしいのよ」

『組織』への侮辱は天へ唾吐くような行為かもしれない。それでも、降り注ぐのが罰ではない分だけ、余程マシだ。

「あんたもそう思うわよね、シュン」

現れた、もう一つの影。

「ヒロ。お前には、申し訳ないことをした」

憂いを宿した目で、俊一は無様な格好のままの浩之に言った。

「お前を利用して、弟を救おうとした……俺は、本当に愚かだった」

浩之の表情が強張る。

「何、言ってんの」
「俺は、お前を眠らせてやることくらいでしか、償い方を知らない」
「どういうことさ。今まで、一緒に『奪って』きたのは、何だったのさ――――」
「過ちだ」

そう断言する俊一は、どこまでも怜悧冷徹だ。

「過ちと知った以上、断ち切らなければならない」
「その通りよ。ヒロ。心から名残惜しいけど、あんたは存在してはならない存在。奇跡なんて、人為的になんて起こさなくても、いくらでも起きてる。なぜなら命そのもの、地球そのものが、奇跡だから」

浩之は体を震わせる。

「それなら……」

そうしてやがて、両目に鋭い光を灯す。

「お前らからすべて奪ってやる! 俺は一人でも、永遠を歩くんだ。存在するんだ。地球になんて還らない!」