第三群  再 会

年に一度、紅白歌合戦だけは、消灯時間を過ぎてもテレビの視聴が許可されている。それは、普段の「消灯夜9時」の意味の無さを裏づけているが、それを追求する者はいない。

時計の針が午前0時を指すと、デイルームにいた患者たちからはまばらな拍手とともに、

「あけましておめでとー」

と言う声が半ば義務的にあがった。

「今年もよろしくね」

という夜勤の看護師の言葉は、若干皮肉めいても聞こえる。なぜなら、ここはなるべく早くオサラバしたい場所だからだ。

とある患者が看護師に何気なく、

「2007年、か。なんだか素数みたいな年数だね」

と言ったが、それに「違う」と即答したのは他でもない征二だ。

「2007は2+7=9で3の倍数。これから訪れる年で素数は、2011年」

あまりの計算の速さに、その患者と看護師は舌を巻いた。

「あ、あぁ、そう。ありがとう」
「素数の世界では、人は生きられないよ」

今年も、こんな調子なんだろうか? まぁ、年が変わったところで彼にとって何が変わるわけでもないのだろう。

麻衣子は新年など祝う気になれず、とうに眠りについていた。

2007年、第一総合病院精神科A病棟の一年、その静かな幕開けだった。


「はい、背筋を伸ばして、深呼吸!」

正月の騒がしさも一段落した 1月13日、理学療法士(PT)が、病棟まで出向いて患者たちに体操を指導している。いつもの光景だ。

PTは件の音楽療法士同様、どこか上から目線で、患者たちをあやすような口調だが、これも残念ながらありがちな光景である。一般に、そういった勘違いをしている「専門職」と呼ばれる有資格者は腐るほどいるのだ。

真水は朝からそわそわと、仕事もそぞろに上の空で電子カルテに向かっていた。

「白田先生、どうしたんですか?」

思った疑問をそのまま口に出してきたのは、その日、日勤だった若手看護師の高橋美和だ。

「あ、いや。今日だな、って思ってるだけです」
「ああ、あのお騒がせアイドルの記者会見?」
「は?」
「他にニュース無いのかな、って感じですよね。そんなに気になるならデイルームにいらしたらどうですか? 皆さん、まだ体操中ですけど」
「えっと……」

真水は口下手なのだろうか、よく誤解を受ける。美和は構わず、

「でもあのドラマの清楚な主役が、あんなスキャンダル起こすなんて。世も末、ですかねー」

真水には何のことだかさっぱりわからない。このままここで実のない話をしていてもしょうがないので、気を紛らわせるために席を立った。

デイルームに姿を見せた途端、PTが駆け寄ってきた。

「あ、白田先生。聞いてくださいよ、工藤さんも樋野さんも、相変わらず体操に参加してくれないんです」

見れば、征二は窓辺で何やら数字を数えているし(おそらく羊の数だ)、麻衣子は不機嫌そうな顔でイスの上に体操座りをしている。

PTの鼻息の荒い報告はどうでもよくて、真水は麻衣子の様子が気になった。

「樋野さん。何かあった?」
「……別に」

これではまるで何かがあった、と言っているようなものだ。

「もしかして、後藤さんのことかな」
「センセ。男のくせに勘が良すぎ」
「褒められてるの?」
「そう思いたければ、どーぞ」

真水はどういうリアクションをしたらいいのかわからず、困って腕を組んだ。これは本人の自覚のない癖だ。

後藤晶子は、正月明けにこの病棟から去った。お友達になったかと思えば、あっけなくサヨナラだ。挨拶もできず、いきなりいなくなってしまった。

「つまんない」
「……そっか」

真水は、晶子の処遇の行方を知っている。彼女は退院したわけではなく、閉鎖病棟に移ったのだ。年始早々、外泊先の自宅で、手首を深く切り、救急車が呼ばれる騒ぎになった。幸い、命に別状はなかったが、親からの強い希望で閉鎖病棟送りになった。とても麻衣子には言えない。

「指先の調子はどう?」
「変わんないよ。何にも」
「そっか」

真水はちょこっと首を傾げて、

「痛むようなら、いつでも声をかけてくださいね」
「大丈夫。大丈夫だから」

声をかけるな、ということだろう。

「じゃあ、僕はこれで」

デイルームには、先程からPTの意味無く威圧的な声が響いている。

「はい、屈伸したら次は、アキレス腱をのばしてッ!」


午後2時を回って、真水は病棟の入り口ばかりを気にするようになった。

今日なのだ、征二の家族が面会にやってくるのは。征二はいつもと変わらず、窓辺で陽光を浴びながら詩集を読んでいる。 他の患者もめいめいに過ごしている。

箱庭の日常。そこへやってきた面会者、いわば客人は、そのトロトロとした日常の流れに波紋を投げかけることになる。

「相変わらずだな、お前」

抑揚のない声で言ったのは、征二の兄、俊一だ。久々に会った第一声が、それだった。

「新しい本は買わないのか?」

繰り返し読まれてボロボロになった、アルチュール・ランボーの詩集。それは、征二の止まった時を代弁しているかのようだ。

「兄さん、仕事は?」
「今日はまだ年はじめだから、早いんだよ」
「そう」

会話が止まる。

「……体調はどうだ」
「気にする必要がないよ。肉体はとうの昔に祝福されてる」
「それは、わざと言っているのか?」

――意味の、わからないことを。

真水は他の仕事をしながら、半ば固唾を飲んで様子を見守っていた。高校の教職にある俊一のスーツ姿が、病棟では浮いて見える。

久々の再会だというのに、俊一の口調はどこか冷たい。

「土産だ」

俊一は、以前よく持ってきていたシュークリームを渡した。

「3つ、ある?」
「ああ」

兄と自分と、ユイの分。

「よかった。ここのやつ、ユイが好きだから」

そう言って、征二はシュークリームを頬張った。

マイペース、という表現には語弊があるかもしれないが、どこまでも自分の世界に生きている弟を、兄として俊一はどう思っているのだろう。推し量るには、彼と弟と会話に生まれる溝を見ればいい。

征二の眼は、疾うにこの世の光を映してはいない。違う次元を認識し、表現しているのだ。しかしそれも、本当に壊れてしまわないための、悲しい防御壁なのだろう。

それが仮令、かつて主治医である真水が言った「過剰な自己防衛反応」という名称がつけられていたとしたって、それは俊一の救いにはならない。否、誰の救いにもならない。

「次は、月を食べたいな」

征二はどこまでも、閉じた世界の住人だ。

「面影橋で、美しい最期を見たよ」
「なんだって?」
「救いを求める人を嘲るように、『それ』は、散る……」
「……」

俊一が言葉に詰まったちょうどその時、

「いやだっ!」

病棟の隅で麻衣子の悲鳴が上がった。先日、蠢いた個所がいよいよ『飛び立つ』時が来たのだ。麻衣子は涙目で手袋を押さえるが、蝶は容赦なくその翅をバタつかせる。真水が気づいた時にはもう、

「うっ、ああ」

黒蝶が、ひらりと、舞いあがった。鋭い痛みが麻衣子を襲う。麻衣子は為す術もなくうずくまってしまった。

「樋野さん!」

駆けつけた真水は息を飲んだ。

麻衣子は、左薬指の第一関節を失ったのだ。

病棟は多少ざわついたが、それ以上の混乱はなかった。他人の不幸に構っていられる余裕のある人間など、ここにはいないのだ。それこそ、我が身の「不幸」も手に余しているというのに、他の誰かに向ける情など、持ち合わせていたら、こんな場所にはいないのかもしれない。

それは、2つの意味を指す。1つは、本当に他者に関心がない状態にまで病状が悪化していること。そしてもう1つは、他者に情をかけ過ぎて、その優しさのあまり傷ついた経験を以て病んだということだ。

病棟の蛍光灯に黒蝶がとまる。真水はうな垂れて、

「樋野さん、ごめんね」
「……なんで、センセが謝るの」
「いや……、ううん、何もできないから」
「そんなの、最初から分かってたよ」
「せめて、痛み止めと消毒を」
「うん、お願いします」

俊一は、何も見ないふりをした。関わらないほうがいいのだ、こういうことには。ましてや、自分の家族のことも処しきれていないというのに。

「征二。今度大事な話があるから、こんな場所じゃなくて、外で会わないか?」
「兄さん、」
「何だ」
征二は天井の黒蝶を指差し、
「あれ、採って」
「……」

何も変わらない。何も。

日々はただ流れていくばかりで、そこに想いを刻んで何かを求めても、無情に流されるだけだ。

「丸い月を食べたのは、1267匹目の羊さ」


浩之はその話を聞きながら、半分に切断された蝶を手で弄んでいる。

「どこの御伽噺だよ、って感じ? 面白いじゃない」

影はため息をつく。

「夢の世界に生きる人間って、結構多いんだよ? 自分だけが世界で一番孤独だと思い込んで浸っちゃってる、イタイ、イターイ人って」
「他人をけなすのは趣味じゃないんじゃなかったか」
「けなしてない。評してるだけ」
「言い訳だな」
「そうかもね」

浩之は窓越しに淀んだ川を見つめながら、ぽつりと問いかけた。

「奪うって、どういうことだと思う?」
「なんだ、いきなり」
「奪う者と失う者。世界はどこまでも、どこまでも平等なんだよ」
「それは『死』のことか」
「俺だって、死にたくない」

影は首を傾げた。

「お前がまさか、そんなことを言うとはな」
「ほら、こないだ、奪ったでしょう、『恐怖』を」
「あぁ、あの時の……」
「そ。それ以来ね、なんだか思うんだ。人の死は怖い。悲しい。恐ろしい、って」

影はあきれた表情を隠せなかった。

「お前がそれ言ってどうするんだ」
「まーね。俺のレーゾンデ―トルがおかしくなっちゃう、か」

浩之はため息をついた。しかしそれをすぐに止め、

「ねぇ、中学生みたいなこと、訊いていい?」
「今日は無駄に感傷的だな」

浩之の表情は真剣で、だから影も、それに応えざるを得なかった。

「なんだ、言ってみろ」
「俺ってさ」

浩之は影とは目を合わさない。

「どうして生まれてきたのかな」
「忘れたのか? あらゆる感情を集めるだめだ。そして救うためだ。満たすためだ。それを忘れてどうする―――」
「そうじゃない」
「何?」
「そうじゃない……」

力なく、浩之は繰り返した。

「そうじゃなくて、誰がこんなことを望むのかなって」

『こんなこと』とは、彼の足もとに転がる遺体のことだろう。

「この人にだって、人生があったはずだ」
「お前らしくないぞ」

影が制する。

「お前は、自分に与えられた仕事をしろ。それでいい」
「でも、この人は―――」
「もういいから。後片づけは任せろ」

浩之は押し黙った。影は、聞えよがしにため息をつき、沈黙を引き継いだ。

奪う者がいるということは、失う者がいるということだ。そういう意味では、世界はどこまでも平等だという浩之の見解は、一概に間違っているとは言えない。

つまり、何も失っていない者は、何も得ていないに等しい。

しかし、そんな自覚がなくても人は生きていける。満たされかけているのだと信じて、惰性で生きていける程度の人生なのだろう。それならそれでもいいのだ、本人がどんなに孤独や苦悩を主張しようが、奪うことも失うことも等しいのならば、人は『死ぬまでは生きていける』。

代償とはよく言ったもので、何も払わずに何かを手に入れようとする人間が多いことは、やはり多くの人間が意識下で気づいていることであろう。事象の万引きとでも言おうか。罪には等しく罰が降る。そう言った意味でも、この世界は平等この上ない。しかも、最後には必ず「死」がやってくる。どのように生きようが、死は必ずやってくる。だからこそ、ある種の人々は、生きていく。生きている、のではない。孤独や苦悩と闘いながら、生きていくのである。


黒峯羊子は、間違いなく「生きていく」ことを選んだ人間だろう。惰性で自分を偽ることができないのだ。

デスクで、半分に切断された黒蝶の標本と睨めっこをしていると、圭介がインスタントコーヒーを持ってやってきた。

「また見てるの? 好きだねぇ」
「好きも何も、ここまで芸術的なのは罪だわ」
「あ、そ。でも仕事してよ」
「あんたよりは、よっぽどはかどってるわ」
「はいはい、黒峯センセ。資料とコーヒー」

羊子の目の前に、アメリカンと呼ぶにも薄いコーヒーと、大量の捜査資料が置かれる。

「いい性格してるわね、あんた」
「センセほどじゃないよ」

羊子はぶつくさ言いながら、資料を手に取った。見れば、日比野ひかりの事件も解決していないのに、またしても類似した、いや酷似した事件が起きたという。羊子の目を惹いたのは、遺体の口元に添えられていた、半分の「黒蝶」だ。

「またなの!」

羊子は半ばヒステリックに呟いた。圭介は肩をすくめて、

「君ならそう言うと思ったよ。俺だって思ったもん。件の黒蝶の子だけどさ」
「麻衣子ちゃんのこと?」
「君に言わせれば、この事件は『悪質極まりない』んだろうね」
「まーね」

羊子の言わんとするところは、人が死んでいるということよりも、美しい『麻衣子の一部』である黒蝶が切断されているということである。

「久々に、会いに行こうかしら」
「第一総合病院まで?」
「あんな辛気くさい場所より、どっか外で会うわ。せっかく女子二人きりなんだもの」

圭介は、「医者のセリフとは思ないな」と苦笑した。


麻衣子の携帯にメールが来たのはその日の夜だった。夕飯も終わり、あとは消灯を待つだけの退屈な時間に、羊子から華麗なお誘いが来たのだ。

『土曜日、六本木あたりでデートしない?』

「わぉ」

麻衣子はひとりごちた。

でも、着ていく服がない。そんな都会に出るのは久々だし、ずっと病棟生活で、ファッションに気を遣うこともなかったからだ。

しょうがない。せめてマシな格好をしよう。ジャージじゃなくて、スカートとか。でも、スカートなんてあったっけ? 病棟は基本的に肌の露出の多い格好は敬遠される。

困ったなー……。

こういう時は、迷う前に相談。直接、羊子に聞けばいいのだ。麻衣子は携帯のメールを返信しようとしてハッとした。

指先が2本、無い。

わかっていたけれど、とっくに覚悟はしていたけれど、それでも、悲しい。今は、左の小指の先が少しだけ黒ずんでいる。これもそのうち蝶になって飛びだっていくんだろう。

わかっている。わかってはいても、悲しいものは悲しい。

『何を着ていけばいい?』という麻衣子の質問に、羊子からの返信は早かった。

『温かくして来て。新しい服をショッピングしましょう。』

真水は一人で気を揉んでいた。羊子のことだから何もないとは思うのだが、羊子のことだから何かあると思ってしまう。学生時代から彼女はそうだった。一人で何かを考えて勝手に行動し、突っ走っては周囲に心配をかける。しかし、本人に反省の意はなく、それを問うと却って気を悪くするのだ。

「何がいけないの?」は、もはや羊子の常套句である。

土曜日になって、雨が降った。傘が要るかいらないか程度の雨だったが、麻衣子の気を滅入らせるには十分だった。

「せっかくのお出かけなのにね」

看護師が慰めだかなんだかよくわからない言葉をかける。麻衣子は辛うじてとってあったチュニックを着て、コートを羽織った。

「行ってきます。7時には戻ると思う」
「戻らなきゃいけないの、よ。ごめんなさいね、決まりだから」
「わかってる」

麻衣子は、誰にともなくため息をつき、病棟から久々に外へ出かけた。

目の前の道路を見ただけなのに、なんだかとても遠くの世界に来たような感覚に襲われた。これなのだ、この感覚だ。箱庭に引きこもっている自分には無いもの。失ってしまったもの。

息を吐くと、白かった。そんなことすら、忘れてしまっていたのだ。

目指すは六本木。新宿で、赤いしるしの電車に乗り換える。携帯で乗換案内を見ながら、麻衣子は軽くジャンプした。

なんとなく、自由な気がしたからだ。気がするだけで、ちっともそうではないのは、彼女自身が一番よくわかっている。

曇天からそれこそ申し訳程度に降る雨に、麻衣子はちょっとだけ恨みの念を覚えた。

やってきた電車に揺られていると不思議な気持ちになる。終点まで乗れば、海が見られるだろう。しばらく彼女は海を見ていない。そういえば。季節の花も見ていない。去年の紅葉も知らずに過ごしたし、名前の知らない赤い実のことも忘れていた。

忘れながら、人は生きていくのだろうか。
忘れないと、生きていけないのだろうか。

六本木に着くと、麻衣子は小走りで待ち合わせ場所へ向かった。

「偶然ね」

羊子は笑って手を振った。ヒルズ前にいた彼女は、麻衣子と同じ色のコートを着ていたのだ。

「羊子さん、あまりベージュってイメージじゃないな」
「そう? 麻衣子ちゃんは良く似合ってる」
「ありがと」
「そこの喫茶でいい?」

洋子の指した先には、小ぢんまりとしたカフェがあった。

「うん。羊子さん、タバコ吸うでしょ?」
「うーん。禁煙中、と言いたいんだけどね」
「医者とは思えないなー」

店内に入ってすぐ、羊子は灰皿を取って席に着いた。

小さな店内だ。すぐに気付くべきだったのかもしれないが、羊子にはそこまでの鋭さがその時には無かった。麻衣子は久々の外出でどこか舞いあがっていたし、そもそも彼女が気づくべきではなかったことなのかもしれない。だが、安易な運命論を否定し続けるその存在が、樋野麻衣子というある意味運命に侵されている存在を、その視界に捕えたのも必然なのかもしれなかった。

運命は、妥協と策謀の織成す布のようなものだと、羊子は認識している。その布を切り裂くのは、意思という刃だ。

だから、羊子は注文したコーヒーが来る前、タバコに火をつけたその瞬間に、

「……偶然、よね」

眼光鋭くそう呟いた。

「え? 何が?」

麻衣子の質問はもっともだ。

「今日ここに来ること、誰かに言った?」
「うん。だって外出届を出さなきゃいけないから」
「そ。じゃあ白田は知ってるのね」
「そりゃ、一応主治医だもん」
「一応、か。白田が聞いたら泣くわ」

そう言いながらも、羊子の目は笑っていない。

「どうしたの? 羊子さん」
「あのさ、麻衣子ちゃん」
「ん?」
「つまんない昔話をしてあげる」
「はい?」

羊子が視線を一瞬だけ刺したその先には、携帯電話の操作に夢中になっている、小湊浩之の姿があった。

第四群 曇 天 へつづく