Case7.不穏

娘の莉々が熱を出して以降、時おり隆史は浩輔ひとりに店を任せることがあった。どうやら莉々はあまり体が丈夫なほうではないらしい。隆史はパートナーと離婚しているので、普段は莉々を保育園に預けているが、熱を出してしまうとそうもいかない。

「今日も、悪いな」
「気にすることじゃない。なにしろ俺は雇われの身だからな」
「寂しいこと言うなよ。俺たち二人のテラエシエルだろ」
「嬉しいこと言うなよ。嘘に聞こえる」

隆史不在の営業は、想像以上に重労働だった。接客と施術だけをしていた普段と違い、電話の応対や予約の返信、売上管理などその他細かな業務に追われて、店舗のシャッターを下ろした時にはいつも寄るスーパーマーケットの営業が終わってしまっていた。

冷蔵庫の中身で適当に何か作ることも考えたが、疲労がそれを拒否した。さて、どうしよう。あてどもなく街を歩いていると、実にさまざまな人たちが歩いていることに気づかされる。

腕を絡めているカップル、学生服姿のスポーツ刈りの集団、歩きスマホの大学生、歩幅のやたら広いサラリーマン、杖をついて歩く老婆。浩輔は思った、自分もこの風景の一部であれることは、きっと尊いことなんだろうと。

駅前を過ぎて緩やかな上り坂の住宅街に出ると、一転してしんと静まりかえって、透き通った空気が浩輔の呼吸を支配した。夕飯を食べることを忘れそうになる。空腹が気にならなくなるほどの静寂だった。

見上げれば、今日もやはり星々がさんざめいている。あの中のどれかがきみだから、俺はいつかきみを見つけて、名前をつけてあげなきゃならない。

「……ランパトカナル」

そうつぶやくと、なぜか背筋に悪寒が走った。こんなことは初めてだ。ここは住宅街だから、駅前のような喧騒はない。だが、それにしたって少し静かすぎやしないか。

浩輔は何かに導かれるようにして、速足で角を曲がった。次に見えたのは、空き地だった。雑草が伸び放題になっており、「売地」の立て看板が錆びている。その敷地の中でうごめく人影を、確かに浩輔は認めた。

「あ……!」

空き地の中央付近で、スーツ姿の男性が立ち尽くしていた。見知った顔だった、ゆえに浩輔は戦慄した。その男性―—葉山は、浩輔に気がつくと「ああ」と声をかけてきて、こちらをわざとらしく指さしてきた。

「こんなところで会うとはね」
「刑事さん、その手」

浩輔に向けられている葉山の手指は、血にまみれていた。葉山は浩輔をからかうように首をかしげておどけてみせる。浩輔はとっさに葉山の足元を見回した。しかし、被害者らしき人物は確認できなかった。

「手が、どうかした?」
「何をしていたんだ」
「いやだなあ。今はもうプライベートの時間だよ。何をしていたって自由じゃないか」

浩輔は息を飲んだ。葉山はステップを踏むような足取りで浩輔に接近すると、「Bonsoir」と笑った。浩輔は緊張と混乱のあまり何度もまばたきをする。次に葉山の手指を見たとき、血の跡は少し乾いているのが見えた。

「苦しめば苦しむほど、わからなくなるものってなーんだ?」
「知らない」
「そのほうが幸せだよ、きっと」

からかうような葉山に対し、浩輔はどうにか平常心を保とうと、一回深呼吸した。そうして、もっとも問うべきかつ忌むべき質問を葉山に投げつけた。

「――誰かを、傷つけたのか」

その言葉に、葉山の口元は歪んだ。ただならぬ不穏を直感した浩輔は、考えるより先に葉山の首元につかみかかっていた。葉山はかわすこともせず、薄気味悪い笑みを浮かべている。

「この野郎……っ!」

浩輔がここまで感情的になるのは珍しいことだった。だが無理もない。浩輔にとって命を軽んじ弄する行為は、何より許しがたいことなのだから。そんな浩輔に対し葉山は余裕の表情で、「まあ、そう熱くならないでよ」とうそぶいた。