第三話 落ちる

(一) 裕明が佐久間に体を明け渡してから、一晩が過ぎた。佐久間は相変わらず美奈子のことを「雪」と呼び、慈しむようにたくさんの愛情を注いでくれる。 佐久間は朝早くラッシュの中央線に乗って立川へと出かけた。美奈子は京王線に乗…

第二話 ブランコ

(一) 梅雨明けしたある日の夕方、二人の家に来客があった。くたびれたワイシャツにノーネクタイ、チノパンといういでたちの五十歳過ぎの男性だった。 ドアを開けると、男性は恭しくお辞儀した。 「この度は、ご協力まことにありがと…

第一話 しらない

(一) あまりにも平和な日々が続くので、西郷直樹の喉は非常に渇いていた。平和、平和、平和。なんだろう。なぜ、この言葉にこんなにも吐き気を覚えるのだろう。通りすがりのやかましい女子高生の群れに、ほのかな殺意すら覚えてしまう…

(いつかの夏の日)

蝉時雨と読経の声だけが小さな部屋に響いている。泣く者はいない。たった二人の参列者の葬式で彼女の母親は、僧侶の読経中ずっとうつむいていた。それを責めるかのように、蝉たちの喚き声がしていた。 やがて読経が終わると、坊主は軽く…

プロローグ ある日の風景

彼はリビングで丁寧な手つきでマフラーを編んでいる。毛糸と毛糸とを編み針で絡ませながら、私に明日の出来事を語ってくれる。にこりと微笑んだ彼の、「あした、ばいばいだね」 などといってみせるその姿は、決して狂人の物まねではない…

面影

独言 私の想いは、幼子の欲求の発露のごとく拙く、月光を吸い込んだ絹糸のように儚い。しかし、それで構わないから、あなたを絡めとりたい。私の言葉で、あらゆる倫理を超越して。 思慕 外山景彦とやまかげひこが弁護士となったのは、…

ふたり/中指

雪解けは終わりの合図、春 そしてきみは言うんだ 「はじめまして」って 笑顔が似てきたね、と藍子に言われて以来、ときどき鏡に向かって笑ってみる自分がいる。夫婦は似るものだとよく言われるけれど、私たちも例外ではないようだ。 …

短歌 いいにおい

1 ありがとう、みんな大好き。なんてフラグっぽいから絶対言わない 2 万が一死亡フラグが立ったならその折り方を教えてくれよ 3 師走入りいて座のきみは誕生日近いことなど気にしていない 4 おきてる? ときいてくれたのに …

短歌 終点

1 突っ走る特急が万が一終点で止まらなくても構わないって 2 くたびれて肩に頭を置いたなら終点なのにきみは動かず 3 ありがとう、みんな大好きだよ。なんてフラグっぽいから絶対言わない 4 万が一死亡フラグが立ったならその…

天体観測

秋川浩輔あきがわこうすけは自分に課せられた使命を自覚して以来、規則正しい生活を心がけている。風邪など引くわけにはいかないからだ。 毎晩していた晩酌もやめた。惰性で動画を観るのもやめた。毎朝6時に起きて、新聞に一通り目を通…