ジグソーパズル

完成したら、終わり。終わってしまえば額縁に飾られて風景画未満になる。

だからふたりのジグソーパズルが完成しないように、私は思い出のひとかけらをポケットにしまった。

「なんだっけ、きみが行きたがってたカフェ」

スーパーマーケットで買った惣菜ととき卵の味噌汁という簡易な夕飯の食卓で、きみはきんぴらごぼうに手を伸ばす。

「なんだっけ」はきみの口ぐせだ。

「並木町のほうのさ、イタリアンの」

「『マルベリー』かな、それとも『ロゼット』かな」

「なんだっけ」

私はそんなきみの口ぐせが好きだ。たとえそれが、病気に所以するものであったとしても。

毎月第三火曜日、きみは精神科に通院をしている。以前は二週間に一度。その前は毎週。さらにその前は通院どころか入院をしていた。

もうずいぶん前の話だし、その頃の話をきみからすることはめったにないので、私からも深く問うことはしない。

別の日、海岸に出かけることになった。どうしても海が見たいときみが言い出したのだ。春先の海なんてのもなかなかオツだねと私が荷物の支度をしていると、きみが困り顔でいった。

「あれがないんだ」

「『あれ』って?」

「なんだっけ」

「なんだろう」

「ほら、あの眩しさを遮るやつ」

「サングラス?」

「そう、それ」

横浜線から乗り換えをして、ガラガラの片瀬江ノ島方面の小田急線に座る。車窓から綻びはじめた桜を眺めている私の肩を、きみが遠慮がちに人差し指でつついた。

「どうしたの?」

「あのさ、これ着けてもいい?」

きみが取り出したのは先刻発見したサングラスだ。まだ西陽の時間ではないけれど、私には着用の理由がよくわかるので「もちろん」と答えた。

「サングラスなんて、好きな時に着ければいいよ。ファッションだと思って」

きみはおずおずとサングラスをかけると、そのままうつむいてしまった。

「疲れちゃった?」

私がそういうと、きみは小さく首を横に振った。

「だって、きっと変でしょう」

「変かもね」

「ごめん」

「別に変だっていいじゃない」

きみが電車のなかでいきなりサングラスをかけたのは、周囲の乗客の視線に恐怖を覚えるからだ。間違っても私はそれを責めたりはしない。

海が見たいときみがいうのだから、私は海を見るきみを見たい。そういうこと。

「あれは、河津桜かな? もう満開だね」

「そうなんだ」

電車の窓から見える鮮やかなピンクは、しかしレンズ越しのきみにはくすんで見えている。茶色いレンズの奥の目が、不安げにこちらを時折見ていた。

藤沢駅でスイッチバックした車両は、一路目的の駅へと向かう。線路のガタンゴトンが、互いの緊張をほどいてくれるようで心地よかった。

鵠沼海岸駅に着くと、時刻は午後2時を少し過ぎていた。

「ここにあるかな」

「何が?」

「なんだっけ」

「ねえ昼ごはん、まだだよね」

「うん」

私がスマホで近辺の食事処を検索していると、きみは「あ、ファミマだ」とつぶやいた。遠くからでも、黄緑と青と白の看板が目についた。喫茶店のホームページを見ていた私に、きみは提案した。

「給料日前だし、おにぎりでよくない?」

「よいよい」

ファミマに入ると、ようやくきみはサングラスを外した。

「もう大丈夫なんだね」

「うん」

鮭と梅のおにぎりをカゴに入れた私は、すぐにきみが隣で硬直しているのに気づいた。私が声をかけるより早く、彼は「なんだっけ……なんだっけ」を連呼する。私はそんなきみの姿がコンビニに溶け込むよう、「うーん、なんだっけ」と相槌を打った。

なんのことはない。きみのほしかった明太子のおにぎりが品切れだったのだ。

ペットボトルのお茶も買って、いよいよ海へと向かった。春独特のうっすらとした光のじゅうたんが、海面いっぱいに広がっている。

「おお、これは見事じゃな」

私がくだけていうと、きみは砂浜の手前のコンクリートの塊に腰かけて、おもむろにおにぎりを食べはじめた。

「なんだっけ」

きみがいう。

「昔さ、千葉のほうでこういう景色を見た気がするんだけど」

「千葉ポートタワー?」

「たぶん、それ」

私はコンビニで買った緑茶をぐいっと飲んだ。

「あの時、ポートタワーの最上階に『恋人たちの鍵』を掛けてきたよね」

「そうだっけ」

「うん」

わかっている。きみがとうにそんなことを忘れてしまっていることは。ハート型の南京錠に、ふたりで相手の名前を書いて設置されていた鎖にかけて誓いを立ててきた。私にとっては忘れられないこと。

きみがそれを思い出せないのは、私がそのピースを隠し持っているからだ。あの思い出が、風景画未満にならないように、私が意地悪をしているからだ。

一羽の海鳥が、甲高い声をあげて私たちの上を横切っていく。

「なんだっけ」

私がきみの口ぐせを真似ると、きみはキョトンとした表情になった。

「え?」

「あの鳥。ウミネコ?」

「……なんだっけ」

おにぎりを食べ終わったきみは、一足先に波打ち際へと歩を進めた。寄せては返す波と無邪気に戯れる姿は、私にとって小さな奇跡のようで。

海を見るきみを見られて、私は満たされてゆくのを感じていた。

梅おむすびの最後の一口を食べ終えると、私もきみのもとに参戦した。

「わっ、押さないでよ!」

よろけるきみに、ケラケラと笑う私。目の前に広がる海面のきらめきの前では、ふたりとも道化になっていい。だから疲れるまで、私たちは白い波しぶきと傾いていく太陽と遊んだ。

「なんかさ、いいね。こういうの」

きみがぽつりという。私はそれがもうどうにも嬉しくて、破顔するのを抑えられなかった。

「なんだっけ!」

私が水平線に向かって叫ぶ。きみも心底楽しそうに、

「なんだっけ!」

と輪唱した。

ふたりの声は、あっけなく波音にかき消されていく。けれど、それでいいのだと思う。

私たちのジグソーパズルは、きっとずっと完成しない。欠けたまんまが、きっといい。