第八章 その面影

【彼を導いた、歪める天啓の欠片】
生の苦しみから逃れたいがために、人は傲慢な神を創り出し、救いと責任を押し付けたのです。原罪という幻想を作り上げることでパラドキシカルに罪悪感から解放されようと目論んだ古代の人々。その意識は受け継がれ、生命の誕生と厳格なる倫理という矛盾から抜け出せないがために、メビウスの輪のような恐ろしい奔流の中に、自らの虚構を投影することで辛うじてバランスを保っているのです。生命の誕生を神秘だなどと言い出したのは、誰でしょうね。
そもそも、祝福される生命とそうでない生命は、一体どこで線引きされるのでしょう。その誕生のために施される行為は同じ。しかし、結ばれ胎動を始めるその瞬間から、その者を善悪、可否、YESorNo、に分かつものとは何でしょうか。神ですか、教祖ですか、預言者ですか、シャーマンですか、それとも街角の占い師ですか。違いますよね。ましてや警察や法律家や医師でもない。そうであるわけがない。
答えは、あなた自身で見つけることです。あなたが世界に否定されるのなら、あなたには、世界を否定する権利があるのですから。

認識されなければそれを否定していいのか。補足した世界だけで世界を語ることは許されるのか――さも悟ったかのように『世界』を騙る者が、この狭苦しい都市には多すぎる。だから彼女は切り裂くのだ。その手に握った錆びないメスで、この閉塞した『世界』を。
「あなた、おしゃべりね」
ミズは抑揚のない声で祥子に語りかける。ハイヒールの音だけが響く、自宅マンションへと続く暗い道は、霧のせいで先がよく見えない。それでも、背筋をピンと張った堂々たる姿勢でミズは歩き続ける。自宅まではじきだ。
「少し控えてくれないと、肉が摩擦を起こして、腐敗が進んじゃうわよ」
「話しかけたのはあなたの方じゃないの。我慢した方よ。電車の中ではね」
「そりゃそうよ……困るのは私なんだから」
「感謝してよ!」
「ええ、それはそうね」
「それにしても――」
祥子は濁った眼で周囲を見回して、誰もいないことを確認してから、腐敗の促進を覚悟で話し出した。
「あなた、本当に変わってる。私なんかを相手にするなんて」
ミズは首を少しだけ傾げた。
「だってそうよ。さっき私、あなたにひどいこと言ったけど、私だって全然、他人様のことなんて言えない人生だった」
「そう」
ミズは特に興味なさそうに返答する。ミズが祥子を『持ち帰っている』のは、彼女の口走った『土竜』という言葉の真意を確かめたいからであって、それ以外の言葉に、意味は見出せない。
それでもお構いなしに、祥子は話を続ける。
「どうしたらいいのかしら」
「何が?」
「こう見えて、彼ならいるのよ、私」
「死んでから人生相談? 笑えるわね」
「笑っていいわよ。もういいの。だって首しかないし」
「そうね」
「変わった彼だったわ」
「……」
ミズは自宅の鍵をコートのポケットを探って見つけ、ドアを開けると祥子入りのカバンを無造作に絨毯の床に置いた。
「ちょっと、もう少し丁寧に扱ってよ!」
「ごめんなさい。お腹すいてるの」
「空っ腹に酒だけ流し込むのは良くないわよ」
「ご忠告ありがとう」
「で、話の続きなんだけど」
「何が? 訊きたいことがあるのは私の方よ」
「彼の話。少しくらい浸らせてよ」
「あとでいくらでも聞くわ。それより」
ミズはストッキングも脱ぎ終えると、ほぼ下着のような格好で気だるげに冷蔵庫を開けて中身を物色し始める。
「本題に入りたいんだけど、いいかしら」
祥子は不満げに頬を膨らました。だが文字どおり血の気の無い頬を膨らませても、そこに可愛らしさなど欠片もない。そこそこ整った顔立ちをしている祥子であったが、死というのは人間の魅力をひどく削ぐものなのだろうか。
「あなたの死因は、失血死だと書類にはあったけど。あなたは殺された。間違いない?」
「ええ。でも質問攻めの前に、せめてここから出してくれない? 狭いったら」
「腐りたいの?」
「どうにでもなれ、よ。もう恐いものはないわ」
「でしょうね」
ミズはピクルスを口にして、その手で祥子の髪をぐいっと引っ張ると、ごろんとテーブルの上に置いた。
「信じられない、信じられないわ! 髪は女性の命なのよ、あなただって女性でしょうに、よくそんなに乱暴に扱うわね」
「あら、ごめんなさい」
「謝る気が無いのなら、そんな言葉いらないわよ」
ミズは死して尚も気丈な祥子に、少しだけ好感を持った。
「で、殺した相手の名前は?」
「…………言えない」
「どうして」
「『彼』は裏切れないから」
「は? あなた解剖台の上では、悔しいって叫んでたじゃないの」
「そうよ。悔しいわ。でも、彼が悪いんじゃない」
「どういうこと」
「私にもよくわかんない。でも、悪いのは土竜なの」
ミズはため息をついた。せめて一球でもいいから、会話のキャッチボールがしたい。
「彼は、イコールモグラではないのね」
「当たり前じゃない。彼は本当に素敵だったわ」
「でも、殺したのは彼なのよね?」
「あぁ!」
突然、祥子は取り乱し始めた。何かがフラッシュバックしたのだろう。その狼狽ぶりを見て、ミズは軽い頭痛を覚えた。先刻の酒が悪い回り方をしているのだろうか。
「あああ、ああああ!」
何とも近所迷惑な悲鳴だ。もっとも、ここは防音完璧なワンルームマンションであるからそんな心配は無用だが、それにしたってこの甲高い声は耳につく。いつもならここでスパッと声帯を切ってしまうミズであるが、大事な参考人であるが故にそれもできない。「あああー」と叫ぶ祥子の髪を、またしてもむんずと掴んだミズは、それをそのままクローゼットに放り込んだ。鍵を掛けて、強制的に、しばしのおやすみなさい。

あーあ。あとでファブリーズしなきゃ。
「彼は裏切れない」か。

そんな風に思える相手なんて、ミズにはもういない。そう思ったら、祥子が少しだけ羨ましく思えた。死体に嫉妬だなんて、自分もくるところまできたな、とミズは自嘲する。
惰性でリモコンを手にして、テレビの電源を入れた。最初に聞こえてきたニュースは、真新しいスーツを着た新社会人の話題だ。どうでもいい。
こんなに疲れているのに、今夜も眠れそうにない。ミズは深いため息をつくと、テーブルに剥きだしで置かれていたヒートから白い錠剤を2錠出して、台所の水で飲み下した。
天下のミズが睡眠薬に頼っていることを知っているのは、他でもない、それを処方した篠畑だけである。他の人間には知られたくもないし、別段知らせる必要もない。
「……」
篠畑礼次郎、か。同じく医学を修めながら、その道を踏み外しているという意味では、彼は自分と共通点を持っていると言える。それも、とても他の人間には真似できないであろう結びつき方で。
それを人は何と呼ぶ? 差し詰め、『腐れ縁』だろうか。それこそ、くだらない。考えるだけ無駄だ。
篠畑の専門分野を、ミズが利用しているだけ。それだけだ。処方されている薬が、訴える症状を悪化させることも想定していたが、ミズの知識だけでもこの白い錠剤が大した効能を持たないことはわかっている。
だったらこんなもの飲まなければいい、と吐き捨てられないのは、プラセボでもいいから縋りたい何かが、まだ彼女の中にある証拠だ。つくづく、そういう感情が鬱陶しい。
切るものは切り、捨てるものは捨てて今まで生きてきたというのに。

「強がり、ですね」

篠畑のそんな言葉と余裕の笑みが浮かぶようで、ミズは自分の愚鈍な思考回路を呪う。

面影なんて疾うに忘れた。最期なんてそれこそ、焼けただれていたもの。忘れたわ。過去は過去以上にはなれない。そう、忌むべき過去など、記憶からさっさと排泄されるべきなのだ。
それなのに。時々脳裏を掠めてしまうのは、いつか呼ばれた自分の名。あの声と、あの笑顔と、あの大きな手。疎ましい。
ミズは考え事を断ち切るために、ベッドに横になった。薄着のままで、テレビもつけっぱなしで。
ニュースは終盤に天気予報を伝えていた。
『春雨前線の影響で、ゴールデンウィークあたりまでは雨の降りやすい気候が続くでしょう。気温は平年並みで……』