カテゴリー: ゆく夏に穿つ

二十二話 刹那の灯(一)血

その場に居合わせた女性看護師がすぐに美奈子に駆け寄り、三角巾として使っていたバンダナで美奈子の二の腕をきつく締めあげ、「大丈夫だよ」と声をかけた。それから先ず消毒しようと傷口から溢れる血を拭おうとするが、見た目以上に裂傷は深く、流血がなかなか止まらない。

とっさの判断で、看護師は美奈子に問うた。

「血液型は?」

「AB型です」

「Rhはわかる?」

「……マイナスです」

看護師の表情がひきつる。AB型かつRhマイナスの血液型はこの国では最も少なく、およそ二千人に一人とされている。万が一輸血用の血液が必要になった場合、最寄りの血液センターから血液を取り寄せなければならない。

しかし、この立地だ。奥多摩の自然は時として、人間の営みに立ちはだかる壁となる。そして木内の願いも虚しく、人はいともたやすく人を傷つけることも事実なのだ。

木内の医療用PHSを何度も鳴らすが一向に応答がないため、しびれを切らせた看護師は作業療法士に美奈子を託し、デイケアルームを飛び出していった。

織本が皺の深い両手で美奈子の頬をそっと覆い、「ごめんなさい」と何度も謝るものだから、いたたまれなくなってうつむくのは山下である。川崎はそんな山下を一瞥してから、美奈子に声をかけた。

「ごめん、俺のせいで」

「いえ」

美奈子は気丈に笑ってみせた。

山下に対しては、彼が昨日さんざん智行に痛い目に遭わされたのちに、ベテランの男性看護師がじっくりと話を聞いたはずであった。そこで反省の弁を述べていたことから、木内の判断でお咎めなしとし、今日のデイケアにも参加を許されていた。

それにもかかわらず、この山下という青年は己の未熟さを性懲りもなく振りかざし、あまつさえ人に怪我まで負わせた。いくらここが守られたサンクチュアリとはいえ、人々の優しさの上にあぐらをかいたことは、到底許される行為ではない。

しかしながら、その罪の重さを誰よりも痛感していたのは、山下自身であった。看護師が止血を試みても流血がやまず、血塗れの腕をだらんと下ろした美奈子が、それでも「うん、大丈夫です」と口角を上げてみせている。それに比べて、自分のこの体たらくがどこまでも情けなくて、山下は膝から崩れ落ちた。

「……ごめんなさい」

近くにいたデイケア参加者がようやく聞き取れる程度の弱々しい声ではあったが、彼は謝罪の意を示した。川崎は舌打ちしたくなる気持ちをぐっと堪え、「ランドリールームからバスタオルを持ってくるから、お前手伝え」と山下を睨んだ。山下には従う以外の選択肢はなかった。

ランドリールームで洗濯機を回していた岸本のPHSが鳴ったのはこの頃で、その場での応急処置はこれ以上施しようのない状態であることが伝えられた。まもなく真っ青な顔をした川崎と、川崎の陰に隠れるようにしてついてきた山下が姿を見せたが、岸本は深くを問い詰めることなく、しかし的確な指示を二人に与えた。

「茶色の棚から、バスタオル二枚とハンドタオル五枚。緑のキャビネットから止血帯と消毒用アルコール、コットン、包帯、ワセリン。清潔な水がペットボトルに入ってるから、常温で2リッターを二本。あとラップも」

弱さは、人を傷つける。人は傷つくから弱いのではない。弱さゆえに傷つくのでもない。弱さが、人を傷つけるのだ。

時を同じくして、白い部屋のカーテンで隠された入口から顔を覗かせた途端に看護師と鉢合わせた木内が、彼女の緊迫した表情に面食らった。

「あれ、どうしたの」

「どうしたの、じゃないですよ! なんで肝心なときにピッチ出てくれないんですか!」

「え、ああ。ごめんね、ちょっと事情があって」

「人の命より優先していい事情なんてありますか?」

「え、それどういう意味——」

木内が言い終えるのを待たずに、看護師のPHSに作業療法士から着電があった。迅速に応答した看護師は必要な情報を聞くとさらに険しい顔になり、木内にこう伝えた。

「応急で消毒はしましたが、出血がなかなか止まらないんです」

「えっ」

「高畑美奈子さん、AB型Rhマイナスの女性です。先生、早く!」

看護師から事情を聞かされた木内は、考えるより先に駆け出していた。

その奥に存在する白い部屋で裕明がうっすらとまぶたを開き、天井に向かって手を伸ばしていたことは、誰にも知られない些事である。

「数えなきゃ……」

裕明の口から、トロトロと言葉が零れ落ちる。

「でも……何を、数えたらいい……?」

(丁寧に、数えなさい)

「……何を?」

(あなたが)

「僕が……?」

(今までに葬った人の数)

「……はい」

***

「美奈子ちゃん!」

駆けつけた木内は美奈子の負った傷を見て、すぐに判断をした。

「すぐに処置室へ」

病床をほとんど持たない小さなクリニックに珍しい型の血液は潤沢にあるわけではなかったが、AB型Rhマイナスのストックに木内は心当たりがあった。

裕明である。

提供可能となる十七歳を過ぎていたこともあり、裕明からクリニックへ献血を申し出てきたのだ。誕生日のたび、彼は「何か自分が役に立てるなら」と毎年献血をしてきた。本来ならば、この地域なら立川の献血センターなど設備の整った施設で行うべきことなのだが、彼を奥多摩から出すべきではないと判断した木内が、旧縁を頼って臨床検査技師を雇い、ここで献血を行っているのだ。

技師と看護師たちの仕事は的確かつ迅速であった。この土地、このクリニックで働くことを決断したのは、いずれも木内と岸本を慕っている少数精鋭の医療職だ。彼ら彼女らは、患者の尊厳を軽視しがちな既存の精神科病院での処遇のあり方について強い疑義を抱いている先進的な価値観の持ち主でもあり、木内が全幅の信頼を置いているスタッフである。

処置室のベッドに運ばれた美奈子は、出血の負担と緊張の糸の切断からか、横になるとそのまま眠ってしまった。よほど疲労が溜まっていたのだろう。声をかけても起きることはなく、その顔色はみるみる青くなっていった。

「大丈夫よ、大丈夫だからね」

応答はなくとも、岸本は何度も美奈子を励まし続けた。美奈子の容態を視診した木内は「輸血に際しての不規則抗体検査は可能」と判断し、必要な処置を開始した。

デイケアルームに残された他の患者たちがパニックを起こさないよう、作業療法士や川崎らが「大丈夫、もう大丈夫ですよ」と懸命に皆を落ち着かせる。織本はすっかり落ち込んでしまっていたのだが、彼女を励ましたのは、しかし専門職たちではなかった。

「織本さん、美奈子ちゃんは絶対大丈夫よ」

「もちろんそう信じたいけれど……」

「だって、ちらし寿司おかわりしてたのよ? あんな元気な子だもの、すぐにまた戻ってくるわよ」

織本に声をかけたのは、デイケアに参加していた五十代の女性患者だった。織本はその女性患者の言葉に、はらはらと涙を流した。

「まさか、あなたに助けてもらえるとは、思わなかった。こんなことって、あるのね」

織本が泣きながらそう伝えると、その女性患者ははにかんだ様子で軽く会釈をした。

支援する者と支援される者の間には、本来的には明確な線引きなど存在しない。否、線引きなどしてはならない。人間と人間を隔てるものは、ただ一つ「死」であるし、その「死」でさえも生きることと単純に対極に位置する概念ではなく、生きたその先に「死」が存在するのだ。だから、与えられた命はどんな形であれ「生き抜かなければならない」。なぜなら人間を含めたすべての生き物は、死ぬまで生きるのだから。

いつも傾聴ボランティアとして関わってきた相手から思いがけず励ましを受け、織本は驚きと同時にこのクリニックの持つ信念の根幹――相手をどこまでも信頼する――に触れて、改めて人を信じることの勇気と力を認識した。それはすなわち、このような経験が非常にドラスティックであるにもかかわらず、それを受け止める柔軟さ、しなやかさが彼女自身にあったということを意味する。

「そうね、私が泣くのは、お門違いよね」

織本が涙を拭うと、女性患者は明るい表情で頷き、「洗い物、済ませちゃいましょ」と促してシンクに向かおうとした。そこへおどおどした様子の山下がちらりと視線をよこしたので、織本はこう言葉を投げかけた。

「あなた、もしかしてご自分を憎んでいるの?」

「えっ」

虚をつかれた表情の山下に、織本は畳み掛けるように言葉を続ける。

「命に価値無価値の尺度はないの。だって全部尊いんだもの。あなたはもっとそのことと、自分の寂しさを知るべきよ」

「……寂しさ?」

「寂しさに飲まれては駄目。弱さを言い訳にするのは情けないことよ」

完全に織本のペースに持っていかれた山下は、継げる二の句を失う。先ほどまで目の前で血を流しつつも微笑みすら浮かべていた少女の姿が、まぶたに焼き付いて離れない。

「でも、あなたはまだ若い。いくらでもやり直せるわ」

「えっ」

「こうあらねばならない、なんて抑圧よ。思い込みとでもいうのかしら。それにがんじがらめになって、自分を傷つけなくてもいいのよ」

織本の言葉は、長い人生をたおやかに生き抜いてきた人間のものであり、包みこむようなあたたかさに満ちていた。圧倒的なその柔らかさに、山下の意固地が勝てるわけもない。山下はすっかり下を向いてしまう。

「こんな……こんな俺でも、やり直しなんてできるのかな」

力なくもらされた言葉を拾ったのは、川崎である。

「当たり前だ」

川崎は手際よく食器類を片付けながら山下にこう投げかけた。

「勝手に詰むな。詰むなら勝手にしろ。別に甘えんなとも言わない、俺にそんな筋合いはないし。ただ、お前が本気なら、前向きに考えてやるよ」

川崎は台所用スポンジを手早く動かしながら、一流レストランの厨房という戦場で養った鋭い視線を山下に向ける。

「学歴だとかなんだとか、そういう外付けのステータスの一切通用しない世界だから、覚悟は必要だけどな」

「川崎さん——」

「お前に包丁の正しい使い方を教えてやるよ。『一番弟子』って、めっちゃクールな響きじゃね?」

***

素足で廊下に出ると、真夏にもかかわらずひんやりとした感覚を得た。それでも爪先はじんじんと熱を帯び、一歩進むたびに鼓動は強く打つ。

生きている、いや生かされている。そのことを、誰にどう贖えばいいのだろう。わからない、わからないけれど自分はこうしてここで呼吸をしている。

(数えようか、此岸の夕暮れの虚しさを。そうしてモザイクをかけ続けるんだ、ありとあらゆる生きづらさに。)

処置室では緊迫した空気の中で木内の指示のもとで看護師達が的確に動いたこともあり、美奈子の容態はなんとか安定しつつあった。

意識こそ戻らないものの、疲労ゆえの睡眠だと判断した木内は胸を撫で下ろし、自分以外の医療スタッフに元の持ち場へ戻ってもらい、美奈子の横に腰掛けて深く息を吐いた。

処置室は診察室とは隔離された場所にあるため、直接外の風が吹き込むことはない。それでも木内が頬に空気の流動を感じたのは、「彼」が扉を開けたからだ。

ベットに横たわる彼女の腕に繋げられた管から、彼の血がゆっくりと注がれている。その様を見た彼は、瞠目する木内にこう告げた。

「やっぱり、この子だった」

「裕明、体調はもういいのか」

「僕が最後に手をかけるのは、やっぱりこの子だったんだ」

「それ、どういう意味だい」

「僕の血を使ってるんでしょ」

「そうだよ」

裕明は、その切れ長の両目いっぱいに憂いを湛えながら、口角を上げた。

「その子は、知ってしまうよ、何もかも。もしも耐えられなければ、壊れてしまう」

「え、なに、よくわからないんだけど」

木内の戸惑いにとどめを刺すように、裕明ははっきりとこう宣告した。

「この子は知ることになるんだ。僕が多重人格者にならざるをえなかった原因の何もかもを」

第二十一話 慈愛の罠(七)刃

「忘れ物だ」

開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた青年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。

「君は……」

若宮が若干あきれた表情で木内を見やる。

「『中途半端』は、お前の一番嫌いな言葉じゃなかったか」

「どういう意味だ」

「そのままの意味だよ。こんな大物ほったらかしにして、何のんびり田舎暮らしエンジョイしてんだよ」

青年——裕明は、木内の顔を目にした途端に、大きな声で

「パパぁ!」

と呼びかけた。

「え?」

「この通りだ」

若宮は鋭い視線を木内に投げつける。

「あの病院にいた医師はみんな匙を投げた。施設のほうも、入所延長措置を放棄したよ。この子は、お前の言うところの『本物の孤独』だ」

「パパ! ねぇパパ、ここは、どこなの?」

崩れ落ちそうになる両足をどうにか堪えて、木内は無邪気に駆け寄ってきた裕明を抱きしめた。裕明は手足をバタバタとはつらつに動かして喜びを爆発させる。

「……ごめんな……」

木内がどうにかそう伝えると、裕明はありったけの力で木内の肩を抱きしめ返した。人格こそ五歳児であるが、あくまで腕力は青年のそれである。

「痛い、いたたた、痛いって」

「えへへー」

木内は裕明の伸びすぎた前髪をかき上げてやると、その無垢な瞳に柔らかく言葉をかけた。

「ここは、お前の家だよ」

「わーい!」

「おかえり、秀一」

***

彼が今両目に灯している暗い燈火は、間違いなくかつての殺人鬼のそれである。彼はためらいなく美奈子の顎に手を添え、彼女に口づけを迫った。美奈子が拒絶すると、彼は短く乾いた声で笑い声を上げた。

「雪、本当に君はかわいいね」

「からかわないでください」

「俺が君の前で、本気以外で生きたことがあったと思う?」

「……」

七日間だけ地上に出て命を燃やすことを許された蝉たちは、もしかしたら知っているのかもしれない。一分一秒とて、命に無価値な瞬間などないということを。無知蒙昧な人間たちに、それを伝えるために、彼らはあんなにも悲壮感に溢れた声を絞り出すのかもしれない。

時折、その悲鳴たちが消える刹那が訪れる。その一瞬の沈黙に彼が油断するのを狙いすましたかのように、美奈子は精一杯の力で彼を突き飛ばし、白い部屋を飛び出した。

やはり蝉たちは何もかも知っているのか——一斉に鳴きやみ、風まで凪いだ。

美奈子が無我夢中に走って廊下まで出ると、あおいが山積みの書類を携えて外来棟から歩いてくるのが見えた。あおいはひどく驚いて、書類ごと小さな体を跳ねさせた。

「あー、美奈子ちゃん! どこに行ってたの? 院長が心配してたよ」

「すみません。私、木内先生に謝らなきゃならないです」

「え、なんで?」

あおいが首を傾げる。

「わかりません」

「なんじゃそりゃ。岸本さんもなんだか元気がなかったしなぁ。今日はそういう日なのかな。仏滅だしね、よく知らないけど」

「あおいさん、私、人を傷つけてしまいました」

「ん?」

「だから、本当は謝らなきゃならないのに、私……」

その場にしゃがみこんだ美奈子が途端にほろほろと泣き出すものだから、あおいはますます困ってしまう。

「あー、えっと、よくわかんないけど、わかんないからまあいいや。こっちおいで、お腹すいてない?」

あおいの問いかけに、美奈子の腹が弱々しく返答する。

「オッケー。今日はデイケアの午前のプログラムでちらし寿司を作ったの。みんなで食べようよ」

しかし美奈子は首を横に振る。

「私に、ちらし寿司を食べる資格なんてありません」

なおも泣く美奈子に、あおいは「もー」とため息をついた。

「じゃあ、ちらし寿司は嫌い?」

「まさか」

「ふぉふぉふぉっ、ではおぬしに、『ちらし寿司検定3級』を授与しよう」

「なんですかそれ」

「ちらし寿司のおかわりが一回まで可能な資格」

「えっ、一回!?」

「今日は割とがっつりと管理栄養士の川崎さん監修だからなー、めっちゃ美味しいだろうなー」

「そんな……」

「ほらほら、悔しかろう」

「2級になるには、一体どうしたら」

「そうだな。じゃあ、あとで一緒に、院長に謝りに行くことを約束しようか」

あおいがニカッと笑うと、美奈子は「ありがとうございます」とこうべを垂れた。

***

「僕、いけないことをしました」

木内と岸本の姿を見るなり、裕明は懺悔をするように、また力なくうな垂れるように頭を下げた。白い壁面に体をだらりともたれかけさせており、伸びすぎた前髪が涙のせいで濡れている。

木内は、裕明に静かに歩み寄った。

「何があったのかは、訊かないよ。裕明が自分で話したいと思わない限りは」

木内がそう声をかけると、その隣で岸本も優しく頷く。それでも裕明の声色はなおも暗い。

「僕、アタマだけじゃなくてカラダもおかしくなってしまったみたい。もう二度と、この部屋から出ちゃいけないんだって、思い知らされたんだ」

「うん、そっか。でもじゃあ、困っちゃうな」

「何が」

「お前がここから出なくなってしまったら、玄関の花たちの世話は誰がするんだい?」

「僕なんかに触れられたら、きっと花たちだって汚れてしまうよ」

木内はいつも裕明が使っているロッキングチェアに腰を下ろした。

「裕明。人間ってそもそも、美しい?」

「……ううん。全然違うと思う」

「だね。自分も同意見」

岸本の、裕明の漸くの破瓜の形跡としての脱衣を手際よく拾い上げた時の「洗濯しておくね」という言葉に、裕明は顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

しかし岸本はゆっくりと、萎れかけた花に水を注ぐような優しさで「謝ることじゃないよ。自分では驚きはしたかもしれないけれどね」と片手で裕明の頭を優しく撫ぜた。

「誰しもが通る道だからね。裕明、あなたの場合、それがちょっといびつな形だった。でも、それだけだよ」

岸本は裕明にそう伝えてから、一度だけ彼の瞳をじっと見つめ、微笑みを残して部屋を去っていった。

『でも、それだけ』。

そっか。それだけ、か。

「なぁ裕明。お腹すかない?」

木内は裕明のすべてを包み込むように声をかける。

「今日の昼ね、スペシャルなんだ。元ミシュラン2つ星シェフ川崎さんプレゼンツのちらし寿司」

――僕は、誰から許されようとしているんだろう?

「ちらし寿司ってさ、仕上げは刻み海苔もいいけど、そうそう、川崎さんから教わったんだけどね、粉山椒をひと振りしてやると、風味がぐっと引き締まるんだって」

僕は、誰に、謝っているんだろう?

「具材はね、奥多摩産の山菜と早採れきのこ。最高じゃない?」

誰に謝っているのか、そんなことすらわからずに、弁解の言葉ばかり浮かんでくる、自分の浅ましさが、本当に嫌です。

(知った顔をしないで。あなたは誰よりも愚かで、誰からも必要となんてされていないくせに、あんな醜態を晒してまで、まだ生きているじゃないの)

「……」

(生きているじゃないの。あなたは、生きているじゃないの)

「うるさい……」

(子守唄なら歌ってあげるよ、地獄で)

「……うるさい……うるさい……」

(堕ちろ、さっさと)

「裕明?」

木内が裕明の異変を察し、素早くロッキングチェアから身を起こすと彼を支えるようにしてその背中を優しくさすり始めた。それでも、裕明の中で沸き立つ過日の悲鳴の残響が彼を激しく責め立てるのをやめることはない。

(助けて、助けて、お兄ちゃん。苦しいよ)

裕明はもたれかかっていた白い壁を、怪我を負っている左手で強く殴打した。そんな様子を木内は決して咎めることなく、懸命に寄り添い続ける。

「深呼吸、できるかい」

「うるさい……うるさい」

「裕明、大丈夫だ。何も怖いくないよ」

(助けてよぉ)

「うるさいっぁぁああああ!!」

時計の秒針、差し込む陽光、吹き抜ける風、何もかもが、何もかもが自分に襲いかかってくる――そんなわけは、ないのだけれど――そんな感覚に陥った裕明の姿を、それでも木内は直視しないわけにはいかなかった。

「裕明、大丈夫だ。僕はここにずっといるよ」

(私たちもずっとここにいるよ)

「黙れ、黙れよ! 黙ってくれよ!!」

「裕明、誰が何と言おうと僕はお前を愛しているよ」

「ああああああーッ!」

木内はたまらなくなって裕明を強く抱きしめた。裕明の苦しみは自分には決してわからないけれど、わからないからといって見捨てることと知ったつもりになるかのことは脈絡がまるで異なることを、よく理解しているからだ。

裕明の中で大合唱が起きている。それは、「彼」に殺された者の悲鳴であったり、「彼ら」を殺した者の笑い声であったり、あるいは全てを生み出し統べる「名もなき戯れ」の嘆きであったりして、どこまでも残酷な不協和音を奏で続ける。

脳とは小さな宇宙だという。裕明のそれは今、あまりにも開かれすぎている。あらゆる痛みや苦しみを飲み込んで、果てなく膨れ上がり、彼の自我をみるみる侵食するのだ。

木内には痛いほどわかっていた。裕明に対して、既存の精神医学というものが何の役にも立たないことは。それでも、そばにいてほしかった——そばに、いたかったから。

彼の前では、医師などではなく、一介の人間としているべきだと思った。木内は裕明がぼろぼろと流す涙を節くれだった親指で拭ってやる。

「そうだね。つらいね」

やがて興奮状態から錐体状に落下させて糸の切れたパペットのようにふつと意識を手放した裕明を、木内はどうにかかかえてベッドに寝かせた。

「恋は極上の劇薬、か……」

裕明の頬には、一筋の涙が伝っていた。

***

「ごちそうさまでしたー」

「美奈子ちゃん、食べっぷり最高だね」

奥多摩よつばクリニックの管理栄養士にして元都心の高級2つ星レストランで修行経験のある川崎弘毅が、感心した様子をみせた。美奈子は誇らしげにカラになった茶碗を掲げる。

「粉山椒のアクセントがいいですね。きのこの風味を見事に引き出しています」

それを聞いたデイケアボランティアの女性、織本が「美奈子ちゃん、食レポうまいわねぇ!」とはやすと、その場が和やかな笑いに包まれた。織本はこの近所で独居している高齢女性で、このクリニックとの出会いによって居場所を得た一人である。

その笑いの輪から一人外れて、終始つまらなそうにちらし寿司をつついている青年がいる。岸本に襲いかかろうとして裕明——いや智行にやり込められた件の大学生、山下一久だ。

自慢の料理を不機嫌につままれてはたまったものではない。川崎は「山下くーん」と声をかけた。

「料理ってね、雰囲気もコミコミでの味なんだ。そんな顔されたらちらし寿司の風味に差し障るんだよね〜」

川崎もまた、都心での競争や足の引っ張り合い、見栄の張り合いに疲れてこの地に活路を見出すべくやってきた一人だ。ちなみに奥多摩クッキーフォーチュンズでは3番捕手を務める。

川崎はポケットから小さな瓶を取り出すと、「山下くんにはコレ、特別にどーぞ」と青年の皿のちらし寿司に粉末を振りかけた。伝家の宝刀、乾燥トリュフである。

「そんな暗い顔してちゃ悲しいな。せっかくのミシュランちらし寿司が泣いちゃうよ」

「……くだらねぇ」

「ん?」

「他のやつらはみんな、ガッコー行ったりカノジョ作って好き放題してんのに、俺はこんな場所でおままごとだよ。ほんと笑えるし」

「おままごと、ねぇ。別にどう言おうといいけどさ、イキるのは自分で炊事家事ぜーんぶ自分でこなしてからにしなよ」

山下は川崎を睨みつけながら黙って席を立つと、シンクの中からまだ洗っていない包丁を粗雑に手に取って「っるせえ‼︎」と喚きながら振り回しだした。

周りのデイケア参加者たちは一様に青ざめてしまう。だが川崎は山下の蛮行そのものよりも、大切な調理道具で人を傷つけようとする行為に怒りを覚えた。

「いちいち説教たらしいんだよ‼」

「調子づくなよガキが。自分が何してるかわかってんのか?」

「わかんねぇよ、何にもわかんねぇ。もうどうでもいい!」

「ふざけんな!」

立腹した川崎が、山下の腹の懐へ利き手と逆の左手で作った拳を躊躇なく突っ込ませる。その衝撃でしたたかに体を壁面にぶつけた山下の手から、包丁が宙を舞って飛んでいく。その放物線の先にいた織本が声も上げられずに目を閉じた――刹那、一つの影がその女性を凶器から護るように覆いかぶさった。

「アッ……!」

織本も、デイケアに参加していた他の患者も、川崎も、山下さえも絶句した。

「美奈子ちゃん!!」

川崎が顔面を蒼白にして叫ぶ。とっさに織本をかばった美奈子の右腕を、包丁がかすめて、彼女は流血していた。

第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛けたまま一編の詩をよどみなく朗読し始めた。

並木の梢が深く息を吸って、

空は高く高く、それを見ていた。

日の照る砂地に落ちていた硝子を、

歩み来た旅人は周章てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、

金魚や娘の口の中を清くする。

飛んで来るあの飛行機には、

昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、

私は嘗て陥落した海のことを

その浪のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊や上肢の運動や、

下級官吏の赤靴のことや、

山沿いの道を乗手もなく行く

自転車のことを語ろうと思う。

「中也の『逝く夏の歌』ですね」

彼が語り終えるやいなや、美奈子はそう答えた。彼は目を細めて風に頬を預けつつ、「さすが、雪は聡明だね」と美奈子に微笑みかける。しかし、それに対して美奈子は凛として言葉を投げ返した。

「私はユキじゃなくて、美奈子です」

「名前とは、そもそも『意味』を成すと思うかい」

「どうでしょうね」

彼は声を上げて笑った。美奈子はまっすぐに彼を見つめている。彼はこちらを試すように冷たい視線を突き刺してくるのだが、それでも、美奈子は怯まなかった。それどころか退く理由がまるで見つからなかった。

私は、今さっきまで、あなたの体温を感じていたんだ。

美奈子と彼は少しの間、沈黙をもって対峙した。二人の間に割り込むのは、蝉たちの喚声ばかりである。美奈子は、渇き切った喉をどうにか潤そうと一度だけ唾を飲み込み、彼にこう切り返した。

「じゃあ、『雪の賦』は?」

すると彼は一瞬だけこちらを射るような視線を送ったのち目を閉じて、やはり余裕すら感じさせる口調で朗々と、中也の詩を口からこぼしはじめた。

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾の頃にも降った……

幾多々々の孤児の手は、そのためにかじかんで、

都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

ロシアの田舎の別荘の、矢来の彼方に見る雪は、

うんざりする程永遠で、雪の降る日は高貴の夫人も、

ちっとは愚痴でもあろうと思われ……

雪が降るとこのわたくしには、

人生がかなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

彼の朗読を吟味していた美奈子は、真剣な表情で一度だけうなずいた。

「幾多々々の孤児の『手』は、ですか」

「雪、これは君の詩だ。俺が一言一句間違えるわけないだろう」

彼はおもむろに立ち上がると、美奈子に軽やかな足取りで歩み寄り、彼女の流れる髪をひとすくいする。それでも美奈子は気持ちを固まらせることなく、彼の挙動と言動をじっと待った。

彼はどこまでも深い悲しみを隠すことなく、まるで中也の詩の続きを紡ぐように「約束したよね」と前置きしたのち、こう告げた。

「俺と君は、必ず結ばれるって」

***

「恵美さんを疑いたいわけじゃないけど、その話は本当なの?」

診察室でボールペンを走らせながら木内が問うと、岸本はうなだれて首を横に振った。

「嘘だったらどんなにかいいかと思う。けれど、現実は現実なの」

「そっか」

木内はマグカップの中の冷えた緑茶を、喉を鳴らして飲み干した。

「ハリー・スタック・サリヴァンは『人間には対人関係の数だけ人格が存在しうる』と遺しているね」

「それが何か?」

「僕は患者さんたちの前では、どんなにありのあまでありたいと願ってもどこかで医師の人格を纏う。恵美さんの前では無防備なおじさんだ。奥多摩クッキーフォーチュンズのキャップをかぶれば、走攻守の鬼になる」

「自分で言うんだね」

「それって、なんでだと思う?」

「えっ」

木内はカラになったマグカップの底を見つめ、そこに息を吹きかけた。

「みんなそれぞれ、守りたいものがあるんだよ。それは間違いない。それが精神病者であれ、医師であれ、ソフトボールプレーヤーであれ、多重人格者であれ」

「……それは、看護師であれ、母親であれ、同じことね」

木内は午前の診察時間の終了を知らせる置時計の秒針が訥々と12時半を指したのと同時に、椅子から立ち上がった。

岸本はほとんど独り言のように、ぽつりと声を漏らした。

「いつかこんな日が来ると……思っていたわ。わかってたよ」

力なく壁にもたれかかる岸本の肩に、木内が優しく手を添える。

「それ、僕も同じ。いつまでも続くわけがないと思っていたし、続いちゃいけないんだってわかってた」

両手で顔を覆う岸本を、木内はどこまでもあたたかく抱きしめる。岸本が泣き始めるのに、ほとんど時間は要さなかった。そんな岸本の姿を見た木内がつらくないわけがない。

それでも、彼は岸本にこんな言葉をかけた。

「恵美さん。けじめって、つけるためにあるんだと僕は思うよ」

***

季節が何度巡り去っても、木内と岸本の胸に穿たれた深い傷を埋めるものなど何処にも存在しない。癒してはならない傷があるということを、この二人が苛烈な悲しみと共に身に刻んだのは、今から十数年前、木内がまだ都心の精神科単科の大きな病院で若くして医局長を務めていたときのことだ。

クリスマスが近いせいか、街全体がどこか浮き足立っていた、そんな時季の出来事。その時のことをつまびらかに語ることはしたくないし、できないとも二人は考えている。

命とはかくも儚く、どこまでも尊く、取り返しのつかない事象がこの世界には満ちていることを二人は理解せざるを得なかった。

いっとき、精神的に不安定になった岸本に、しかし木内は精神安定剤の類は処方しなかった。薬で緩和することは、亡き息子——秀一との思い出もぼやけさせてしまうと判断したからだ。

だが、個人がどんな事情を抱えていようと、世間の預かり知るところではない。そうした脈絡に血が通わなくなって久しいことは、弔事休暇が明けてまもなく、クリスマスイブに岸本に夜勤のシフトが回ってきたことでも証明されている。

精神科病棟には「精神科特例」といって医師と看護師の配置が他科の三分の一でよいとする悪しき決まりがある。そのせいで患者が劣悪な処遇に晒される可能性が高くなるのはもちろんのこと、病棟で働く職員の負担も恒常的に過重となっている。心身に不調を訴え、辞めていく者も続出することは想像に難くない。

開放病棟の看護師だった岸本は、その時の夜勤時、午前三時過ぎに不眠のためにナースステーションへやってきた女性患者に頓服薬を渡した。女性患者は小さく頭を下げ、「これで眠れそうです」と礼を述べて病室へ戻っていった。

あんな小さな錠剤一つで、本当に楽になれるのなら。そんな考えが頭をよぎった。

日勤を終えた木内が帰宅後、激務の後にも関わらずどうしてもその日眠れなかったのは、もしかしたら亡き息子が導いてくれたことなのかもしれない。今でこそ本人たちもそう思えるが、この時、木内は言いようのない悪寒と不安にかられ、ベッドに横になってもどうしても入眠することができなかった。気がつけば、自宅電話の受話器を上げ、岸本が夜勤中のはずである病棟の内線の電話番号を押していた。

電話に出たのは、岸本ではなく、彼女とペアを組んでいる若手の看護師だった。

「こんな時にすみません。もしかして岸本は今、仮眠中ですか?」

「えっと、その」

口ごもる看護師に対し、木内は反射的に唾を飲み込んだ。それはほとんど、勘としかいいようのないものであった。

「なにか、あったんですね」

「なんで、どうして、おわかりに?」

「なにが、あったんですか」

動揺していた看護師は、電話口の木内に気圧されてこんなことを口走った。

「当直の片岡先生が、応急処置はされましたが——」

その言葉を最後まで聞くことなく木内は電話を切り、寝巻きからジーパンとセーターに乱雑に着替え、リビングに放置されていたダウンを椅子から奪うようにして羽織り、岸本のもとへ急いだ。

馬鹿だな、なんて責めなんてしないよ。

そうだよね、そうだよね。

僕だって、そりゃあ死にたいさ。

終電はもうないので、木内はママチャリで夜道をひたすらに速度を上げて走った。こんな姿を大学や病院の同期が見たなら、とんだ無様だと笑いぐさとされたことだろう。けれど、そんなことは木内にとって既にどうでもいいことだった。

前かごには、秀一が乗っていたチャイルドシートがそのまま付いていた。まだどこかで、ひょっこり秀一が帰ってくる気がしてならなかった、好きなポケモンのイラストがうまく描けたと自慢げに、頬を赤くして誇らしげに。

君を守れない自尊心なら、そんなものはいらない。

軽すぎた。あるじを失ったチャイルドシートがクリスマス寒波に凍てつき、何度となく軋みを上げた。この時の木内には、それが秀一の泣き声に聞こえてしまって、だから真夜中の国道をママチャリで激走する木内の両目からは、止め処なく涙が溢れていた。物理的に拭えなかったし、拭いたくないと思った。

ごめんな。守ってやれなくて、ごめんなさい。

抗精神病薬は過剰摂取ではなくとも、思考の抑制や極端な高血糖と低血圧などをもたらし、当然ながら心臓はじめ内臓にも相当なダメージを与える。人によっては疾患そのものではなく、薬剤によってその後の生活に大きな支障を遺すケースも多いことは、あまり社会に認知されていないことではないだろうか。本来必要のない人が飲んでしまえば——たとえそれが苦しみからの逃避を望んでのことだとしても——さらなる苦しみの呼び水となることは間違いない。

意識を取り戻した岸本の視界に、こちらをじっと見守る木内のまだ涙の跡の残るふやけた笑顔が入ってきた。まだ抗精神病薬の副作用が抜けきれていないために明瞭に言葉を発することは叶わなかったが、岸本は懸命に唇を動かして、「ごめんなさい」と発声した。木内は首をゆっくりと横に振る。

「私……看護師失格だよね」

そんな岸本に対し、木内は精一杯強がってニヤリと笑いかけた。

「その理屈が通るんだったら、僕は君のパートナー失格だ」

木内がベッドに横たわったままの岸本の頬に手をあてると、岸本は声を必死に殺して嗚咽しはじめた。そんな岸本の姿に、木内はひどく胸を痛めた。

「泣きたい時くらい、思いっきり泣けばいいじゃない」

「……そんなことしたら、寝てる患者さんたちがびっくりしちゃう……」

木内の手が、今度は岸本の髪をくしゃりとなぜた。

「君は、本物のプロフェッショナルだ」

「……わかんない」

「でもさ、窮屈じゃない?」

木内は処置室の小さな窓から破片のように見える夜空を指さした。下弦の月は、半分しか確認することができない。

「あー、僕もめっちゃ叫びたい。あーとか、わーとか、なんでもいいからもう、あの月に向かって。それも満月がいいな。まんまるいのを拝みながら、うがーって叫びたい」

「なに、言ってるの」

岸本がようやく小さく笑ったのを見て、木内は意を決してこう切り出した。

「恵美さん。ここ、やめよっか」

「えっ」

木内は口笛でも吹くかのような軽妙な口調で、ずっと胸の内であたためてきた提案を岸本に伝えた。

「自然がいっぱいな場所でさ、ログハウスを建てるの。で、そこで小さなクリニックを開くのね。君は看護師長。できるだけ運動神経の良さそうなスタッフも何人か入れたいと思うんだ。クリニックの入口には恵美さんの好きな季節の花を植えよう」

「え、なに?」

「精鋭メンバーが必要なんだよね。僕の長年の夢の実現のためには」

「まさか……」

「チーム名は、恵美さん考えてよ」

木内と岸本は、おでことおでこをくっつけて、それから一緒に泣き出した。互いの涙を交わしても、互いの悲しみがほどかれることは決してない。それでも、二人はずっとそうしていた、そうしたかったから。もしもその宵、仕事中のサンタクロースがその光景を見ていたら、赤面していたかもしれない。

二人はその後揃って病院を退職した。院長には「この先もうお前に出世の余地はないぞ」と脅されたが、木内が「ちょうどいいです」と返したことを、実は岸本は知らない。

都心のマンションを引き払って奥多摩に移り住むにあたって、破格で売りに出されていたログハウスを買い取り、「奥多摩よつばクリニック」を開業しのは、それから半年後のことである。

***

良くも悪くも、昔から滝行や狐払いなどの民間療法が精神疾患の治療の一環として根付いていた土地柄であったためか、メンタルクリニック開業にあたって特段、地元住民などからの反対はなかった。それどころか、近隣(といっても車で20分は離れているが)の老人保健施設や福祉の作業所などから、開業祝いとして地元名産の野菜などをもらうこともあった。

挨拶とお礼を兼ねて岸本がクッキーやマフィンなどを焼いて訪問すると、それが非常においしいとまたたくまに評判となり、奥多摩よつばクリニックと地域との繋がりは、ポジティブかつしなやかな形で生まれることができた。それはもちろん、現在もなお力強く続いている。

開業当初のクリニックは、地域の高齢者、引きこもりや不登校の青少年などが集ってお茶とお菓子をつまみながらおしゃべりを楽しむサロンのようであった。わずか十床というベッド数は、二十を超えると医院ではなく病院とされてしまい手続き等が煩雑であるという理由もあったが、それよりは、利益よりも患者一人ひとりとじっくり真剣に向き合いたい、丁寧な処遇を提供したいとを考えたとき、木内と岸本が「限度」と感じた数なのである。

ある雨の六月、木内の大学時代のソフトボール仲間でその当時、警視庁捜査一課で刑事をしていた若宮が、突然クリニックを訪れた。真っ黒なジャージに身をくるんだ、一人の少年を連れて。

第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙を擦り合わせたような鳴き声も、今の二人には優しく感じられた。

美奈子は木内の癖字を丁寧に目で追った。ページをめくるたびに彼の過去を一つずつ知る。その動機は決して軽薄な好奇心ではなく、純然たる恋慕であることに、美奈子は未だ気がついていない。

かたや、クロッキー帳の上で鉛筆をぎこちなく動かしている裕明も、なぜ自分の鼓動が強く打つのか、美奈子の横顔を写生する手がどうしても止められないのかが自分でも理解できずに、強い戸惑いを覚えていた。それでもクロッキー帳に彼女の面影が浮かび上がっていくことに、喜びを感じているのも事実であった。

克明に記された裕明のカルテは、診療記録というよりは木内の日記のようであった。字こそ読みにくいが、どこか見守るような優しい筆致で裕明のこれまでが綴られている。

キャッチボールをした。裕明はボールを投げるときは左手を使うのだとはじめて知る。聞けば、施設で左利きを右に矯正されたとこと。ここではそんな必要がないことを伝えると、裕明は驚くほど遠くへ白球で放物線を描いてみせたので、奥多摩クッキーフォーチュンズで外野手をやってみないかと誘うも、はにかんで首を一度だけ横に振るに留まった。

美奈子の白い指が、次々にページをめくっていく。

恵美さんの昔からの親友、メイさんがこの町に店を開くという。てっきり占いの館でも始めるのかと思いきや、なんとスナックとのこと。店の看板を裕明に描いてもらったらどうかとメイさんに提案すると、とても喜んでくれた。りんどうは紫色なので、恐らく大丈夫だろうと思う。もうすぐ最盛期だ、楽しみがまた増えそうだ。

一つを知れば、もう一つが知りたくなる。一を手にすれば十を欲し、十が得られれば百を望み始める……果てのない、それは間違いなく、純然たる欲求であった。

裕明の誕生日。恵美さんがホールケーキを焼いてくれたけれど、裕明はそれを口にしたがらなかった。自分の誕生日が、秀一の命日だと知っていたからかもしれない。気にせずに食べましょうと恵美さんが声をかけると、裕明の視線が固まり、十秒ほどの沈黙ののちに、人格を秀一に交代させた。随意での人格交代は不可なはずなのに、きっと裕明の優しさがこの日に秀一を呼んでくれたのだと信じたい。三人で、ケーキは完食してしまった。

裕明もまた、スケッチブックに少しずつ美奈子の姿が浮かび上がっていく、その光景に視界を預けているうち、制御しがたい情動に襲われ始めていた。

鈍い熱とともに脚の付け根付近がにわかに震え出す。度し難い「それ」は、しかし他ならぬ生存の肯定でもあるため、無碍に拒絶ができない。故に彼は身を委ねるほかになかった。

しかし「それ」は彼にとって恐怖でしかない。彼は反射的に背中を丸めて目をかたく閉じた。

(生まれておいで)

(私が許す)

(人殺し!)

(生まれておいで)

(私が認める)

(お前は、自分を殺したんだよ)

(嫌だ、嫌だ、嫌だ、)

彼はまぶたの裏に滲む世界に耐えきれなくなって、やむなく瞳を解放した。必死に鉛筆を握りしめ、クロッキー帳を怪我を負っている左腕で支え、どうにか現実にしがみつこうとする。しかしながら、それは叶わぬ願いである。なぜなら、「彼」が己の実存可能性の低さを示唆する黒点と成り下がる時、(自分では認めたくない)人間の本質に臨むことを彼は決して拒絶できないからだ。

呼吸が徐々にちぐはぐになっていく。彼はそれを彼女に悟られまいと、頭を何度も振った。

つまるところ、彼は人格の座を「彼」へと手放す瞬間、あらゆる抑圧から解き放たれて、底の無い快楽に溺れるのだ。その窒息(或いは抵抗)の結果として、無意識の檻に自ら駆け込むがゆえ、彼は自らの主体的な体験としての充足を未だ知らない。

知らないことを知るというのは、既に知ってしまった人間にとっては想像のつかない障壁なのだ。

彼は背筋と太もも近くにほとばしる「騒めき」に耐えきれずに声を漏らした。驚いた彼女がカルテから目を離して、背中を丸める不自然な姿勢の彼の顔を覗き込む。彼女が彼を気遣う言葉をかけてくれても、それに応答することがどうしても彼にはできなかった。

死ぬことを「逝く」と表現するのは、それが一つの終わりと同時に始まりを意味するからなのかもしれない。人が繰り返し衝動に魂を削られながらも「それ」を求めることを避けられないことが、生きることの究極的な目標が「逝くこと」であることの一つの証左といえよう。

彼は体を強く丸めて自意識をを守ろうとした。しかし、快感の奔流が大きな口を開けて強大な引力で彼を手招く。彼はそれに抗えない。彼は懸命に左腕を宙空に突き出し、彼女の瞳を描くイメージでその指先で何度も弧を描いた。彼女のつぶらで透き通った瞳に、どこまでも深い優しさをたたえる女神の幻影を求めていたのかもしれなかった。そして右手で、猛るその場所を必死に押さえつけようとする。

彼女は彼の突然の異変を訝しみつつも、彼の傷ついている左手を包み込むように両の手で胸元へ引き寄せた。その体温が直に沁みてくると、彼の中心はいよいよ欲望を帯び脈を覚えて彼の思考を支配し始めてしまう。

(どうして、自分が「いること」なんて、いちいち確認したがるの?)

ごめんなさい、わかりません。でも、僕は確かにここにいていいんだって、「あなた」に認めて欲しかった(それだけ、です。)。

彼女は顔に彼に対する心配の気持ちを素直に表出し、自分の右手を彼の額にあてがった。少しだけ汗ばんでいるそこに触れると、彼女の右手はじんじんと疼く。そのことで、彼の動悸はいよいよ誤魔化しきれなくなってしまう。

彼女は、彼に熱はなさそうだと判断したものの、どこか火照っているようにも感じられたので、どうしたものかと首をひねった。すると、彼女の目に、彼が下腹部を主張させているさまが飛び込んできた。

驚きは、した。けれども、それ以上に、今まで経験したことのない、不可避な大波が押し寄せるがごとく、彼女の中に彼への強烈な慈しみの気持ちが湧き出してきた。

彼女は考えるより先に、自分の腕の中で小さく震える彼を抱き寄せた。そうする以外の選択肢がまるで見つからなかった。彼は、許しを乞う子どものように涙を溢していたのだから。その姿は彼女の目には、ひたすらに愛おしく映った。

彼は太ももから下を小刻みに震わせながら、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」を繰り返す。彼女はあらゆる文脈や説明責任といった抑圧の鎖を軽やかに超え、今この瞬間の彼にかけるべき最適解の言葉を、体温とともに伝えてみせた。それは、もしかしたら奇跡の一種だったかもしれないし、出会った二人に当然訪れるべきだった場面だったかもしれないし、何一つ誰からも責めを受けることもない出来事なのかもしれなかった。

「あなたは、何も、悪くない」

その言葉を耳にした彼は、ぎこちなく、しかし確かに彼女を左腕で抱きしめ返した。その両目からはとめどなく涙が流れ続ける。右手は、一つの結果に向かうためだけに、もはや動きを止めることはできなくなっていた。

許されてはならないんだ、僕は。こんなふうに抱きしめられて人の温もりを……気持ちを感じてはならないんだ。

それでも、今ここでこのまま、彼女に受け止めてもらうことができたなら。そんなことを考えてしまう。

思考はそれ以上は意味を持たなかった。抑制の放棄を許された彼は、乱れてゆく呼吸が、このままいっそ止まってしまえばいいとさえ強く願った。それと同時に、「抗えないのなら、抗わなければいい」ことも、身体が理解していた。

無防備に幾度となく漏れてしまう己の声が、この世で一番醜いもののようにも感じてしまう。

こんな姿を晒してまで、生きなければならない理由があるのなら、誰か僕に教えてください。

(苦しいの?)

(夢でも見てろよ)

(一瞬のことだよ)

(全部、幻さ)

嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌なのに……求めてしまう。

そんな彼の戸惑いに引導を渡すような言葉を、彼女は彼に捧げた。

「私が、許すから」

あっけなく果てるその瞬間、彼は大きく目を見開いて彼女の顔を捉えた。彼女は、穏やかな表情で、じっとこちらを見守ってくれていた。

一度だけ大きく腰をのけぞらせ、彼は吐精とともに意識を手放した。

そんな二人に、窓辺から遊びにやってくる風は、変わらずに優しい。彼女はたまらなくなって、自分の腕にもたれかかる彼の、うっすら汗の浮かんだ額に唇を添えた。

彼女もまた、彼に寄りかかるようにして、お互いを支えるような格好で目を閉じた。不思議な心地よさが、彼女の心の中に広がっていた。

そんな二人の様子を見つめていたのは、奥多摩の風だけではなかった。彼の意識の遥か深淵から、過日にこの世を去った一人の男がこちらに手を伸ばしている。

お前が誰に許されようと、俺はお前を決して許さない。お前が大切なものを得るのなら、そのすべてを必ず壊してやる。お前は、あの日のようにただの無力な傍観者として、幼い舌で血の味を知った罪を「永遠に」償い続けろ。

美奈子が目を覚ましたのは、彼より後のことだった。彼はいつのまにか着替えを済ませており、風の通り道になっている窓辺に腰掛けて髪をそよがせていた。

「あの、お、おはよう……」

ためらいがちに美奈子が声をかけると、彼はどこか神々しさのような違和感をたたえ、両眼を細めながら、美奈子にこう言葉を返した。

「おはよう、雪」

第十八話 慈愛の罠(四)風

それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所ではあったが、それでも二人は、その空気に抗するごとく、不器用ながらも真剣に心を育てあった。

少女——雪は、ちらりと目が合うだけで、顔を赤らめてしまうような純真な少女だった。彼もまた、そんな雪の様子に視線のやり場を困らせ、いつも頬を人差し指でぽりぽりとかくのが癖のような純朴な青年だった。

晴れた日には昼食後の服薬時間から夕食前のわずかなに自由の許された隙間に、男性病棟と女性病棟からそれぞれやってきて、中庭へ向かい、二人そろってすずかけの木陰に腰掛けた。多くの言葉を交わさずとも、ゆっくりと移りゆく中庭の季節の草花を一緒に見るだけで、二人は十分に幸せだった。

他の患者たちが散歩をしたり、ソフトバレーなどのレクリエーションに勤しんでいる姿から一線を画すように、いつも二人は隣り合って座っていた。何を話すでもなく、ただ「一緒に」いた。それだけで、お互いの気持ちは満たされていた。

もしも出会う場所が違ったならと、青年は何度も思った。午後4時半になったら鍵を掛けられるような精神科の病棟の中庭ではなく、もしここが、街中の公園だったなら。

この日も青年と雪は手も繋げずに逢瀬を終えた。それでも、二人を包む風ばかりは優しかった。

それだけでよかった。いや、それがよかった。二人の間には確かに、優しい時間が流れていたから。

風向きが変わり、二人の間に不穏な空気が顔を出し始めたのは、夏の始まりの頃だった。突然、青年の退院が決まったのである。息子の大学への復学を焦った彼の両親が、主治医にむりやり詰め寄るような形で、彼本人になんの相談もなく、退院を決定してしまったのだ。彼の父親は弁護士で、「これ以上息子を閉じ込めるのなら、法的手段も辞さない」と病院を脅してきのだという。

入院から90日以上が経過しており、彼から算定される診療報酬の点数が激減したことで、病院側もこれ以上彼を入院させておくことはデメリットにしかならないと判断したらしかった。病院は彼が退院すれば、新規入院患者の受け入れによって高い点数の診療報酬を得ることができるからだ。そんな身勝手な事情に振り回される形で、二人は引き裂かれた。

追い出されるような形で青年は病院を退院させられた。彼はどうにかすがるような思いで、担当ナースに一通の手紙を託した。そこに彼は、自分の自宅の住所と電話番号を記していた。約束の一つも、したくてもできなかった、せめてもの罪滅ぼしとして。携帯電話のまだ普及していなかった時代、これしか繋がる手段はなかったのだ。

泣くのは、絶対に違うんだと、そう強く自分に言い聞かせた。だって次に逢える時は、きっと街中の公園のベンチや、君の好きなオルゴールのBGMが流れる喫茶店に違いないのだ。

これは、いずれ再び出逢うための「いっときの別れ」にすぎないのだから。彼はそう信じて疑わなかった。

ナースからその手紙を渡された彼の主治医は、「確認」と称して中身を検閲した。蔑みの濃く冷たい視線で内容をさっとなぞると、「有馬雪の治療に支障をきたす」と判断し、看護助手にシュレッダーにかけるよう命じた。

そのような事情を全く知らない雪は、その日も晴天であることを病室の窓から確認すると、作業療法で編んだリリアンのブレスレットを左手首に二重に巻き、ほんの少し頬を赤らめて中庭に向かった。

いつもなら、中庭と廊下の境目あたりで彼の姿を見ることができた。背が高くて、よくジーパンを好んで履いて、紺のスニーカーがよく似合う。トップスはTシャツが多いけれど、時々おかしなプリントのされたデザインを着てきては、私を笑わせてくれる。でも本当はシンプルなポロシャツが好きなことを知っている。今日は、どんなファッションの彼に逢えるだろうか。

しかし、どんなに待っても彼が現れることはなかった。もしかしたら、調子が悪いのだろうか。どんなに心配をしても彼に何もできない自分が、雪はどこまでももどかしかった。

すずかけの木にしがみつくミンミンゼミの声が雪の鼓膜に打ちつけるように響く。自分の無力さを責められているようだった。他の患者たちも、いつもと違ってひとりぼっちで木陰に座る雪を気にかけている様子だった。

雪はひたすらに待った。その日も、次の日も、またその次の日も、雪は男性病棟のほうに微かな、でも確かな気持ちを、暑さと孤独に耐えて送り続けた。

雪の目の前に、果てた蝉の遺骸が落ちて転がった。その夏はあまりにも暑すぎた。少女のささやかな祈りなど容易く溶かしてしまうほどに。

拒食症で骨が露出せんばかりに痩せ細った腕を、雪は空へと伸ばして天を仰ごうとした。見上げたそこには、彼女の腕よりよほど逞しいすずかけの枝が伸びており、ふさふさとした葉が彼女を厳しい陽光から守らんと、悲しげに揺れていた。

彼女に追い討ちをかける悲惨な出来事は、この直後に起きた。細く小さな身で受け止めるには余りにも過分に残酷な事件が己を待ち構えていることを、しかしこの時の彼女に知る由はなかった。

何も悟らないはずの蝉達が、その命を燃やすように壮絶に鳴き上げては次々とすずかけの木からぽろりと落ちて、うつし世に別れを告げていた。その光景は、誰にも届かないという意味で、ひたすらに虚しい予言のようであった。

***

どんな過去があっても人は「今」にしか生きられないのだから、過去を理由にいつまでも足踏みしてはいけない、と教えられてきた。「未来」とは「今」の延長線上にあるのではなく、偶然と奇跡が重なり続けて結晶化したものなのだ、とも。

しかしながら、生きることとはこうした綺麗事や整った言葉で着飾らないと耐えられないほどに生々しく醜いものであることを、裕明は感覚で理解している。

今、目の前に座っているこの子もまた、いつかは必ず逝く。至極当然のことだし、誰だって同じことなのに、裕明にとってはそれがどうしようもなく深い虚しさを胸に去来させることであった。

名前のわからないその感情に、裕明はとにかく戸惑っていた。不安とは全く異なる感覚で、心臓は拍動を強めているのだ。

クロッキー帳に走らせている、鉛筆を持つ手が少しだけ震えた。

「大丈夫ですか?」

裕明の挙動を心配した美奈子が彼の顔を覗き込むようにして声をかける。

「あ、スミマセン。ちょっと、めまいかな」

「それのせいですか」

「え?」

美奈子は裕明の左手に施された包帯に言及した。

「どうしたんですか? その怪我」

裕明は「ああ、これですか」と眉毛を下げて力なく笑った。

「わからないんです。気がついた時には巻かれてました。何人も使っているから、この体はしょっちゅうあちこち怪我をします」

「そうなんですか」

美奈子は、ふと疑問に思ったことを率直に裕明に伝えるために、こんなことを質問した。

「何人、いるんですか?」

「えっ」

それは忌むべきことでも、腫れ物のように避けるべきことでもなく、大切なトピックだと美奈子が感じたからだ。

「どういう表現がいいんだろうなぁ。あの、『何人で』その体を使っているんですか?」

裕明は美奈子を描くその手を止め、少しの間黙り込んだ。やっぱり失礼な質問だったのかなと美奈子が焦りと懸念を感じ始めた矢先、裕明はこう返答した。

「わからないんです」

「えっ」

「そのカラーボックスの三段目に、一冊、ファイルが仕舞ってあります」

「ファイル?」

「僕の、カルテです。そこに書いてあるはずなんです。これまでに確認されている僕の別人格たちのことは」

「え……」

裕明は、美奈子にそれを読むように促した。通常の医療現場では患者のカルテを本人の目に届く場所に置くなどありえないことだ。しかし木内は、裕明への信頼の表明手段の一環として、「裕明のカルテは裕明自身が管理すべきもの」としてこの「白い部屋」に保管しているのだ。

そこにも、木内の「患者との信頼関係を基盤とする」診療方針が如実に現れているといっても過言ではない。

美奈子は最初こそ躊躇したものの、意を決してそっとカラーボックスに手を伸ばし、白い表紙のファイルを取り出した。それは片手ではとても取り出せないほどの厚みがあり、その重さは木内と裕明の歩んできた年月の長さを感じさせた。

ゆっくり表紙をめくると、まず冒頭に裕明の個人情報が事細かに載っていた。誕生年月日や出生地、生育歴などが、筆圧のそんなに高くない、やや判読に時間を要するクオリティーの文字で記されている。このクセ字なら何度も見たことがある、間違いなく木内の筆跡だ。

インデックスで区切られた名前たちに視線を落とす。そこにはそれぞれ「松木智行」「木本秀一」「名もなき戯れ」「その他」と表題がつけられていた。少なくとも彼の中には4人の人格がいるらしい。裕明本人も含めれば5人以上が、一つの肉体に宿っていることになる。

美奈子は食い入るようにカルテを読み進めた。一ページ一ページに裕明の大切な情報が、歩みが、想いが詰まっている。だから、その一言一句を取りこぼさずに心に留めたかったのだ。

美奈子がなぜそんなことを考えるに至ったのか。そこに説明を求めることは、人がなぜ人との繋がりを求めるのかを事細かに解説しようとするのと同じくらい野暮なことだ。

人が人と出会い、深い穴に落ちるよりも速く惹かれてゆくことに対して、万人にとって了解可能な理由など逐一必要ないことを、美奈子は身をもって感じていた。

美奈子の喉元が固唾を飲んでゆっくりと動く。それを目にした裕明はぎこちない手つきでクロッキー帳の新しいページを開き、真白い空間に先の丸められた8Bの鉛筆で、カルテを読み進める美奈子の真剣な横顔をスケッチし始めた。彼を動かしたのは、ほとんど本能の領域の何かであった。彼女の長いまつ毛を描こうとすれば、味わったことのない緊張に、彼の心は宙に浮かされたようにくらくらと揺れる。

まつ毛の毛先のために何度も鉛筆を滑らせながら、人生とはおよそ200万回にも及ぶ選択の連続であると、いつか読んだ哲学書に書いてあったのを思い出していた。あらゆる分岐点を経ながらやがて辿り着くべき人と道が偶さかに交差すること、それを人は「めぐりあい」などと呼びたがることも。

まさに今、裕明と美奈子は大きな岐路に立っていた。二人にその自覚はなくとも、やがて重大な決断を求められる道を、自分たち自らが選んだことを、誰も教えてはくれない。

「白い部屋」の開け放されていた小窓から、優しい風がふうわりと舞いやってきて、二人の頬を優しく包み込んだ。それは「過日の二人」を見守ったそれによく似た色彩をしていることを知っていたのは、庭先で咲むガーベラたちだけであった。

第十九話 慈愛の罠(五)許し

第十七話 慈愛の罠(三)願い

ひとしきり話を終えた裕明は、昂ぶった呼吸を整えるために、長めにため息をついた。

「そういうことなんです」

力なく笑ってみせる裕明に対し、美奈子はあっけらかんと右手を、再度高く上げた。

「はーい、先生!」

裕明の過去を聞いてもまったく変わらない美奈子の快活な態度に、裕明はやや面食らった。彼女のまっすぐな瞳に、やや気圧されてしまっているようでもある。

「……僕は先生じゃありませんけど、なんですか」

「裕明さんは、1ミリも悪くないです」

美奈子がそう断言するも、裕明は首を横に振るばかりだ。

「みんな、そうおっしゃってくれます。傾聴ボランティアさんたちって、みんな優しい方ばかりですから」

「ボランティア?」

「でも、僕が修学旅行を阻止できていれば、あの人たちは死なずに済んだ。その事実は変わらない……だから、僕は人殺しなんです」

「だって、裕明さんにそんな権限がありましたか? なかったじゃないですか。裕明さんはただ、事件を予見していた、しかもそれを教員に伝えていた。できることはしていたと思います」

「本当に、皆さん優しいからそう言って……」

「それに私、別にボランティアに来たわけじゃありません」

美奈子のこの言葉に、裕明は疑問符を隠せない様子で首を傾げた。

「違うんですか?」

「私はここに通っている、ただの患者です」

裕明は不思議そうに目をぱちくりさせる。

「ただの患者さんが、どうしてここに」

「わかりません」

「はい?」

「わからないものはわかりません。ただ、昨日あなたが朗読していた詩、あるでしょう」

美奈子の言うところのそれは、中原中也の「雪の賦」である。

「あれ、一部間違ってました。それが気になっちゃって」

「えっ」

「裕明さん、『幾多々々の孤児の指は、そのためにかじかんで、都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。』って朗読してましたね」

「あ、ハイ」

「それ、諳んじてたんですか」

「ええ、まあ」

「あの詩の中で孤児がかじかんでいたのは、『指』ではなく『手』です」

「あ……」

その指摘に、途端にフリーズする裕明。それを見た美奈子は「そこ、固まるところですか?」とツッコミを入れると、思わず二人でケラケラと笑いあった。

「あんなに堂々と間違えてたら、それはもう一つの形なんじゃないかなって思います。私は、そういうの好きですよ」

思いがけず「好き」という単語を口にした美奈子は、自身が急速に赤面するのを止められなかった。慌てて、

「あ、いえ別に変な意味じゃないです」

などと言い訳するも、裕明がおずおずと

「……違うんですか」

とぽつりとこぼすものだから、美奈子はますます動揺して、こんなことを口走った。

「違うっていうか、違わないっていうか、あの、えっと、わかりません!」

「はい?」

「とにかく『指』じゃなくて『手』ですからっ」

開き直らんばかりの勢いの美奈子に対し、裕明はクスッと笑った。

「なんで笑うんですか!」

「ごめんなさい、でもなんか、かわいいなって」

言ったそばから、今度は沸騰せんばかりの勢いでユデダコ状態になる裕明。美奈子も裕明も、自身の発言に自滅してお互い真っ赤な顔で俯いてしまう。

しばらくの沈黙の後、口を開いたのは裕明だった。

「喉、渇いてません?」

「あ、はい。何かいただければありがたいです」

「今あるのは、牛乳かバリウムです」

「実質一択ですね」

裕明と美奈子は、声を合わせて笑った。

***

開店して間もなくのりんどうにやってきたのは、青梅警察署の若宮だ。

「あら、珍しいお客さん」

「ここ、まだ吸えるんだっけ?」

「経営者として公言はできないけど、まぁ私が吸うからね」

メイが言い終えるのを待たずに、若宮はカウンター席に腰を下ろすと、懐からよれよれのセブンスターとライターを取り出して火をつけた。

「今日の日替わり、何?」

「鳥の竜田揚げ。付け合わせはポテサラ。あと先着数名でミニパンケーキ」

「パンケーキ?」

「朝食の生地が余ったから、オマケ」

「うん、好きでしかないな。頼むしかない」

「相変わらず変な刑事さん」

メイが微笑むと、若宮は「へっ」と照れ隠しに鼻を鳴らしてみせた。

「あんたも、相変わらずだよ」

「あら、褒め言葉?」

「どうだか」

メイが手際よく食事の支度を始めると、若宮は一本目のタバコを携帯灰皿に押し入れて腕組みをした。前にしか進まない柱時計の針を睨みつけ、ふと独りごちる。

「『思い出』ってのは……どうして美化されちまうんだろうな」

「え?」

「いや、どうして世の中にはふた通りの人間がいるのかなってな」

「どういう意味?」

「過去に縛られて身動きできない不器用な奴と、過去を好き放題改ざんしてのびのびと生きている器用な奴」

「……若宮さんは、どう考えても前者ね」

若宮は再び鼻をスン、と鳴らした。

「忘れられないってのは、都合のいい文脈ではあまり使われないからね」

「……『あの事件』のこと?」

若宮は頷くかわりにメイの背中に視線をやった。

「俺もさ、たくさん『現場』なんてのは見てきたけど。あれよりひどいのは知らないし、あんなのを目にするのはもう二度とごめんだから」

メイは「そう」と短く返事をすると、下ごしらえしてあった鶏肉を熱した油の中に投じた。

「なんか感傷的ね。何かあったの?」

「別に……。ただ、旧知の仲ってのが、同じ場所で足踏みしてるのを目の当たりにして、なんとも言えない気分になっただけさ」

「木内ちゃんのこと?」

その問いかけには直接答えずに、若宮は胸ポケットから一枚の古びたきなりのハンカチを取り出した。それをカウンターに広げると、中央付近に茶色がかった染みがついている。

「こうして居残るんだよ、誰の存在も。誰かの中に確かな傷跡として」

揚げられた鶏肉にナイフを入れようと振り返ったメイは、少しだけ驚いた表情をした。

「……それ、洗ってないの? もしかして」

「何度も洗ったよ。でも取れないんだ、これだけは」

その染みは、はるか昔の血痕である。この染みがつけられた時のことを、しかし若宮は昨日のことのように覚えている。

あの日、駆けつけた若宮の目に飛び込んできたのは、凄惨という言葉が軽率に聞こえてしまうほど残酷な事件現場だった。「あの子」は、泣き叫ぶことさえできずに、ただ目の前の光景を網膜に焼き付けてしまっていた。

「見ちゃだめだ」と、とっさにその少年の目を、持ち合わせていたハンカチで覆った。血痕は、その際に吸われたものである。少年の顔面は血まみれだった。しかし、その血液は少年のものではなかった。

若宮は少年を懸命にかばうように、彼の体を抱きしめた。少年の体が次第に震えだしたので、若宮はどうにか彼を守ろうと、「もう大丈夫だ、大丈夫だから」と何度も声をかけた。ところが、少年は恐怖やショックで震えていたわけではなかった。

若宮の腕の中で、少年は、笑っていたのである。

***

人が傷つきながら、あるいは傷つけながらでしか生きていけないのは、生命に必ず終わりがあることに所以するのかもしれない。傷ついただけ傷つける。なにもかも等価交換なのだ。

僕は、生きている。それも、たくさんの人を傷つけながら。傷つく以上に傷つけているのだから、間違いなく過分に見合うだけの天罰が下るのだ。こんな風に誰かと一緒によく冷えた牛乳を飲んで笑いあうことなんて、本当は許されてないんだ。

わかってる。わかってるよ。わかってます。

でも、神さま。もしもあなたがどこかに存在するのなら、この誰の気にも留められないちっぽけな僕のこの命の灯火を、早く吹き消してください。

「どうしたんですか?」

この子は何の屈託もなく僕の瞳をまっすぐに覗き込んでくる。僕はその視線に耐えられず、力なくうつむいてしまった。

「あれ? もしかして、また人格交代ですか」

そして恐れや不自然な遠慮を知らないのか、僕にそんな言葉をかけてくる。いや、かけてくれる。

「あらら、今度は誰だろ。あの乱暴な奴だったらどうしよう〜」

そう言いつつも、彼女の表情は穏やかだ。こんな人は、今までいなかった。僕の中に確かに『居る』人々の存在を腫れ物か、忌避すべきモノとして扱った。ひどいときには僕が詐病だと勝手に決めつけて、つまらない演技で人の気を引くような哀れな人間だと断罪してきた人さえいた。

そもそもが、間違っているのだろう。真っ白な部屋に白で統一された調度品の数々。僕は、ここでずっと守られている。死ぬまで、きっと。呼吸と鼓動は続く。僕自身は望んではいないのに。

意味がないのだ。この部屋で時を独り重ねたところで、最後には僕はこの美しすぎる世界にとっての塵のような黒点になり下がり、誰からも忘れ去られて生命の奔流という名のフレアに飲み込まれて消えるのだから。

「……ごめんなさい」

僕は蚊の鳴くような声で謝罪した。

「え、何が?」

「人格、代われないみたいです。自分の意思ではコントロールできなくて」

「なんだぁ、嬉しい!」

真白い花の咲むような明るい笑顔を彼女は浮かべる。

「よかった、じゃあもうしばらく裕明さんとおしゃべりできますね」

その笑顔があまりに眩しくて——文字通り、部屋には燦々と陽光が差し込んでいて、だから僕の視界に一瞬だけ、女神が現れた。黒髪セミロングでほんのすこしふっくらした、頬のピンクが優しくて。

「メイさんに聞きましたよ。『りんどう』の看板の花、裕明さんが描いたんですってね! 力強くて、それでいて繊細なタッチがカッコいいなって思いました」

自分の絵を、そんな風に評してもらったのも初めてだ。僕は思わず頬を右手の人差し指でかいた。

「絵は、我流です。神保町の古本屋でたくさん絵の本を仕入れてくる変人がいるから、それで少し知識は……」

「あー、あのソフトボール好きの変人ですね!」

僕らは笑いあう。彼女は丸っこい手を叩いてはしゃいでいる。

なんだろう、この感覚は?

——こんな時に限って、『誰も』返事をしてくれないんだもんな。

「あ、そうだ」

彼女は何かを思いついたようで、手をポンと鳴らすような仕草をした。

「じゃあ、何か描いてくれませんか?」

「え?」

「裕明さんが将来、売れっ子の画家になったら、それをメルカリで売ります」

「売るんですか」

「冗談です」

そうしてまた、僕らは声を合わせて笑う。

「わかりました。クロッキー帳への鉛筆のスケッチでもいいですか?」

「やった! 何を描いてくれるんですか?」

空が今日はあまりにも高いから。風がそよそよ自由を伝えてくるから。優しさを惜しみなく与えてくれるから。理由なんていくらでもあったし、どれもこじつけに過ぎないのかもしれなかった。

さながらそれは、『衝動』の類であったのかもしれない。

「美奈子さん——あなたを、描きたいです」

第十八話 慈愛の罠(四)風

第十六話 慈愛の罠(二)邂逅

事件の一報を児童養護施設の職員から知らされた裕明はうつむいて、その職員に気づかれないよう、「やっぱり」とこぼした。宿直の男性職員は、裕明に深呼吸を勧めた。

「まず、落ち着くんだ。今回のことは、いずれ知ることになるから……。君がショックを受けるんじゃないかって迷ったけれど、でも、友達が亡くなったことを隠すのも違うかなって思って」

(友達……ともだち……)

(誰が?)

(本当に、死んじゃった。)

(なんてね。知ってたくせに。)

(知ってたくせに。)

「もう十時半になる。今日はもう寝ような。明日、必要だったら一緒に登校するから」

「金井さん、僕、お祈りしたい」

「お祈り?」

「うん。亡くなった人は、星になるから」

裕明のそんな上っ面の嘘を見抜けなかったのは、決してその職員が悪かったわけではない。実際、裕明は普段からよく読書を好み、中でも詩歌に詳しい印象があった。だから、「死んだ人は星になる」などと言い出してもそれほど違和感はなかったし、むしろ心の繊細な子どもとして普段から気にかけていたほどだ。

「裕明、あいにく今夜は雨だよ」

「悲しいから空が泣いているんだよ。その涙に、少しだけ触れたいんだ」

裕明の澄んだ瞳に懇願されては、職員はそれを拒むことはできない。

「わかった。10分で戻ってくるんだよ」

「ありがとう」

10分後、裕明が宿直室に戻ることはなかった。

暗がりの道を、濡れそぼった少年が虚ろな表情を浮かべながら歩いても、家路を急ぐ人々の関心は引かなかった。それが却って、彼にはちょうど良かった。

何が起きても、他人事。他人事。皆が己の道を生き急ぐことだけを考えていて、すぐそばに傷だらけの人が息苦しさを覚えてうずくまっていても、無関心の仮面をつけて行きすぎるだけだ。

そもそも、どうせ誰も理解なんてできないことなのだ。通りすがる車のヘッドライトが彼を一瞬だけ照らして次々に通り去っていく。その顔を濡らしていたのは、雨だけではなかった。

その夜の南大沢警察署は、悪質な飲酒運転の取り締まり対応に追われたものの、取り立てて大きな事件も起こらずに一日の業務を終えようとしていた。

加えてその年は長梅雨ということもあり、軽微な物損事故を起こす車も多発していた。

南大沢は警視庁の管轄とはいえ、八王子市南部に位置する比較的閑静な土地に警察署を構えている。

今日も明日も、大きな事件や事故は起きない。

何が起きたところで、所詮は他人事なのだ。この街に暮らす人の多くは、そうした意識に疑義を唱える余地も持たず、日々を送っている。

しかし、「非日常」という亡霊は、夕立のように突如として立ち現れるのだ。

制服姿の裕明が、傘もささずにびしょ濡れのまま、南大沢署の玄関に姿を見せたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。

警備にあたっていた警察官が、不審に思って裕明に声をかける。

「君。こんな時間にどうしたんだ」

裕明は俯いたまま、こぶしをギュッと握って、か細い声でこう呟いた。

「僕は……しました」

「えっ?」

「人を、殺しました」

怪訝そうな顔をする警察官。しかし、その不審さよりも裕明の体が雨に震えていることが気にかかったようで、裕明に署内に入るよう促した。ところが、頑として裕明は中へ入ろうとしない。

「風邪を引くぞ。中で話を聞くから、入りなさい」

「お願いです、僕を死刑にしてください」

「馬鹿なことを言わないでくれ。大人をからかうもんじゃない」

「僕が殺したんです。僕が」

「大人をからかう暇があったら、よく寝てちゃんと勉強しなさい」

裕明は唇をくっと噛んだ。

「今日は、『3人』ですよね」

「えっ?」

「八王子市内の今日の交通事故の死亡者数です」

「今日は死亡者ゼロだよ」

「当たってたら、僕を死刑にしてくれますか」

「傘とタオルぐらい貸してあげるから、中に入りなさい。家はどこ?」

雨足が一瞬だけ強まったその刹那、警察官の胸元の無線に、一件の通信が入った。

『都道158号小山乞田線にて、普通車同士の正面衝突事故発生。複数の怪我人が出た模様』

「その人たち、全員死にます」

裕明が告げると、警察官の顔が引きつった。

「何だって……?」

「僕を、死刑にしてくれますか」

警察官は訝しみ、裕明の全身を注意深く観察した。短めに切りそろえられた黒髪、白地にアルファベットを変形させたようなエンブレムがワンポイントになっているTシャツ、ジーンズに履きこまれたスニーカー。特段変わった格好ではなかったし、一見、裕明はどこにでもいるような学生に見えた。

「君、どこから来たの。親御さんが心配するだろう」

その言葉に、裕明は表情を微塵も変えることなく、まるで天気の話でもするかのようにこう答えた。

「家族は、いません」

「えっ?」

「地獄へ堕ちました」

「何だって……?」

「でも妹は、天使になったんです。僕の目の前で」

「君、さっきから何を言って——」

警察官がそう問いかけようとしたところへ、割り込んできた無線の音声が、無情な現実を報せた。

『こちら都道158号小山乞田線。3名が心肺停止。えー、3名が心肺停止』

「――……!?」

『現在、救急隊員による蘇生を——』

無線のレシーバから、ノイズ混じりにうなるサイレンと激しい怒号と悲鳴とが漏れ聞こえてくる。

裕明が拳をぎゅっと握って警察官の顔をじっと見ると、その視線に警察官は思わず一歩引いて問いかけた。

「君は、一体……?」

「ただの、中学生です」

雨が裕明の全身を容赦なく冷やしていく。警官は一呼吸おいてから、観念したようにこう応じた。

「……死刑にするとかしないとかはね、警察官が決められるものじゃないんだ。とにかく、中へ入りなさい。話を聞こう」

警察官が裕明を誘導しようと、警棒に光を点灯させる。その「赤色」は、すぐさま強烈に裕明の認識する世界を支配した。

(やぁ、人殺し!)

突然、裕明の全身がガタガタと震えだした。それは体が冷え切ってしまったことだけが原因ではなかった。

(誰も信じちゃくれないよ)

(名無しの戯れが泣いているよ)

(やめて。やめて。私は嫌よ)

(殺す以外の選択肢はあった?)

(ある日(ある日♪)街の中(街の中♪)人殺しに(人殺しに♪)であった(であった♪)星散る観光地~♪ 人殺しにであ~った~♪)

(いやあああああああああああああああああああああああああああああ)

「ああ……あ……ッ?」

両腕で頭を抱えて崩れ落ちる裕明。泥と雨に汚れるその様は、飽きられて打ち捨てられた哀れな人形のようだった。あまりに異様なその光景にたじろいだ警察官だったが、すぐに駆け寄って裕明を介抱しようとした。

ところが、中学生とは思えない力で、裕明は突然その警察官の腕を掴んだ。

「めんどくせーなぁ」

明らかに口調の変わった裕明に対し、警察官は反射的に無線のスイッチをオンにした。

「こちらエントランス。至急の応答求む」

次に裕明が意識を取り戻したのは、都心から少し下町方面に位置する精神科病院の敷地内の、児童精神病棟の個室だった。彼の腕には点滴が繋がれており、頭が重いので思うように体を動かせない。眼球だけをキョロキョロと動かしていると、定時のバイタル計測にやってきた看護師が、裕明が意識を取り戻したことに気づいて「あっ」と声をあげた。

慌てた様子の看護師に呼ばれてやってきたのが、当時その病棟で病棟医長を務めていた木内であった。

「——ここは?」

力のない裕明の問いかけに、木内は優しく声かけをした。

「安心していい。病院だよ」

「病院……」

裕明は周囲を見渡した。無機質な色ばかりが支配する空間。——自分は、ついに、いや、ようやく、こんなところへ連れてこられたのか。

裕明はくたびれた白衣を着た木内の目をじっと見つめて、乞い願った。

「僕を、解剖してください」

「えっ?」

「僕みたいな人間は、もうそれくらいしか道がないんです。脳でも心臓でもなんでも、誰かの役に立てるなら、こんな体、早く切り刻んでください」

「……まだ少し、混乱しているみたいだね。まだ点滴は終わってないから、それが済んだら一緒に散歩にでも行こうか」

裕明はじっと木内の瞳を見つめた。木内が微笑んでそっと裕明の横たわるベッドの掛け布団に触れようとすると、裕明は体をびくりと震わせた。

「早く……早く、解剖してください……」

「僕はそんなことはしないよ」

裕明の黒眼に映る木内が柔らかく微笑む。床頭台の置き時計が午後4時を示すと、上部に付属しているひよこのキャラクターが4回だけ点滅した。

「解剖、してくれないんですか」

「うん、しない」

「どうしてですか?」

「君は、生きているからだよ」

それが、裕明と木内の邂逅であった。

第十七話 慈愛の罠(三)願い

第十五話 慈愛の罠(一)人殺し

木内が美奈子を待合ロビーへ招き入れ、あおいがウォーターサーバーの水を汲んだ紙コップを手渡すと、美奈子はそれを一気飲みした。開口一番、

「話をさせてください」

という美奈子の鬼気迫る雰囲気に一瞬だけ圧倒されつつも、木内は首を少しだけ傾げて、

「もうすぐ外来開始だから、午前の診察が終わるまで待ってもらわないと……」

といつものようにのらりくらりと返答しようとしたのだが、美奈子は食い気味にこう迫った。

「先生じゃなくて、あの人とです」

「あの人?」

「あの人です。名前も教えてくれない無礼者だったり、ポケモンが好きなやんちゃな子だったり、優しいけど何を考えているのかよくわかならなかったりする、あの人です」

一息に美奈子が放った言葉に今度こそ驚いた木内は、あおいに「急患いなかったら外来開始10分押しで!」と伝えて、美奈子を診察室隣のカウンセリングルームへと誘導した。ここならば音声が漏れることがない。

木内が待合ロビーからポロシャツの胸ポケットに突っ込んだのど飴を差し出すも、美奈子は首を横に振った。

「コレおススメだよ。のど飴の中でもバーブエキスとカラメルのバランスが一番いいと思ってて。僕の仕事は声も大切だから、最近手放せなくってさ」

「そんなことはどうでもいいです」

「あと、ソフトボールは声掛けがチームワークの肝だからね。『ナイショート!』とか叫ぶとさ、この年齢になるとかなりのどに堪えるんだ」

「そんなことはどうでもいいです」

「あとさ、神保町の東京堂書店でこの前……」

「先生!」

「はいっ」

美奈子のあまりの気迫に、反射的に返事する木内。これでいてかつては都心の大学病院で医局長まで務めていた人物なのだから、人というのは実に多面的な生き物である。言わずもがな、人格が分裂などしていなくても、だ。

「彼の名前を教えてください」

「え、なんで」

「呼ぶときに困るから」

「それは本人にたずねるべきでは」

「だったら本人に会わせてください」

あっけなく美奈子の勝利である。木内はがっくりと肩を落としたが、それでも首を縦には振らなかった。

「どうしてですか」

食い下がる美奈子に、木内はどう返答すべきか迷った。彼女のまっすぐな瞳が、こちらの良心を責めている気さえした。だから、せめてかけらでも誠実であろうと、事実を伝えることにした。

「鎮静剤を……消耗が激しくて、主人格を守るために投与したんだ。今は深い眠りの中だよ。しばらくは起きないはずなんだ」

「そんな……」

「そういうことだから、ごめんね」

「じゃあ、彼が起きるまで待ちます」

「ええっ」

この子は本気だ。そして一度言い出したらそれを貫く強さを持っていることも木内は知っている。短く息を吐くと、木内は美奈子にこう告げた。

「じゃあ、宿直室で待っていてくれるかい。テレビもついているから一応、暇つぶしには使えると思うんだ」

「ありがとうございます」

宿直室の場所なら以前利用したことがあるので美奈子もよく知っている。木内は腕時計を見て「そろそろ行かなきゃ」と慌ただしく出て行こうとした。その去り際に美奈子が「ありがとうございます!」とあいさつすると、木内はいつものようにへらっと笑ってみせた。

木内が去るやいなや、弾みをつけて椅子から立ち上がった美奈子は、心の赴くままに「白い部屋」を目指した。

外来診察が始まると、外来棟と入院棟の通路は人通りが少なくなることを知っていた美奈子は、物置を模したすき間に敷かれた白いカーテンをめくって、その先に隠された通路に突き進む。

(悪いことじゃない。誰も悪くない。だから、私も悪くないんだ。)

細い廊下の奥の「白い部屋」の扉は少しだけ開いていて、薄暗い中に一筋の光が差していた。美奈子は足早に向かうと、微塵のためらいもなく扉を開けた。

すると、心地よい風が美奈子の頬を撫でた。眠りについているはずの彼は、窓際のロッキングチェアに腰かけて、体をだるそうに揺らしていた。

扉が開いて美奈子が姿を現すと、

「……あ、おはようございます」

と、蚊の鳴くような小さな声であいさつをした。

「体調、いかがですか」

美奈子の問いかけに、裕明は力なく微笑んでみせた。

「ちょっと、つらいです。クラクラします。久々に強いのを飲んじゃったみたいで」

「じゃあ、楽な姿勢でいてくださいね」

「でも、あれでももう数時間しか眠れなくなっちゃったみたいです。困ったな」

美奈子は部屋の中に歩を進めると、彼が先刻まで使っていたベッドに座り、右手を高く上げた。

「自己紹介します」

「はい?」

「私はあなたのことを何も知らない。あなたも、私の名前しか知らないでしょう。だから」

「いや、僕はあなたの名前も知らない……」

美奈子が目をぱちくりする。そうだ、名乗ったあの時は別人格だったのだ。だったら、なおさら、自己紹介が必要と感じた美奈子はしっかりと彼に伝えるために、ゆったりとした口調で話しはじめた。

「高畑美奈子、18歳。誕生日は8月29日。しし座寄りのおとめ座。好きな食べ物は甘いもの全般、です」

「はぁ……」

美奈子は上げていた右手を今度は裕明に向けた。

「じゃ、どうぞ。自己紹介タイム」

「え、なにを話せば」

「私に知ってほしいことです」

おそらくは、美奈子に自覚はない。恋する乙女のアグレッシブさは、時としてあらゆる空気や慣行に類するものたちを突き破る、ということを。

彼は腕組みしたまま、しばらくロッキングチェアでゆらゆらと揺れていた。

「高畑さんに、知ってもらいたいこと……?」

「美奈子でいいです」

「美奈子さんに、知ってもらいたいこと……?」

今日も奥多摩は晴天予報だ。突然の雨はあるかもしれないが、朝のうちは穏やかな青とぽっかりした雲の白が空を支配している。

風もまた、相変わらず優しい。ただそこに在ることが、それだけで十分に尊いということを人々に伝えているようだ。

「じゃあ、僕の過去を少し、知ってもらえますか」

裕明の口から飛び出した言葉に、美奈子は一回だけ深呼吸した。

「もちろん。あなたのことなら、私はなんでも知りたい。でもその前に、名前を教えて」

どうしてそんなに前のめりになるのかが不思議だったが、悪い気はしなかった。自分に関心を持ってくれること自体が、どこか心地よかったのだ。

「江口裕明といいます。えっと、21歳です。誕生日は、12月21日です……なに座かは、知りません」

「いて座ですね!」

「そうなんですか。好きな食べ物は……というか摂取可能なのは、赤くないものです。白ければベターです」

「なるほど」

「それで、僕が美奈子さんに知ってほしいことは——」

「はい」

「僕が、人殺しだということです」

***

学ランをぎこちなく着た裕明は、職員室で体を震わせていた。

「お願いです先生、どうか修学旅行を取りやめてください」

裕明は本気だった。だが、その本気を担任の教師は本気で受け取ることはなかった。教師は書類の山にだけ目をやり、彼と目を合わせようとしない。赤ペンを走らせながら、面倒そうに返答した。

「江口。何度も言うが、お前の一存なんかで中止になどできるわけないだろう。そんなに修学旅行が嫌なら、行かなきゃいいじゃないか」

「人が、死にます」

「縁起でもないことを言うもんじゃない」

「お願いです、お願いします!」

頭まで下げる裕明を、教師は非常に疎ましそうにちらりと見やった。

「江口。お前、そんなんだから、いじめられるんじゃないのか?」

――誰も、信じてくれなかった。

周囲から「不可思議」と受け取られる言動を繰り返す裕明を、クラスメイトはこぞってからかった。いや、それはからかいや嫌がらせの域を大きくこえて、「いじめ」と呼んだほうが相応しかったかもしれない。

「よう、不思議クン。明日の天気を教えてくれよ。気象庁より当たるんだろ? 明日俺、大事な試合なんだ」

数人に階段前の壁際へ追い込まれた裕明は、しかし口を真一文字に結んで応じようとしない。

「明日は母さんも観に来るんだ」

「……」

「あ。お前、親いないんだっけ? ごめんごめん!」

周りの取り巻きからどっと笑い声が溢れる。

いじめの急先鋒は、サッカー部に所属して女子たちから人気があった男子生徒だった。いわゆる「クラスの人気者」で、教師や保護者ら大人の前では非常に外面がよく、陰では立場の弱いものをいびりまくるという、「非常に要領のいい」だけの人物だった。残念ながら腐るほどいるだろう、このような類の「クラスのボス猿」は。

裕明は無視を貫こうと、そのいじめっ子の言葉に反応せずに黙り込んでいた。それが気に食わなかったらしく、その男子生徒はこんなことを言いだした。

「じゃあさァ、上履き脱いで飛ばせよ! ひっくり返ったら雨、確定な」

取り巻きが歓声を上げる。その中の図体の大きい一人が、嫌がる裕明から無理やり上履きを奪い、階段の踊り場めがけて投げ捨てた。上履きは音もたてずに仰向けに転がった。

「よっしゃ! 明日は晴れだな。ありがとうね~」

またも下品な笑い声が周囲に反響する。屋上に続く階段のため、気づかれにくい場所を選んでいるあたりにもその卑劣さが象徴されている。

「明日はクラブチームのスカウトも観に来るからさ。晴れてくれなきゃ困るんだよな」

ゲラゲラ笑いながら、連中が去っていく。落ちていた裕明の上履きは、二回蹴飛ばされた。裕明は悔しさや怒りをぐっと堪え、踊り場まで上履きを取りに行くと、誰にも気づかれないように呟いた。

「明日は……大雨だよ」

その翌日、天気予報が大きく外れて、土砂降りになった。そんな中で強行されたサッカーの試合で、裕明をいじめていたその男子生徒はフォワードとして出場していたが、重たい泥に足を取られ、足首を複雑骨折した。結果、彼の選手生命は、あっさりと絶たれた。それまで黄色い声を送っていた女子たちも離れていき、「だっせ」といったあんばいでその男子生徒が嘲笑の対象になるのに、時間はかからなかった。

男子生徒の大怪我を知った日の裕明の日記には、キャンパスノートの1ページが真っ黒になるくらい、数えきれないほど「気持ちいい」「ざまあみろ」「そのまま死ね」などとボールペンで走り書きされていた。しかし、「裕明」自身にその記憶はなかった。

不可思議な出来事はそのサッカー部の男子生徒に留まらない。友達の一人もおらず休み時間に読書ばかりしていた裕明を「キモイ、うざい」と嗤っていたグループの中心にいた女子生徒の母親が、自宅で入浴中に急な突風で飛んできたアスファルト片で割れたガラスが首元の大動脈に刺さり、出血多量で死亡した。第一発見者となったその女子生徒は重度の過換気症候群となり、風が吹いた日には枯葉一枚が舞うのを見ただけで涙目になって呼吸に苦しむ体となってしまった。

学年で名を馳せていた秀才君は、自分と実力が伯仲しているにも関わらず裕明が自らをを卑下していることを非常に妬んでいた。実際には卑下ではなく、裕明はただ、テストの点数など数多の指標の一つに過ぎないことをわきまえていただけなのだが、その姿勢が「クールぶりやがって」と秀才君の怒りを買っていたのだ。

当時まだ出始めだったインターネット掲示板に秀才君はスレッドを立て、裕明のことを数人の生徒にボロクソに書き込ませた。それをわざとらしく、親切の体で「江口、お前ひどいこと書かれているぞ」と裕明に伝えたのだが、「教えてくれてありがとう」と言ったきり、裕明が時間を割いてそのスレッドを見ることはなかった。

数日後、秀才君の自宅パソコンが海外のハッカーにハッキングされて、秀才君の本名、住所、親の勤め先に留まらずアダルトサイトなどの閲覧履歴まで、ありとあらゆる個人情報を世界中にばら撒かれた。秀才君はノイローゼになり、勉強が全く手に付かなくなった。そのうえ極度の視線恐怖症になり、現在も引きこもっているという。

……枚挙にいとまがないが、これらはすべて嘘のような本当の出来事だ。「自分に仇なした人間が、ことごとく不幸に見舞われる」。そのことに気づいてしまってからは、裕明は世間から己の存在を憚るようにそっと生きてきた。

(誰がどうなろうが、僕には関係ない。だから、僕に構わないでくれ。)

自分さえいなければ。自分さえいなければ誰も苦しまない。わかっているのに、どうして自分から世界を手放す勇気がないのだろうと、裕明はひどく自分を責めた。

それでも、施設長からは学校に行くように言われていたし、自由になるお金もなかたっために公園などで時間を潰すこともできなかった。何よりも学校を休めば、それが施設に筒抜けだったので「サボり」と見做されて「指導」の対象となるから、裕明は歯を食いしばってでも登校を続けるほかなかった。

そんなある時、非常に恐ろしい夢を彼は見てしまった。観光客ばかりのひなびた街を、楽しそうに歩くクラスメイトたちの修学旅行の夢だった。

楽しそうに歩く行列。それを、黒い服を着た不審な男がふらふらとつけていた。男は隠し持っていたナイフを取り出し、列の中に飛び込んでいく。はしゃぎ声はすぐに悲鳴に変わった。

直接の恨みでもあるかのように執拗に胸元を刺された男子。
逃げようとして転倒し、髪を引っ張られてそのまま喉元にナイフを突き立てられた女子。
男を止めに入ろうとして、そのまま犠牲になった教師。

その場は血の海。尋常ではなくおぞましい光景が、裕明の脳裏に焼き付いた。

――これは、まずい。

「お願いです先生、修学旅行を取りやめてください!」

「江口。行きたくないなら別に、行かなくてもいいんだぞ」

「違います……」

「なんだ、お前。あんな目に遭っているのに、みんなと一緒に修学旅行に行きたいのか?」

腐った学校には、腐った教師しかいないということなのだろうか。たとえそうだとしても、裕明はこぶしをぐっと握りしめて必死に訴え続けた。

「お願いです。人が死にます」

「ふざけたことを言うな。ボイコットなら勝手にしろ」

「違うんです」

「いい加減にしろ!」

「……」

裕明の懇願も虚しく、その翌週に修学旅行は実施された。九州北部を周遊する3泊4日で、長崎で原爆資料館とハウステンボスに行き、佐賀で吉野ケ里遺跡と伊万里焼の工房を見学し、最終日にはキャナルシティ博多の水族館と受験祈願のために太宰府天満宮に行く。そのような行程だった。

太宰府天満宮に向かう学生たちの列に、通り魔の男がナイフごと突っ込んだ。その男は取り調べで、「楽しそうにはしゃぐ奴らがうるさかった。むしゃくしゃしていた。誰でもよかった」と供述したという。

起きてしまった事件。それはもしかしたら防げたかもしれない、凄惨な悲劇。自分は知っていた。知っていたのに、止められなかった。

(だから――僕が殺したも、同然だ。)

これが、裕明は自らを「人殺し」と称する所以だというのだ。

第十六話 慈愛の罠(二)邂逅

第十四話 過日の嘘(七)邪魔者

木内の口から「情報提供」として若宮に共有されたのは、高畑美奈子の家庭環境についてであった。

彼女の父親は大手の商社に勤めるサラリーマンであったが、長引く不況ゆえリストラの対象となり、マイホームのローンを抱えながらの転職活動を余儀なくされた。そこに大学進学を控えた美奈子が反抗期に突入していたこと、妻である美奈子の母からの「早く次の勤め先を決めて」というプレッシャーなどのストレスから毎晩、浴びるように酒を摂取するようになった。もともと体質的にアルコールに弱かったこともあり、不調は心身両面に現れはじめた。父は身だしなみに無頓着となり、スウェット姿で自宅から歩いて行けるコンビニ程度の外出しかしなくなった。コンビニで酒を買い込んでは母と衝突した。

やがて父は眼球の黄ばみと違和感、体のだるさを訴えて近所のクリニックにかかったが、そこの医師からはアルコールを控えるように言われただけで、特段の配慮は得られなかった。父の体調を不安視した母は、自宅の中にある酒類の瓶や缶を徹底して捨てた。父が母に暴力を振るったことは想像に難くない。

最初こそ耐えていた母だったが、目立つ場所には怪我を負わせない父のやり方に卑劣さと怒り、不信を相当募らせていたのだろう。何をどこまで耐えるべきかと思い悩んでいたある夜、暗がりで父が台所で冷蔵庫を開けっぱなしにし、無我夢中でみりんを舐めていた姿を見た母は、声にならない悲鳴をあげて寝室に戻り、震える手で携帯電話から119番通報をした。

「夫が、おかしくなった!」

救急隊員たちが駆けつけると、父は抵抗のために暴れに暴れた。それを「異常な興奮」と見做され、父はそのまま都心の病院に措置入院となったのである。父親が搬送、というより連行されていく一部始終を、当時すでに不眠の始まっていた美奈子は、泣くこともできずに物陰からただじっと見ていた。

その出来事から数週間後のある日、美奈子が高校から帰ってくると、スーツ姿の見知らぬ中年男性が美奈子を笑顔で迎えた。

「おかえり、美奈子ちゃん」

「……どちらさまですか」

蚊の鳴くような声の美奈子の問いに答えたのは、疲れきった顔色を上機嫌で覆った母であった。

「新しい、あなたのお父さんよ」

「え」

「はじめまして、美奈子ちゃん。紗絵子さんに似て、とてもかわいいね」

にこやかに母親を名前で呼ぶその男性に美奈子は薄気味悪さを覚え、そのまま自室へ走って逃げた。

「あぁ、嫌われちゃったかな」

「仕方ないわよ。あの子の半分には、落伍者の血が流れてるんだから」

それから新しい父——とされる——広瀬は、毎週のように高畑家に顔を出しては、その度にやれ腕時計だ、流行りのブランドのカバンだのを勝手に買ってきては押しつけるように美奈子に渡した。

美奈子が頑として自室から出ようとしないと、部屋の入口に「物品」を置いて、母とともに外出することが常となった。日付が変わって二人で戻ってきてからは、のんびりとリビングでお茶を飲むなどして過ごしていた。ことの後なのだろう、母も広瀬も「穏やか」な表情を浮かべ、ときおり指と指を絡ませたりなどしていた。

許せなかった。自分など邪魔だと言われている、そんな確信があった。

——だったら、邪魔者らしく消えてやるよ。

別の夜、広瀬が来る前に美奈子は「コンビニに行く」とぶっきらぼうに母に告げ、そのまま中野駅から高尾行の中央線に乗った。行き先なんてどうでもよかった。ただ、涙があとからあとから溢れてきて、自分が情けなくて、父が心配で、母が憎くて、広瀬は怖くて、何をどこからどう考えればいいのかわからないままに、とにかく行けるところまで行こうとした。

自分が泣いたところでどこまでも他の乗客たちが無関心であることが、却ってこの時ばかりは救いだった。広瀬のようにわざとらしく干渉されるのは嫌だったので、美奈子はひたすら独りで線路の続く限り西へと向かった。

電車が途中の立川駅に到着すると、ふと美奈子は懐かしいことを思い出した。まだ幼稚園に入りたてで物心がようやくついた頃のこと。確か立川駅には大きい映画館があって、そこまで両親に連れられてポケモンの映画を観に行ったことがあった。父の大きな右手と母の柔らかな左手は、自分だけのものだった。あの頃は、何の疑いもなく親からのぬくもりを感じていた。独りではないと信じ切っていた。

(きっとぜんぶ、私が悪い子だからなんだ。)

気がつくと、下車してホームの階段を上がっていた。激しい人の往来に身をうずめるようにして歩を進めようとした。しかし、空腹に耐えかねた彼女の足は無様にもつれ、改札階で転倒してしまった。一瞬だけ周囲の通りすがりたちによる好奇の視線を浴びたものの、互いに無関心同士に戻るのに時間はかからない。美奈子は胸の奥から滲み溢れる悔しさを必死にかみ殺そうとした。

「大丈夫ですか?」

唐突に、家を出てはじめて、声をかけられた。美奈子がおそるおそる目を向けると、そこには父親より少し年上と思しき、くたびれた白いポロシャツを着た男性が心配そうにこちらを覗きこんでいた。木内である。

「別に、大丈夫です」

美奈子が木内の差し出した手を無視して起き上がったときに、非常にタイミングよく彼女の腹がSOSを出した。

「おなか、空いてませんか」

「空いてません」

美奈子は恥ずかしさのあまり赤面してしまったので、さっさと彼の目の前から去ろうとした。しかし木内が進路をふさぐように立って、首をかしげて問うた。

「おなか、空いてるでしょう」

「いえ」

「よかったらどうぞ」

そう言って木内が紙袋から取り出したのは、ブルーベリーの練りこまれたスコーンだった。

「これね、パートナーが大好物で。僕が神保町に行くと必ず、帰りにこれを売ってくれる立川のカフェに寄って、ゲットしてから帰るんです。本当に美味しいから、ぜひ」

「そんな、それは悪いです」

「ちっとも悪くないです。だから、どうぞ」

確かに、彼の言う通り表面のきつね色が非常に美味しそうなスコーンである。美奈子はごくんと唾を飲み込むと、ぎこちなくそのスコーンを受け取った。甘酸っぱい香りを感じると、その場で一口かじるのを美奈子は我慢できなかった。

「おいひい……」

思わずそう漏らした美奈子に、木内は得意げに紙袋を指さした。

「でしょう。大丈夫、あと4個あるから、好きなだけどうぞ」

「いいえ、それは奥さんに持って帰ってください」

木内は「うーむ」と少しだけ思案してから、

「じゃあ、よかったらウチ来ます? 僕のパートナーはね、天下一の料理の腕前なんです」

と提案をした。

「でも」

「お急ぎですか?」

「いえ、行き先は、特に……」

「でしょうね」

「え?」

「僕ね、こう見えて医師なんです。あなたのような目をした人を、たくさん診ています。僕の家、ここからちょっと遠いんですけど、よかったら」

それに対して考えるより先に、美奈子は首を縦に振っていた。

それが、木内と美奈子の出会いであった。

ちなみに、このとき美奈子の母も広瀬も、「捜索願」を出すことはなかった。

ログハウス風のクリニックに到着すると、岸本が笑顔で出迎えた。「はじめまして」と挨拶するやいなや、岸本はそのふくよかな腕で美奈子を抱きしめた。最初こそ驚いたが、すぐに美奈子は岸本を抱きしめ返した。その腕も、肩も、胸も、すべてがあたたかかった。

木内の言う通り、岸本の料理の腕前は素晴らしいものだった。オムライスを振る舞ってくれたのだが、チキンライスとケチャップではなく、バターライスとベシャメルソースという組み合わせが新鮮だった。乾燥パセリの緑も、目に嬉しかった。美奈子の元気のある食べっぷりに、木内も岸本も一安心した。

その夜は、岸本と一緒に宿直室の簡易ベッドで眠った。いつも悩んでいる不眠症がまるで嘘のように、ぐっすりと深い睡眠をとることができた。

翌朝、クリニックを出るときには岸本と医療事務のあおいが見送ってくれた。奥多摩までは木内がバンを出してくれた。車から降りるとき、美奈子は深々と木内に頭を下げた。

「いつでもここにおいで。よかったら今度はグラタンをふるまうよ」

木内はそう笑んだ。

通勤ラッシュとは逆方向の電車に揺られて帰宅した美奈子が目にしたのは、下着だけをつけた母がリビングのソファで寝ている姿だった。

美奈子は押し黙ったまま自室に戻って、天井を見上げた。昨日の夜の光景が、まるで夢のようだった。あんな柔らかな食卓、いつぶりだろう。

美奈子が着替えようとカーディガンを脱いだ時、唐突に部屋のドアが開いた。振り返ると、母が鬼のような形相で佇んでいた。

「……なに」

美奈子が申し訳程度に問う。母はカットソーと長めのボトムスを着ており、まるで何事もなかったようないでたちをしていた。母は開口一番、「おかえり」でも「どうしたの」でもなく、こう言い捨てた。

「外泊なんて、ずいぶんと大層なご身分ね」

「……」

「私がどれだけ心配したと思っているの」

嘘をつけ。美奈子は内心舌打ちした。誰が心配なんてしているものか。美奈子は思わず口に出した。

「広瀬さんとずっと過ごせて良かったじゃない」

「どういう意味よ」

ヒステリックな感情を押し殺しもせずに母がわめく。

「そのままの意味だけど」

美奈子はつっけんどんに返した。

「よかったじゃない。お母さんも女だもんね」

母は怒りに任せてずかずかと美奈子に近づくと、彼女の顔を手加減せずに力任せに叩いた。

「養われている分際で、わかったようなこと抜かしてんじゃないわよ!」

これが本当に、母親たる人間の態度か? 美奈子は頬の痛みよりも、濃い虚しさを胸に去来させた。

「文句があるならこの家を出てって。今すぐ。今すぐよ!」

叫ぶ母を、美奈子はじっとにらんだ。そしてこう言ってのけた。

「わかった。そうする」

すると途端に、母は息を飲んだ。

「ちょっと、何よそれ。冗談よ、本気にするなんてバカみたい」

「お母さんが今、出て行けって言ったんじゃない。私はバカだしいい子だから、その通りにするだけ」

「待って。明良さんが、あんたに今度ヴィヴィアンの財布を買ってあげるって――」

「もうそういうのやめて。疲れた」

美奈子はうっすらと笑ってみせた。

「疲れたよ」

「何様なの! え? あんた何様!?」

居場所がない。行き場所がない。つまりは、生き場所がない。ああなんだ、死ねってことか。じゃあいっそ、ひと思いに殺してくれよ。

無責任な、ごみの様な汚い言葉に晒され続けて、自分の下らない人生はあっさり終わるんだろうか。だとしたらそれ、とても笑えるなー。まあ、誰も笑ってはくれないんだけど。

(いつでもここにおいで。)

つい先刻かけてもらったばかりの木内の言葉がリフレインする。美奈子は息苦しさを覚え、その場にうずうまり身動きが取れなくなってしまった。そのさまを見下げた母は、「何アピールだよ」という言葉を美奈子に刺して、部屋を去っていった。

母に無断で奥多摩よつばクリニックへの通院をはじめたことがばれた時にも、美奈子は激しく罵られた。指定医療機関以外の受診では、制度の1割負担が適用されないからだった。しかし、母の言葉などはもう、良くも悪くも彼女の心を動かすことはできなくなっていた。

***

裕明はしばらくは眠ったままになるだろうと木内は見立てた。人格交代には猛烈な体力気力の消耗が伴う。それを連発したのだから当然といえば当然なのだ。そんなことはわかっている。しかしながら、裕明の穏やかな寝顔を見ても、岸本の心の中は穏やかではなかった。

白い部屋の白いベッドの上で、裕明は安らかな寝息を立てている。深い休息とモラトリアムが、彼には必要なのだ。今も昔も、おそらくこれからもずっと。

岸本は裕明の手に施したガーゼ布に一瞬だけ触れ、やはり白いタオルブランケットを彼に掛けなおすと「ごめんね」と呟き、白い部屋を後にした。

静かに扉の閉まる音で、おもむろに裕明のまぶたが開かれたことに、「誰も」気づいてはいなかった。

***

「戸籍上はまだ両親の離婚は成立していない。ということはあの捜索願は無効ということにならないか?」

木内がそう迫ると、若宮は頭を抱えた。

「無効どころか虚偽だろ……。もういい、あの書類は見なかったことにする。当然、不受理に変更されるだろう」

若宮が吐き捨てると、木内は内心で胸を撫でおろした。

「ところで――」

若宮は木内の顔を覗き込むようにして視線を合わせてきた。

「なんだよ、気持ち悪いな。もうすぐ外来開始時間だから、これ以上は手短に頼む」

「例の彼は、元気か」

若宮のいうところの「彼」とはすなわち、裕明のことだ。

「ああ、元気だよ。なんだよ、捜査にかこつけてあの子の情報まで得ようっていうの?」

「別に。そんな野暮なことしないさ」

「ははあ、刑事さんは野暮か粋かで仕事の判断をなさるんですね。さすが元警視庁捜査一課のエリートさん」

「嫌味かよ!」

「もちろん」

若宮はにやりと笑むと「よっこらしょ」と椅子から立ち上がった。

「いきなり悪かったな。この一件は貸しだ。そのうち『りんどう』でおごらせてくれ」

「ぜひレッドアイをお願いしまーす」

若宮は木内に背を向けると、去り際に一回だけ手を振ってみせた。

クリニック玄関の扉が閉じられると、木内は長くため息をついた。外来開始時刻まであと5分弱。否が応でも日常はやってくる。それがどのような色彩をしていようが、自分たちにとっての「日常」が、めまぐるしく。

隣の部屋から「あのー」と、医療事務のあおいが遠慮がちに顔を出した。

「あおいさん、ごめんね。もうオッケーです。準備しちゃいましょう」

ところが、あおいはこんなことを言いだした。

「今日、10分押しで外来開始とか、アリですか」

「えっ。なんで?」

あおいの発言に戸惑う木内。

「外、見てください」

あおいに言われるままに窓から外を覗きこむと、そこには傍らに自転車を停め、肩で息をしている美奈子が、真剣な表情で仁王立ちしていた。

第十五話 慈愛の罠(一)人殺し

第十三話 過日の嘘(六)声

カビはカビを生む。ホコリはホコリを呼ぶ。けれど、あなたはその原理に抗って、よく今日まで生きてきた。群れることなく日和ることなく、媚びることなく臆することなく、屈することなく生きてきた。だから私はもう、あなたを解放したい。あなたが私を許し、私を忘れ、あなたの人生として生きてほしい。ただそれが、私の願いだった。

「俺は君を忘れるなんてできない。君のいないこの世界には、もうなんの未練もない。だから頼む、一緒に連れて行ってほしい。そちらに、俺を」

私のせいね、あなたがそんなに苦しむのは。私さえいなければ、あなたは自由になれるのに。ごめんなさい。

「違う! 俺は君と一緒なら、どこにいたって構わない。肉体なんて所詮は借り物だ。そのことを、君が示してくれたじゃないか」

……。

「そうさ。君は『約束の樹』から世界を拒絶した。最高のアイロニーとして!」

そう……あなたは、あのメッセージを、そんな風に受け取ったのね。

「君はいつだって俺の最高だ。昔も今も、これからだって——」

「はい?」

「えっ?」

私は見たことのない水辺に立っていた。肌寒い風が頬を伝い、傾いていく太陽の光が目に刺さる。私のすぐ横には知らない男性がいて、私はその人と手を繋いでいでいた。気味が悪くて、私はすぐにその手を振りほどいた。

「……なんでだよ」

その男性は途端に、顔をくしゃくしゃにして、こちらをにらみつけてくる。

「どうして、そうやって君は俺を拒絶し続けるんだ」

「あなたなんて知らない」

「そんなことあり得ない」

「どうして」

「君と俺は、もう出会っているから」

「何言ってるの?」

「俺にも……わからない」

***

美奈子が小鳥のさえずりで目を覚ますと、心地よい日差しが簡易ベッドの足元に差し込んでいるのが見えた。こんな優しい光は、久しぶりに見た気がする。まるであたたかかった祖母のひざの上のようだ。美奈子はその光に触れようと、体を起こした。すると、なんとも香ばしくかぐわしい匂いが漂ってきた。扉が開いたかと思うと、ほぼすっぴんのメイが顔を出し、快活に「おはよう!」と声をかけてきた。

「あ、おはようございます」

「もうすぐできるよ、エミちゃん直伝パンケーキ♪ 朝はもう冷えるから、そのパジャマの上にハンガーにかかってるカーディガン着ておいで」

「はい」

夢を見た。へんてこな夢だった。よくわからないけれど、なんだか悲しい夢。手をつないでいた男性は、泣いていた? 逆光でちゃんと見られなかったけれど。

店内スペースに足を運ぶとすぐ、夢のことを考えるのがもったいないくらい、匂いからして美味しそうな焼き立てのパンケーキが美奈子の目の前に並べられた。

「わぁ!」

「途中でフォークでその黄身を少しずつ潰して食べてみて。味変するよ」

半分ほど食べ進め、メイの言ったとおりにパンケーキにのせられたポーチドエッグをつつくと、絶妙な火加減で仕上がった黄身がとろりと絡まり、まろやかな塩気がパンケーキ生地の甘さと相まったものだから、美奈子は口いっぱいに頬張ったまま思わず「おいひ〜い!」を連呼した。その様子を、メイは嬉しそうに眺めている。

「そこまで喜んでくれると、作りがいがあるってもんだ」

「だって、おいしいです」

「でしょう。エミちゃんの得意料理だからね。私が一番弟子」

ふくふくと幸せそうな表情で、美奈子は付け合わせのミックスベジタブルをつついた。

「いいなぁ。あそこのクリニックの入院患者さんは毎日、岸本さんの手料理を食べられて」

その言葉に、メイは「うーん」と首を傾げた。

「それは、どうなんだろう。本来は入院なんて、ずっとするものじゃないよ。それに、出されるのはあくまで病院食だから、メニューを考案するのは管理栄養士の川崎さんだし」

それを聞いた美奈子は、すぐに自分の発言の軽率さを反省した。自分は認識不足なうえにデリカシーに欠けていたと、メイに頭を下げた。

「別に、謝らないでよ私に。せっかくのパンケーキが冷めちゃうよ」

「すみません。でも、メイさんの言うとおりだなって」

「いーのいーの。気に病まないで。それにエミちゃん、喜ぶんじゃないかな? 自分のパンケーキをそこまで美味しそうに食べてくれる子がまだいること」

「『まだ』?」

メイは口を滑らせてしまったと一瞬顔をしかめたが、ナイフとフォークを皿の上に置き、唇に右人差し指をあてる仕草をした。

「ゆうべ、おしゃべりにつきあってくれたお礼ってわけじゃないけど」

「はい」

「占い師の勘がこう言ってるの。『美奈子ちゃんには、伝えなさい』って」

「なんですか?」

怪訝そうな顔の美奈子。しかしメイは確信をもってこんな告白をした。

「大昔の話。まだ木内ちゃんとエミちゃんが都心の病院に勤めていた頃ね。あの二人、息子さんを亡くしているのよ」

***

その日の朝、奥多摩よつばクリニックにはあまり積極的には歓迎されない来客がやってきて、木製の扉を何度も乱暴にノックしていた。外来開始時刻は十時だが、今はまだ九時前である。窓口の支度と受付の拭き掃除をしていたベテラン医療事務の山口あおいが、小さくため息をついて玄関に向かった。もしかしたら相当具合が悪いのかもしれないけれど、こちらにも労働者の権利があるといものだ。少し勘弁してほしいと本音では思う。

扉を開けると、ずんぐりむっくりとしたボサボサ頭にくたびれたスーツを着た壮年男性が立っていた。

「すみません、受付開始は九時半なので、それまで中のソファに座ってお待ちいただけませんか?」

その男性はスーツの胸ポケットに手を突っ込むと、あおいに警察手帳を提示した。

「青梅警察署の若宮と申します。おたくの院長さん、もう起きてる?」

「警察?」

「昨日付で捜索願が出されている『高畑美奈子』さんという女の子を探しててね」

あおいは反射的に「アッ」と声を出してしまった。

「何か、ご存じですね」

「院長を、呼んできます!」

あおいが足早に入院棟の方へと駆けて行く。若宮と名乗った刑事は待合ロビーの隅に置かれたソファーにどかっと身を沈めると、大きくあくびしたのちに短くため息をついた。

柱時計が勤勉に時を刻んでいる。あれは確か、あの二人が結ばれた時に先輩医師が贈ったと聞いたことがあった。

(幸せしか知らないことは、不幸だと思うんだ。)

あの時のあの言葉が果たして本気なのか強がりなのかは、未だにわからない。知る必要もないし、知りたくもない。

――『何も変わらないこと』を望むなんてのは、永遠を望むのと同じく傲慢以外のなんだというのだ。医者になるくらいオツムの出来がよけりれば、そんなことはとっくにわかっててもよさそうなものを。

「あー、若宮さん。ご無沙汰です」

紺色のポロシャツに綿パンという医師らしからぬいでたちの木内が、いつも通りのへらへら顔であいさつすると、若宮は鋭い眼光を彼にまっすぐ向けた。

「今だって医療法ギリギリで見逃してやってるんだから、下手なことはするなよ、木内」

「はいはい。いつも大変お世話になっておりますー」

「さっさと正直に言え。こっちも面倒は増やしたくない」

「事務の者から聞きましたよ。高畑さんですね。確かにウチの患者さんですけど、ここにはいませんよ」

若宮は咳払いをすると、タバコを吸うような仕草をして「ここも、吸えないの?」と舌打ちした。

「一応、ここ医療機関なんで。あ、でも呼吸器内科は隣町まで行ってもらわないと」

若宮は苦笑いする。こいつは昔から掴みどころがない奴だとは思っていたが、その人をけむに巻くような性格は現在も健在のようだ。

「で、心当たりは?」

「その前に、確認をさせてください。その捜索願は、本当に家族から出されたものですか」

「なんでそこを疑うんだよ」

「若宮刑事。っていちいち呼ぶのもわざとらしいか。若宮、これは捜査協力における第三者への個人情報の提供として受け取ってくれ」

木内はちらっとあおいのほうを見やった。あおいはその視線を察すると、「あっ、トイレットペーパー補充したっけ?」などと誤魔化しながら、その場から退場した。この臨機応変さにこのクリニックはこれまで何度も助けられている。あおいは貴重な戦力である。

他に聞き耳を立てている者がいないことを確認した木内は、イントラネットから引っ張り出した美奈子の電子カルテの画面を若宮に見るよう促した。

「まず、僕は昨日、彼女の家族つまり母親に何度も連絡を入れた。しかし繋がらなかった。次に、彼女の母親が積極的に捜索願を出すとは考えにくい。彼女は母親から徹底してネグレクトを受けているから」

「捜索願を出したのは、彼女の父親だぞ」

「それはありえない」

「なぜそう言い切れる」

「彼女の父親は、アルコール依存症で都内の精神科に入院しているからだ」

***

「どうせ、広瀬さんでしょう」

メイが奥多摩よつばクリニックからの電話の内容を美奈子に伝えると、先ほどまでのパンケーキの至福は一瞬にして吹き飛んでしまった。

「捜索願い? バカみたい。父親面したいだけじゃん」

メイは保留状態ので電話の受話器を握ったまま、美奈子に問う。

「どうする? このままじゃ、誰かしらが何らかの濡れ衣を着ることになるよ」

美奈子の顔色がカッと赤くなる。拳を握りしめ、悔しさを一切隠すことなく、こう宣言した。

「冗談じゃないです。悪いのは私。いつだってそう。だから、ちゃんと警察に自分で説明します。病院に戻らせてください」

メイは電話口で「本人が、これからそっちに行くって」と告げ、受話器を置いた。それから、すっかりしょげている美奈子に向かって、凛とした言葉を投げかける。

「『自分が悪い』という表明は、時として暴力よ。聞いた人に『そんなことないよ』って言葉を強要しているのも同然だから」

「別に、私はそういうつもりじゃ……」

「自分を責めて物事を済ませるのは卒業しなさいって言ってんの。そういうのを『欺瞞』っていうんだよ。OK?」

メイの言葉は辛辣に聞こえるが、どこかに不思議とぬくもりを感じた。ゆえに美奈子は、決して嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、持ち前のしなやかさで今のメイの教えを心に刻もうと、両手を胸元に置いて深呼吸した。その様子を見たメイは、口角を艶やかに上げてほほ笑み、美奈子にもう一台の愛車(電動アシスト付き自転車)の鍵を渡すと、彼女の頭をくしゃっと撫ぜ、

「美奈子ちゃん。自覚が足りてないみたいだから伝えるけど、あなたは、めちゃくちゃ魅力的な女の子だよ」

そう勇気づけて、美奈子を送り出した。この日の空は、突き抜けるほどの蒼をこちらへ向けていた。まるで美奈子のこれからに声援を送るかのように。

***

(わからない。わからないんだ。でも、「わからない」ことはわかってる。こういうのを「メタ認知」っていうんでしょう?)

裕明、また新しい言葉を覚えたのね。すごいね。

(別に褒めてほしいわけじゃないんだ。ただ、「わからない」から「わかりたい」。それだけのこと)

今、どんな気持ち?

(……暗い道に、ランタンが一個落ちていたんだ。僕がそれを拾おうとすると、それを手伝ってくれる手があった。その手はとても暖かくて柔らかくて。だから、僕は今たぶん、不安なんだと思う)

どうして不安だと思うの?

(だって、ひどく動悸がするんだ。その手の持ち主のことを考えようとすると、発汗と動悸がして、意識が飛びそうになる)

そう。ずいぶんと野暮な表現をするのね。

(え?)

裕明。人はそれを、「恋」と呼ぶのよ。

第十四話 過日の嘘(七)邪魔者

第十二話 過日の嘘(五)カード

美奈子がいなくなったことに混乱した裕明が「白い部屋」を飛び出し、そのまま院内のあちこちを彷徨っていたのと時を同じくして、入院棟の夜勤を担当していた看護師たちがある異変に気づいていた。夕飯を配膳しようとしたところ、件の男性患者が行方不明になったことが判明したのだ。

裕明を探していた岸本が、中庭の隅に設置されている物置小屋の扉が、中途半端に開いているのに気づいてためらいなく足を踏み入れると、その奥で掃除道具に紛れて、竹ぼうきを抱きしめるように、ほこりまみれで入院間もないその男性患者が震えていた。

「どうしたの」

岸本は驚きこそしたが、すぐに包み込むような体温に満ちた声をかけた。その青年は鬱々とした視線を乱暴に岸本に向け、こう吐き捨てた。

「俺、嫌です。スマホもネットも使えないこんな場所」

「しばらくの辛抱だよ。そのうち、きっと慣れるわ」

「こんなど田舎に閉じ込められて、俺の一生は終わるんだ」

「そんなことない。ここは、ずっといるべき場所なんかじゃないから」

自分でそう言って、岸本は良心の呵責を覚えた。

ずっといるべき場所なんかじゃない。そうだとしたら、裕明のことを——秀一のことを――自分自身にどう説明するのだろう。

男性患者はなおも苦悶の表情で、岸本を責めたてる。

「俺は、ここにすらいられないのかよ」

「えっ」

「どこにも俺の居場所なんてないんだ。俺は、どこにも、いちゃいけないんだろ」

彼はこちらをにらんでいたわけではなかった。苦しくて寂しくて虚しくて、ひたすらに泣いていたのだ。

「どうせ、俺なんて……」

岸本は、そんな彼の苦しみに少しでも寄り添おうと、こんな提案をした。

「君さ、手伝ってくれないかしら」

「え?」

「人探し。ちょっと面倒なんだけど……」

どんな人にも役割があり、果たす役目があり、その涙に意味があること。そのことを伝えたくて、岸本は青年に裕明の捜索を依頼した。

それがあのトラブルを招くなんて、この時の岸本は想像もしなかった。医療もとい治療の大前提には、相手との信頼関係があることを信じていたからだ。そして、その信頼関係の構築を怠っておきながら、やれ身体拘束だの隔離だのを合法の名の下に濫用する、この国の無残な精神科医療の現実もさんざん目にしてきた。それゆえ、この奥多摩よつばクリニックでは決してそんなことはするまいと、設立時に木内と固く誓っていた。

そんな岸本の想いとは裏腹に、青年の落ちくぼんだ瞳は汚い色を垂れ流しながら彼女の後ろ姿をじっと見ていた。

結局裕明を見つけることのできなかった岸本は、普段外来の待合として使っているロビーの固定電話から、『りんどう』に電話をかけることとした。木内には美奈子を駅に送り届けたら一報を入れるよう伝えていたが、一向に彼からの連絡がなかったことから、メイの元に寄り道をしたのだろうと直感したのだ。岸本の勘はなかなかのものである。

だが、木内に連絡するその前に、協力してくれた(と岸本は思っていた)青年に気持ちばかりのお礼をしようと、待合の事務室に医療事務の女性がひそかに机にストックしている菓子類をいただことして青年に背を向けた。青年は一度だけ舌なめずりをして、ポケットから百円ショップで買ったカッターナイフをそっと取り出し、音を立てないように刃を伸ばしていた。

一方その頃、自分でもどこをどう歩いたのかがわからないほどに院内を彷徨っていた裕明は、歩き疲れて結局「白い部屋」に戻ろうと体を引きずるように歩を進めていた。

外来棟と入院棟の間にあるわずかな幅の通路。普段はカーテンで隠されているそこをくぐろうとして、ふと視界にとある絵画が入ってきた。

あらゆる「赤」が塗りたくられた、美奈子が不気味ながらも惹かれたその絵は、他でもない裕明――正確には裕明の中にいる「彼」――が描いたものだった。だから、それはあまり目立たぬようひさしに隠れるようにして飾られていたし、実際気に留める者もほとんどいなかった。かといって破棄するようなことを、木内はしていない。それは「彼」の存在もまた肯定したいという木内の願いの具象化でもあった。

その絵画の「赤」は、裕明をひどく惹きつけた。まるでその場に強烈な引力でもあるかのように彼は絵に近づいて、そっと右手の中指で触れた。すると彼の頭部に突如、いつもの鈍痛ではなく鋭い激痛が走り、雷に打たれたように彼は、一瞬にして認識のけいれんを起こし始めた。

目の前で、記憶の断片たちが赤を基調とした極彩色で踊り狂いだす。それはとてもくだらないことだったし、下手で情けないサーカス団の反乱でもあったし、どこまでも寂しい自慰行為のようでもあった。

(雨、あめ)、

(ふれ、ふれ)、

(いや、降るな)、

(ねぇ、楽しかったね)

(ありがとう、楽しかったよ)

(楽しかった)

(嬉しかった)

(幸せだった)

<みんな、過去形だけどね>

「ああ……ッ! あ……?」

抵抗する術を知らないために、その場へ膝をついて崩れる裕明。彼はこれだけは確信していた。すなわち、

(自分が世界から気にもされない黒点に成り下がりさえすれば、きっと、みんなが幸せになれるんだ。ねぇ、そうでしょう、そうなんでしょう。)

と。

裕明の捜索をあきらめた岸本が「こんなものしかないけど」と青年に笑顔でのど飴と個包装のチョコチップクッキーを手渡す。青年が黙ったまま片手でそれを受け取ったのを確認すると、岸本は固定電話に向かった。

「まったくもう、あの人ったら……」

案の定、電話口には木内が出た。岸本はあきれるより先に焦りのほうが先行していた。もしも、裕明に何かあったら。その「もしも」をこれまで幾度乗り越えてきたかは数えきれないほどだ。しかしながら、先刻の彼の様子を見るにつけ、「ただごとではない何か」が起きようとしているのは、それこそ勘で確信していた。

「もしかしたら、美奈子ちゃんが『引き金』になったかもしれない」

そう言い終える前に、岸本の目に、カッターナイフの刃がチラッと入り込んできた。飢えた獣のような表情で、青年がこちらを今度こそ睨んでいる。

「そんな物騒なもの、どうするの!」

岸本の叫び声は、入院棟まで届くことはなかった。青年は低く呻き声をあげて岸本ににじり寄る。その手は、かすかに震えていた。

「誰も今から起こることを否定する者はいない。俺は世界に拒絶などされていない。それを、今から、証明してやる」

「やめなさい、やめて!」

青年が粗雑な挙動で岸本が落とした固定電話の受話器を戻し、電話を切ってしまう。そしてカッターを何度も振り回しながら、岸本に迫った。

「お願いやめて。誰もそんなことを望んでないよ」

岸本の言葉にも、青年は激昂する一方である。

「誰も! 俺を望まない!? 上等だ!」

「曲解しないで!」

岸本はたまらず両目を瞑った。覚悟をするほかないと感じたのだ。こうなることを予見できずに何が「女の勘」だろう。目の前の青年一人の苦悩にも寄り添えなくて、何が「看護師」だろう。これからきっと、自分には天罰が下るのだ。そうだ、これは秀一が与えた天罰なのかもしれない。

次に岸本の聴覚が捉えたのは、何かが強く壁に打ちつけられたような物音と「うわぁぁ」という、青年の叫び声だった。おそるおそる目を開けると、気絶して床に臥した青年と、己の左手から血を垂らしながら彼を冷たく見下ろす、「彼」の姿があった。

「あ、あなたは……」

岸本が掠れた声をかけると、「彼」はこの場に不釣り合いな柔和な笑みを浮かべ、

「俺は、ずっとここにいるよ。これからは、あなたの恩人として」

そう自分の胸元を指さした。そして、かつての殺人鬼の瞳を一瞬だけ壁に設えられた柱時計に向け、一方通行に進み続ける秒針の音を聞きながら岸本にこう告げた。

「俺と雪は、必ず結ばれるよ。それまでずっと、あなたたちには苦しんでもらうからね」

「まさか、あなた――」

彼の表情がすぐに歪みだす。岸本はかろうじて近くにあった椅子に腰をかけたが、全身からおぞましい汗が噴き出すような感覚に襲われた。彼がしばし両手で頭を押さえる仕草ののちに出現したのが、松木智行の人格であった。

***

スナックのカウンターに横並びになった美奈子とメイは、好きなアーティストやお気に入りの洋服のブランドの話にしばし花を咲かせていた。それからメイが鮮やかな手つきでタロットカードを混ぜ、その中から美奈子に一枚「直感で」選ぶよう促すと、美奈子は何の迷いもなく自分から一番近いカードを手に取った。選ばれた一枚を見たメイが「なるほど」と呟き、首をかしげる美奈子にこう説明をした。

「『運命の輪』の正位置だね」

「どんな意味なんですか?」

「幸運、成功、無限のひろがりを主に意味するの。あとは『運命的な出来事、運命的な結びつき、一目ぼれ』」

「一目ぼれ?」

「新しい恋のめばえ。環境の変化による問題の解決。こんなところかしらね」

美奈子はふーっと息を長く吐いた。メイはスナックのママではなく「ローズメイ」の顔で妖艶に美奈子に微笑む。

「獅子座に近しい乙女座の女性には、情熱的でやや猪突猛進なところがあるの。美奈子ちゃん、自覚はある?」

「えー……?」

「好奇心と正義感も強め。考えるより行動する派、とカードが言ってる」

「タロットカードが、しゃべるんですか?」

メイは「そうだよ」と即答した。

「カードの声を聞くの。こちらから、心を傾けるのね。すると聞こえてくるものだよ。不思議でしょう」

「へぇ……?」

「あー。やっと笑ったね美奈子ちゃん。あなた、どんだけ自分が世界一の不幸者だと思ってんのかと思っちゃったよ」

「そんなことないです!」

「で、何か思い当たるフシはあるかしら」

メイのその言葉に、美奈子は途端に顔を真っ赤にした。

「え、なに、もしかして本当に何かあんの?」

「い、いえ、いえいえいえいえいえ」

「あるんだね。わっかりやすいわー」

「ないないないないないない」

「『ない』が6回。偶数だから二重否定で強い肯定。だから『ある』認定」

「なんですかそれ!」

りんどうでの賑やかな女性陣の雰囲気の明るさは、同じ奥多摩町の中とは思えないほどだ。

美奈子にはまだ、知る由もなかった。自分が引いてはならないトリガーに指をかけたこと、それがある家族の「偽りの幸せ」を壊すことになること、そして「ふたり」を待ち受ける道に、長くしぶとい茨が蔓延っていることを。

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第十一話 過日の嘘(四)定規

岸本の気持ちを落ち着かせようと、木内は「深呼吸を」と彼女に促した。

「裕明に特段、おかしな様子はなかった?」

「野暮なこと言うのね」

「え?」

「『おかしい』って、まるでどこかに『おかしくない』って定規があるような言い方」

「ごめん、表現が悪かった。でも、いつもの裕明と何か違うところはなかった?」

岸本は少しだけ沈黙した後、「もしかしたら」と前置きしてこう漏らした。

「美奈子ちゃんが」

「え?」

「……『引き金』になったかもしれない」

木内は思わず美奈子の方をちらりと見た。美奈子は頬を温めながら、美味しそうにナポリタンのおかわりを食んでいる。

「まさか……そんなこと……」

木内がつぶやき終える前に、受話器の向こうから何かが落下したような大きな音がした。

「岸本さん?」

続けて、木内の耳に鈍い音が飛び込んでくる。岸本が受話器を落とし、それが床にぶつかったのだ。

「え、岸本さんどうしたの?」

すると受話器の奥から、岸本の怒鳴り声が聞こえてきた。

(そんな物騒なもの、どうするの!)

「えっ」

(やめなさい、やめて!)

「岸本さんっ」

木内の呼びかけ虚しく、電話は「その男」の手で無理やりに切られてしまった。

「まさか……」

木内の脳裏に、ある男の顔が一瞬ちらつく。しかしそれを振りほどくべくすぐに強く首を横に振った。

そんなはずはない。「あの男」は、二度と裕明を蝕まないよう、ガーディアン達によって封印されているはずだ。だから、そんなはずは、ない。けれど、「絶対」はこの世に滅多に存在しないこともよく解しているので、木内は固唾を飲んだ。

「なんかあったの?」

メントール系のタバコに火をつけながら、メイが木内に問う。木内にいつものようにヘラヘラする余裕はなく、受話器をそっと戻すと、メイにすがるようにこう答えた。

「メイさん、スクーター貸して」

「いいけど、美奈子ちゃんどうすんの?」

「ごめん。あとで連絡する」

「どうしたの」

「もしかしたら……『あいつ』が現れたかもしれない」

「『あいつ』?」

「多田」

その名前を耳にしたメイは、顔をひきつらせることを拒絶できなかった。

「まさか、やめてよ……」

「頼む。必ずガソリン満タンにして返すから」

「そんなことはどうでもいい。これ使って。地面が相当ぬかるんでるから、気をつけてね」

冷蔵庫に掛けられていた四つ葉のキーホルダーを渡したメイに何度も頭を下げ、木内は店を飛び出してスクーターのエンジンを全開にし、去っていった。

「え、あれ、先生?」

メイは何も知らずにおかわりのナポリタンを完食した美奈子に、人差し指をピンと天に向けて、

「美奈子ちゃん。今晩はウチに泊まってきなさい。朝食に、エミちゃん直伝のパンケーキをふるまうよ」

と提案した。

「パンケーキ⁉︎」

目を輝かせる美奈子。しかしすぐに、「でも、家族が……」と表情を曇らせる。メイは美奈子の肩を一回だけ強めに叩いた。

「何度もかけたのに留守電にもならなかったのは、別にこちらの落ち度じゃないでしょ」

「でも……」

「何かあったら、クリニックの……というか木内ちゃんの責任。それでいいじゃない」

「そんな」

「わきまえるの。これ大事。でもってそれは『我慢』とは別物」

「え?」

「自慢じゃないけど、我が家は毎日ヒノキ風呂なんだよ。この店を開いたときに、青梅商工会議所の会頭の息子さんがプレゼントしてくれたの。まあ、自慢なんだけどね」

開店祝いが別棟のバスルームとは、なかなかの大盤振る舞いである。

「その代わり、泊めるのタダってワケにはいかないな」

美奈子が思わず持っていた鞄の中の財布を手で探り出したので、それを見たメイは首を一回だけ横に振った。

「お金なんていらないよ。ただ、今夜はおしゃべりに少々お付き合いいただこうかな」

「私、まだお酒は……」

「真面目だねぇ。今いくつ?」

「もうすぐ19歳になります」

「誕生日近いんだ」

「はい、今月の29日です」

それを聞いたメイは、両手をポンと合わせた。

「乙女座! 美奈子ちゃん乙女座だね。確かにそれっぽいわ」

「そう、ですか?」

メイはキッチンの奥に置かれた小ぶりのキャビネットから、タロットカードを取り出すと、カードの束を、慣れた手つきでさばいてみせた。

「あたしね、都心にいた頃は占い師やってたの。『ローズメイ』って名乗ってね」

「ええっ!」

突然の告白に驚きを隠せない美奈子。その素直な反応に好感を持ったメイは、

「ねぇ、美奈子ちゃんのこと、占わせてくれる?」

とウインクした。

***

往来のほとんどない道路を、制限速度を大幅に超過して木内はスクーターを爆走させた。信号の赤で引っかかることがない土地柄に感謝せずにはいられなかったが、それ以上に彼の中では焦燥感が優っていた。

(自分のやりかたは、やはり間違っていた?)

(奥多摩という環境に、甘えていただけか?)

ぼんやりとあかりの灯ったクリニック入口にスクーターを停めると、木内は固定電話の置いてあるロビーへと階段を駆け上がった。

「岸本さんっ」

息の上がった木内が扉を全力で開くと、その視界に異様な光景が飛び込んできた。

少し前に入院してきた二十歳の男性患者が、裕明に取り押さえられてぐったりしている。傍らには血が付着して刃の欠けたカッターナイフが落ちており、そのすぐ横に置かれた椅子の上で、岸本が真っ青な顔をして座り込んでいた。

「大丈夫か!」

木内が岸本に駆け寄り、目立った怪我がないことを確認する。岸本は震える声を絞り出した。

「私より、裕明が」

顔面蒼白の岸本が、裕明を指さす。木内が振り返ると、獣のような鋭い瞳をたたえた青年が、同じ年齢くらいの男性を力づくで押さえつけていた。

「裕明……じゃ、ないね。君は、智行かい」

呼びかけられて、青年の瞳が細められた。

「もー危なかったよー。コイツ、勝手に持ち込んだカッターで岸本さんのこと、襲おうとしちゃってさー」

彼は軽薄な口調で、重々しい現実を吐いてみせる。間違いなく裕明の人格は今、松木智行——夕刻に美奈子の前に現れた男——であると、木内は確信した。

それがわかると、木内は正直なところ胸をなでおろした。裕明に出現している人格が「あの男」ではなかったからだ。

裕明——もとい智行に取り押さえられているのは、都心の病院から家族との関係悪化のために病状が悪化して医師が匙を投げたために転院を余儀なくされた、大学休学中の男性患者だ。

その彼がなぜ愚かな行為に及んだのかを詰問はしない。すべきではないし、そんなことをしたところで何の解決にもならないことを、木内は心得ている。

「にしても、この味、ひっさしぶりー」

智行は己の左手のひらにできた裂傷から垂れてきた血をひと舐めした。この男性患者から岸本を引き剥がした際にできたものらしかった。それを見た木内の胸が痛む。

「ちゃんと、消毒しよう。雑菌が入ったら膿んでしまうよ」

「それより先に『コレ』、どーする? なんか、動かないんだけど」

木内は内線で、男性看護師2名を呼び出した。そしてすっかり気絶しているその男性患者の介抱を指示すると、入院棟へと連れて行かせた。

「あーぁ。何、アイツ独房行き?」

皮肉っぽく智行が笑う。その唇は自身の血で汚れており、まるでB級ホラー映画に出てくるキャラクターのようだった。

「そんなことはしないよ。このクリニックに保護室はないからね。これからじっくり時間をかけて、彼とは話をしたいと思う。それより——」

「まぁ、別にどうでもいいんだけど」

木内は岸本に寄り添い、彼女が落ち着きを取り戻すのを手を握ってじっと待った。柱時計の秒針が一周した頃、最初に口を開いたのは智行だった。

「アイツさー、困ってるよ」

「『アイツ』と君が言うときは、決まって裕明のことだね」

木内がそう返すと、智行はわざとらしく肩をすくめた。

「俺が他の誰に興味を持つってんだよ。当たり前だろ」

「裕明は、何に困っているんだ」

「自分じゃ絶対わかりっこないさ。免疫がないんだから」

「免疫?」

「有り体に言えばさー、ありゃあ、恋煩いだね」

「えっ」

「世の中には、あるんだろ? 『一目惚れ』って現象が」

ニヤケながら言い放つ智行に、木内は膝から脱力せざるを得なかった。

第十二話 過日の嘘(五)カード