きみが神さまを自称しはじめてから、いつも私は寂しい。自称だなんて胡散くさいし、そもそもどこから見てもきみは、至って平凡なサラリーマンだ。
なのに、きみは確固たる意志をもって自分が神さまだと信じている。笑えない冗談か、はたまた妄想に違いないのだけれど、きみは私のそんな疑念など、どこ吹く風なのだ。
クリスマスイブにデートなのはいいが、イルミネーションの道を抜けてきみが私を案内したのは、なんとよくあるイタリアンのファミレスだった。
ついに、私はきみに質問をぶつけた。
「神さまって、いったい何をするの?」
憮然とした私に対し、きみはあっけらかんと答える。
「何もしないよ」
わからない。神さまなんだったら、クリスマスイブにこんな賑やかなファミレスじゃなくて、お洒落なレストランでデートするくらいのことはできそうなものを。
「神は権力者とは違うから」
わからない。なぜきみが神さまを自称するのか。なんのメリットがあって、なんの目的があってそんなことを言い出したのか。
「じゃあ、神さまってなんなの」
ああ、私ってなんて優しいんだろう。きみの妄言に付き合ってあげている。そんな私の思い上がりを知ってか知らずか、きみははっきりとした口調でこう言った。
「神は、希望だ」
「え?」
きみは大真面目に答える。
「人々は神という『希望』に祈りを捧げているんだ。希望それ自体が能動的になにか変化をもたらすわけじゃない。ただ其処に存在し、人々の道標になる。強いていうなら、それが神の役目なんだ」
「……ふーん」
私は提供されたドリアの小海老をフォークで突っついた。
「でも、それじゃあ、きみの希望は誰が叶えるの?」
「それは……」
きみは一呼吸置いてから、ドリンクバーのウーロン茶をくいっと飲んだ。
「みんなの希望になることが、僕の希望だから」
「ふーん」
私は小海老を一口で頬張ると、フォークで掬ったまだ熱いドリアのライス部分に、ふうふうと息を吹きかけた。
湯気を立てる米粒の一つひとつにも、今さっき食べた小海老にも、いのちがあったのだ。私は、無数のいのちを摂取して生きながらえている。思わず、そんな途方もないことを考えてしまった。
きみは、ポトフのソーセージにフォークを突き立てた。
「優里」
きみが真剣な表情で私の名前を呼ぶ。
「優里の希望は、なに?」
私は窓の外に視線をやった。街灯に照らされたアスファルトの上で、木枯らしに街路樹の落ち葉が遊んでいる。街路樹にはイルミネーションがぐるぐる巻きつけられていて、どこが息苦しそうに見えた。
日がずいぶんと短くなった。今年はいつもに比べて暖かかったけれど、もうどっぷりと冬なのだ、と改めて気づかされる。明日になればクリスマス、街はほやほやのカップルにあふれ、手なんて繋いだりして闊歩するのだろう。
私の大切な人は、もう人ではないらしい。神さまになってしまったらしい。そのことが、どうしようもなく寂しかった。
どきどきしながらプレゼントを交換したり、白い息を弾ませて初詣に行ったり、バレンタインデーに手作りのチョコレートを渡したり。そんなどこにでもある日常は、もう戻ってこないかもしれない。こんなに好きなのに、もう私たちは、結ばれることはないのかもしれない。
なんでクリスマスイブに、こんな目に遭わなきゃならないんだろう。
——気がつくのは、きみのほうが早かった。
「優里、なんで泣いてるの」
ぽろりとこぼれてしまえば、あとはもう想いがあふれくる。それを止めるすべを、私は持っていなかった。
「なんで、じゃないよ。『なんで』はこっちのセリフだよ。なんで神さまになんてなっちゃうんだよ。私のことなんてどうでもいいんでしょう。きみはみんなの希望とやらになって、崇められていたいんでしょう。なんだよそれ。いくらなんでも、そんなの身勝手すぎるよ」
一気に想いを吐き出した私は、一度だけ鼻をすすり上げた。
きみはポトフのソーセージをよく噛んで飲みこむと、首を傾げた。
「優里は何を希望するの」
「なんにも」
「え?」
「なんにも、望まない。きみにはなんにも望まない。ただひとつ、希望することがあるなら」
「あるなら?」
「きみに、戻ってきてほしい。それだけ」
「……」
困ったな、ときみはつぶやいた。
「こうして隣にいるじゃない」
「人々の、希望として?」
「うん」
私は以前きみからもらった右手薬指の指輪に触れた。どこまでも冷たい感覚と感情が咽喉を下っていくのがわかった。
希望を叶えることが希望。どんなトートロジーだよ。
私はどこにでもいそうなOLで、きみはどこにでもいそうなその同僚。そうだったでしょう。そのはずだったでしょう。
私たちの日常に、神さまなんて必要ない——
「それは違うよ」
どこか荘厳な雰囲気すらまとわせて、きみは言った。食べかけのポトフを目の前にして。
「いのちがいのちを繋ぐ。奇跡が奇跡を呼ぶ。目に見えないところにこそ、真実は生まれる」
「何言ってるの」
「特別なことだと思わないでほしい。僕はあくまで優里のパートナーだよ。その僕が、神になっただけで、優里が絶望の類を抱く余地はない」
「どういうことよ」
「神として希望になるとは、絶望をも包摂することを意味する」
「え?」
「優里、優里の希望を僕は叶えられない。だから僕は、その責任を取らなきゃならない。いや、取らせてほしい。敢えていうなら、それが僕の希望だ」
それが、俗に言うプロポーズだと気づくには、少し時間がかかった。氷の入ったグラスがからんと鳴って、表面からテーブルにぽつぽつと水滴が垂れた。
……だから、どうして、そういうめちゃくちゃ大切なことを、よりによってこんなリーズナブルなファミレスで伝えるんだよ。
「言ったでしょ、神は別に権力者ではないって」
そういえば、クリスマスイブって、毎年、給料日の前日なんだよな。
目の前に差し出された小箱を見て、私は深くため息をついた。こうしてどこまでも不器用に結ばれるのが、私たちらしいといえばらしい。
私はきっと、いや間違いなく、これから先もこの自称神さまの隣にいるんだろう。それで、どこにでもいそうな夫婦になるんだろう。しわくちゃになるまで年を重ねても、きみは私の隣にいるんだ、ずっと、神を自称しながら。
わからない。まったくもって、わからない。そんなことだらけだ。
けれどまあそれも悪くない、そう思えた私のこころの中から、寂しさがするりと溶けていった。