第三章 さようならだけはいわないで

「お疲れ様」

捜査資料の作成で残業していた若宮の机に、インスタントコーヒーが置かれた。

「どうも」

若宮はパソコンから顔も上げずに返事だけした。するとコーヒーの差し出し主は、

「あまり詰めると体に響くよ」

と言って若宮の隣の机に座った。若宮の視界に、まだ新しいスーツの灰色が入った。若宮は、あっ、と内心で呟いてから、

「葉山警部補。ありがとうございます」

慌てて礼を言った。

「若宮さん、もうこの時間帯だし、かしこまらないでいいよ。僕だってため口だし」

「しかし……」

「階級とかそういうの、好きじゃないんでしょ?」

葉山はニコッと笑った。そこには一切の皮肉や嫌みは含まれていない。若宮はホッと息をついて、

「そうだね」

と言って、座ったまま大きく伸びをした。

「あーあ、この資料、明日までに作らなきゃいけないのに、ちっとも進まないんだよね」

「根詰めすぎだって。休み休みやらないと」

「まぁ、なんとかする。それよりも、警部補殿がなぜこんな場所に来てるの? 例の事件の捜査会議はもう終わってるのに」

若宮は不思議そうな顔をしてからコーヒーを飲んだ。葉山は、うーん、と息をついて、

「ちょっと訊きたいことがあってさ」

「私に?」

「まぁ、ね」

「訊きたいことって?」

葉山は一瞬だけ間を空けてから、なぜか二人しかいない部屋の中で声をひそめた。

「あのさ、『見えざる影』のことなんだけど」

それを聞いた若宮の表情が少し硬くなる。

「……それがどうかした?」

「本当に存在するの? 僕は資料の中でしか彼を知らないけれど」

「どうしてそんなこと訊くの。興味があるの?」

「興味というか……」

葉山は少年のような口調でこう言ってのけた。

「好奇心と探求心、かな」

若宮は長く息を吐いて、コーヒーで手を温めながら葉山を見た。彼はすぐにでも若宮が答えを出してくれると期待している顔である。

若宮は机を指先で叩き

「そんな理由じゃ答えられないよ」

と突き放した。だが、葉山は尚も、純粋に、そしてしたたかに食い下がる。

「答えられないってことは、それは存在を肯定していると受け取っていいのかな?」

「あのねぇ……」

若宮はちらりと自分の操作しているパソコンのモニターを見た。資料作成はまだ半分も終わっていない。

「悪いけど、私、忙しいから」

そう言ってこの話題を終わらせるつもりだった。だが、答えを貰えなかったにも関わらず、葉山はなぜかニコニコしている。

「何がおかしいの」

「若宮さんって、わかりやすいなって思って」

一瞬ムッとした若宮だったが、彼の純粋さに悪意を見いだせなかったために、腹を立てるには至らなかった。

「ごめん、邪魔しちゃったね。残業頑張って。それじゃ、僕はお先に」

葉山は自分の分のコーヒーを飲み終え、空になった紙コップを弄びながら帰っていった。

若宮はため息をついた。

好奇心や探究心。気持はわからないでもない。しかし、『見えざる影』こと篠畑礼次郎の存在は、この課のトップシークレットだ。もっとも、上層部は知っていながら彼を『有効利用』しているという認識のようだが。若宮のような若手が知ることができたのは、彼と若宮の父親とが仲良かった(という表現が適切かは不明だが)ことに起因する。悔しいが、そういう部分は『コネ』と言われてもしょうがない。

「なーにが『見えざる影』だよ……」

かっこつけちゃってさ。まぁ、本人ではなく周囲がそう呼んでいるだけなんだけど。

若宮は少しぬるくなったコーヒーを飲むと、今日はもういいや、とパソコンの電源を落とした。家に帰って作業しよう。オフィスに一人でいるというのは、合気道黒帯の若宮にもいい気分ではない。

帰り支度をしながらふと窓を見た。

「あ……雨?」

予報の外れた空からしとしと雨が降っている。困ったな、傘を持ってきてない。駅までは歩いて5分とかからないので、走れば何とかなるだろう。そう思って署を出ようとした時。

「お疲れ様」

出口で、葉山が待っていた。

「何やってんの」

若宮の問いかけに、葉山は無邪気に答えた。

「やっぱり気になっちゃってさ」

「やっぱり、って」

「誰にも言わないからさ! 教えて、あの人のこと」

「……そんなことのために待っててくれたの?」

「それもあるけど、ホラ」

そう言って若宮に折り畳み傘を差し出した。

「あ。ありがとう」

「貸しができたらまずいでしょ? だから等価交換」

傘を貸してくれたことと、トップシークレットを漏らすことが等価交換だとは到底思えないが。

「傘はありがたいけど、言えない」

「そう言わずに! 僕、絶対に誰にも言わないから」

「だったら知る意味なんて無いじゃない」

「そんなことない」

なぜ葉山はここまで食い下がるんだろう。若宮はその理由の方が気になってきた。

「葉山君、もしかして彼に診てもらいたいの?」

その質問に、葉山は無邪気さを失わないまま、しかしどこか影のある表情で

「うん」

あっさりとそう肯定した。見たところ、彼は健康そのもののように見えるが。いや、『篠畑礼次郎』の専門分野は人の内面、精神面だ。若宮のような素人がパッと見て判断できることではない。だが、

「心療内科なり精神科なら、他にいくらでもあるじゃない。何もあんな変人に診てもらうことない」

「いや、そういう問題じゃないんだ」

雨の中を二人が歩く。時折、対向車線から走ってくる車が二人の顔を照らすのだが、若宮は葉山の表情をよく確認しないまま歩を進めた。

「診てもらいたいのには、ちゃんと理由があるんだよ」

「どこか悪いの?」

「どこか、というかね。僕だけが感じている違和感があるんだ。その正体を知りたい」

「もう少し詳しくきいてもいい?」

若宮のその反応を、葉山は喜んだ。話題に興味を持ってもらえるということは、『見えざる影』に一歩近づけたと思ったからだ。

「僕の先輩に、土竜さんという叩き上げの刑事がいるんだけど」

「変わった名字だね」

「僕もそう思う……、けど、他に誰も何も言わないんだ」

「変わった名字なんていくらでもあるじゃない。名前で相手に違和感を覚えるのはいささか失礼じゃない?」

「いや、そうじゃなくて」

葉山は内緒話をするような口調でこう言った。

「その先輩、土竜なんだ」

「それ今聞いた」

「や、本物の土竜、だからモグラなんだよ!」

「……は」

若宮はむしろ葉山にこそ違和感を覚えざるを得なかった。一体何を言い出すのかと思えば、なんだそれは。

「モグラなんだ、とにかく」

「それ、いつ見た夢の話?」

葉山は、はーっと息を吐いた。

「やっぱり本気にしてもらえないか。若宮さんならわかってくれると思ったんだけどな」

「私、次の電車に乗りたいから、ごめんね」

「待って! 最後に、これだけお願い」

「何?」

葉山は鞄から一通の手紙を取り出した。封筒にはご丁寧に『見えざる影 様』と書いてある。

「何それ」

「これを、あの人に届けてほしいんだ。それだけでいい。これ以上君を困らせないから」

「んー……」

どうやら、これを受け取れば葉山は納得するらしい。それなら、ここで訳のわからない話を聞かされるより余程いいだろう。若宮は、

「一応、受け取っておくね」

と手紙をもらい、すぐに自分の鞄にしまった。

「ありがとう!」

葉山は嬉しそうな顔で言う。そしてきびすを返すと、さっきまでのこだわりが嘘のように軽やかな足取りで

「じゃ、僕は反対方面だから。またね!」

大きく手を振って帰っていった。

「……」

電車を待ちながら、若宮は迷っていた。奇しくも明日は、今回追っている連続女性殺害事件について篠畑にプロファイリングを仰ぎに行く日であった。

これを、渡していいものかどうか。この判断が、後の葉山の運命を決定づけるとは、この時の若宮には勿論、知る由がなかった。言わずもがな、葉山も自分の好奇心と探求心が、重大な結果をもたらすことになろうとは、欠片も思っていなかったのだった。