ほどける

窓辺には金木犀の香りまたきみがほどけるきっかけを生む

人の記憶は、匂いと強く繋がっているという。ウェブ記事で読みかじっただけの知識だから、深い理由や正確な仕組みはわからない。けれど、いま私のとなりにいる彼を見れば、そのことが実感として理解できるのだ。


半休の取れたとある秋の水曜日、私は昼ごはんもそこそこに済ませ、急いで帰宅した。自宅に到着したとき彼は、寝室でまだ横になっていた。遮光カーテンも開けず、掛け布団を頭からかぶったまま。起きた形跡がないので、ずっとこの状態だったのだろう。

その姿を確認すると、私はリビングに移動してソファに腰掛けた。スマートフォンから仕事のメールを返信し、長く息を吐く。

部屋の空気を入れ替えようと思い、公園通りに面している窓を開け放った。すると、ふわりと金木犀の香りが部屋に入ってきた。帰宅時には気づかなかった。きっと、それだけ気持ちに余裕がなかったのだと思う。

私はベランダに出てしばらくの間、公園でサッカーや鬼ごっこに興じる子どもたちの姿を眺めていた。穏やかな風が、ほどよく金木犀の香りを鼻腔に運んでくれる。

あの子どもたちのように、思い切り走って腹の底から笑うことを、もうしばらくしていない気がした。いつも誰かの何かを気にして――例えば評価や批評の皮をかぶった誹謗とか――心身ともにガチガチになっているような。

覚悟なんて、とっくにできていると思っていた。彼と一緒になると決めた時から、他の誰がなんと口出ししようと、ふたりだけのしあわせのかたちが存在するはずだと、必死に自分に言い聞かせてきた。

それでも、こんな風に弱気になってしまう私を、彼は責めるだろうか? もとい、責めてくれるだろうか?

「ごめん」

急に背後から声がしたので、私はスマートフォンを階下に落としそうになった。見れば、寝ぐせをつけたままの彼が、パジャマ姿で佇んでいる。

「びっくりしたよ」
「そう?」
「無理に起きなくてもいいのに」
「それこそ無理だよ」
「どうして?」

彼は私の質問には答えず、切れ長の瞳の奥を鈍く光らせ、こうつぶやいた。

「この匂い、きみは好き?」
「金木犀? うん、好きだよ。秋って感じがするから」
「僕は、怖い」
「怖い……?」

訝しむ私に向かって、ぼさぼさ頭の彼は、さらに眼光を鋭くして続けた。

「はじめて『ほどけた』のが、この季節だから」

金木犀の花

私は息を吞んだ。「一緒になる覚悟」だなんて言っておきながら、私はまだ彼のことを少しもわかっていないという事実を突きつけられ、背筋に冷たい感覚が走った。反射的に、「ごめん」と口走ってしまう。

「謝る必要はないよ」
「でも……」

やわらかい秋風が吹いて、今度は金木犀の香りをふたりに運ぶ。彼は一瞬だけ目を細めて、強くかぶりを振った。気まずい沈黙が訪れて、ややあってから、彼は我慢できないといった様相で、身をかがめて、くつくつと声を殺して笑いはじめた。

そのくぐもった笑い声が、私には、泣き声のような、あるいは祈りの声のようにも聞こえた。だから、私は小さく背伸びして、彼のぼさぼさ頭にぽんぽんと軽やかに手を置いた。

「部屋に戻ろう」
「……うん」


そんなことが十年前にあって以来、この季節になるといつも思うことがある。それは、覚悟なんてそう簡単には決められないということと、一緒にいることが進行形で覚悟なんだということと、しあわせのかたちに定義はないということだ。

今日、公園通りに面した部屋の窓を開けたら、ほのかに金木犀の香りがした。彼が生まれてはじめて「ほどけた」ときを想起させる匂い。怖い、と彼がいう匂い。

大丈夫なんだって、私はちゃんと伝えられているだろうか? 怖がってもいいし、乗り越えるなんてしなくていいし、なんならほどけたっていい。ただひとつ、となりに私がいることを許してくれるのなら、ほどけるきみの寝ぐせを、私は何度だって直してあげるよ、って。

今でも、ときどき、いやしょっちゅう弱気になる。なにもかも投げ出して、どこかへ逃げてしまいたくなる。だけど、そのたびに思い知るのだ。彼のいない人生を、もはや思い描くことが不可能な自分の姿を。

今年も、金木犀が咲いたよ。次の休日は晴れたなら、ちゃんと身支度をして、好きな服を着て、スニーカーを履いて、公園に散歩に行こう。もちろん、手をつないで。

怖くてもほどけてもいいきみがすきそれより強い理由などない