第十二章 素数

そういえば、彼女について何も知らない自分に気付いた。彼女の名前は知っている、笑顔は知っている、怒った顔も知っている。死に顔さえ知っていた。けれど、それ以上の何も、彼は知らなかった。十分じゃないかと笑う自分もいる。それでも、求めるだけの叶わない想いは、彼女のことをもっと知りたいという欲求にすり替わって、自然と葉山は足を向けていた――彼女が過ごした家へと。
一転して晴れた日だった。彼は雑踏を抜けて、通勤・通学の人々の流れに逆らって歩を進めた。水たまりが初夏の陽光を反射している。
職業柄、アパートの鍵を大家から借りるのは簡単なことだった。ここで一般人ならば単純な疑問が湧く。家主の消えたアパートがなぜ、そのまま残されているのか。しかし、その理由は至って無味乾燥なもので、『被害者の生前の情報を維持するため』だということを彼はすでに知っていた。知っていて、有効利用した。こういう時に、甚だ己が傅いている職に対して、相反した感情が生まれる。嫌悪と畏敬。不思議なものだ。
彼女の手を握るような気持ちでドアノブに触れる。温もりとは程遠い金属の温度が手に伝わり、葉山は果てない虚しさを覚えた。ずっと握り締めていたかったあの手は、あの日自分の中で冷たくなっていった。あの感覚は一生、忘れられないだろう。否、忘れてなるものか。
玄関を入って最初に目についたのは、下駄箱の上のサボテンだった。生という言葉から遠く離れてしまったようなこの無機質な部屋の中で唯一、それを主張しているかのように、瑞々しく棘を張っているが、その小ささが実に愛らしい。しかし愛でようと撫でれば突き刺さるあたりが、彼女そのもののような気がした。葉山はふっと息を吐いた。まるで、彼女に語りかけるように。すぐに、その行為の無意味さと殺伐さに、自嘲的な笑みが込み上げるが、それは目の前のサボテンに失礼だと思い引っ込める。
部屋全体は、葉山が想像していたよりも女性らしいというか、ある意味で彼女らしくない部屋だった。カーテンは黄緑色のドット柄だし、ラックにはカフェカーテンが引いてあるし、レース柄のテーブルクロスが丁寧に掛けられているし。自分は、自覚していた以上に彼女のことを知らなかったのかもしれない、そう思ったら余計に彼女が遠く感じられて――これ以上ないほど遠くにいるというのに――心に簾が入ったような悲しみがさぁっと広がった。もっと知りたかった、君の口から、君のこと。
僕は、君が望むように強くなれないかもしれない。今だって腰には、存在を静かに示す凶器が据わっている。認めなければならないのだ、自分は弱いと。その弱さ故に君を失ったと。自分を責めてそこに浸るわけではないが、どうしたってその事実は僕に影と落してしまう。影は僕の足元から伸びていて、いつだってこちらを見て睨んでいる、あるいは笑っている、ともすると手招きしている。
人はそれを何と呼ぶのだろう。有体に『狂気』? ……バカバカしい。単一の価値観で測れるものなど、図れるものなど、計れるものなどこの世には無いと、彼女が身を呈して教えてくれたではないか。もっとも、謀れる者は存在することもまた彼女の死が表している現実であるが。
葉山は一通り部屋を見渡してから、次第に視線の置きどころに困るようになった。彼女のことを知りたいとは思う。だが、何をどうしようというわけではない。知りたいから部屋に入った。それだけ見れば、まるで不法侵入のストーカーではないか。そういうつもりは毛頭ない、単純に知りたかった。知ってどうするという訳でもない。知ることに意味があるのだ。
ふと、動かし続けた視線が本棚で止まった。書類に紛れて立てかけてあったのは、アルバムだった。これは葉山の知的好奇心を掻きたてた。自分の知らない頃の彼女が写っているかもしれない。一瞬だけ、彼女とそれを見ながら、笑いあっている風景に思考を持っていかれて、葉山は小さく頭を横に振った。妄想もいいところだ。
いけないことだとわかっていても、手が自然に伸びていた。水色のB5サイズのアルバム。ゆっくり触れると、ビニールのバリっとした感触と、写真が離れる時のパリパリという独特の音がして、それは姿を現した。
大学生の頃だろうか? 確か彼女は合気道を習っていて、有段者だったはずだ。精悍な表情で構えを取っている写真だ。あどけない顔が真剣に相手を見据えている一瞬を撮ったものだろう。あまりにも彼女そのままで、葉山は思わずドキリとした。愛しい人の知らない顔を知るというのは、なんだかちょっとしたスリルだ。いけないことをしているという罪悪感と、彼女を知っていくその快感と、様々な感覚が葉山に、次々にページをめくらせた。大学の合気道サークルの合宿の時の写真は、珍しく髪が長かった。高校生時代に、父親と思しき人物と卒業式を迎えた時の写真は、照れ笑いをしている。ランドセルを抱きしめるようなポーズで友人数人と写っているのは、恐らく小学校高学年くらいだろうか。目元を見ればわかる、どれも、彼女だ。変わらずに彼女は彼女だった。

……君が強かった理由がわかった気がしたよ。君はきっと、一度も君から逃げなかったんだね。

葉山はアルバムを閉じて、再び息を吐いた。これは、ただのため息だ。デジタルの時計が午前10時を知らせる。彼女への思慕はいよいよ募るが、知りたいという欲求は満たされることがない。彼女からの言葉でなくては、意味が無いのだ。もう何物も、何人も、彼女の幸せを願うことができないという現実は、彼の不毛な想いを堰き止めることができない。むしろ助長してしまうのだ、追い求めるものは決してこの胸の中に去来しないのだから。
彼は未練がましいと思いながらも、もう一度アルバムを開いた。保育園のスモッグを着て、父親らしい人物と、むくれた顔をして写っている。不機嫌な顔だって可愛いと思える。目元がそのままだ。黒目の大きい、少しだけつり上がった、意志の強い目。左手に『わかみや いくこ』と名前の入った手提げバッグを持っている。胸元のバッジから察するに、キリン組だったようだ。小さな右手は、父親の手を嫌々握っているかのようで、少し可笑しかった。
「……」
不意に、葉山は違和感を覚えてアルバムを初めから見返し始めた。最初は、大学時代から。高校生、中学生、小学生、保育園――そこまでだ。乳児の頃の写真が無い。普通は、赤ん坊の頃に、一番写真を撮られるのではないだろうか。それはただの一般論か? それに――母親らしい人物が1枚も写っていない。
なんだろう、この感じは。そう言えば、この写真に写っているのが彼女の父親、若宮恭介であるならば、彼は確か数年前に『事故死』したはずだ。有名な話だ、彼は何と言っても警視庁の高官だったのだから。しかし、考えてみれば自分は何も知らない。情報として、何も知らされていない。警視庁の現役高官の突然死は多少、マスメディアに騒がれたものの、直後に確か政治家の大きな不祥事があって、あっという間に世間から忘れ去られたことだった。
胸騒ぎがする。彼は彼女のことをもっと知りたい、というよりは知らねばならないのでは、という想いに駆られた。本当に自分は何も知らなかったのだ。知らなすぎた。何より、知る前に彼女は逝ってしまった。

何が、あった?