第十二章 素数

文章にすればそれだけの疑問。だが、深い闇を孕んでいるような気がする。理屈ではない。ほぼ勘だ。だからこそ、それを信じていい時がある。自分を信じ始めた時と、誰かを強く思っている時だ。独善的な思考かもしれない。低俗な嗜好かもしれない。だがしかし、彼は次に自分がすべきことをどこか理路整然と考えていた。恐らく辿り着くのはあの人物なのだろう。それは確信に近い。だが、その前にするべきことがあった。
葉山は、その場で携帯電話を取り出し、懐かしい番号を押した。
「……もしもし、母さん?」

自分から連絡を取ることはまずなかった。入庁してからはずっと、東京で一人暮らしを続けていたし、それがレールに乗った正しい人生なのだと思い込んでいた。就職したら自立しなければ。そんな一般論に、自分もどっぷり浸かっていた。しかし、いくつになっても親は子を想い、子は親を想う。これは血の連鎖がなせる業なのだろうか、不思議とそれを甘えだと糾弾するものは少ない。
葉山は元々千葉県の出身なので、電話一本を入れて実家へ帰るのは簡単なことだった。千葉は東京で働く人々のベッドタウンの一つなので、交通の便も良い。それでも、なかなか彼が実家へ帰るどころか連絡をとらなかったのは、どこかでわかっていたからかもしれなかった――自分が、抑圧されて育ったことを。
若宮のアパートを出るために鍵をかけると、彼の決意は新たになった。カチリという無機質な音がした、その音が耳に届いた瞬間、葉山はぐっとドアノブを握りしめた。

待っていてほしい。もう少しだけ。
寄り道くらいは、許してほしいな。
そうしたら僕は、立ち向かうから。
ちゃんと君のこと、知らなきゃいけないって思ってしまったから。
それは身勝手な陶酔かもしれないね。
でも君は、笑ったりしないだろう?

山手線を日暮里で乗り換えて、千葉の奥へ続く路線に乗り換える。特に手土産は必要ないだろう、自分一人がふらっと帰るだけだ。数年ぶりとはいえ、改まるのも気恥ずかしいし、違う気がする。
ちょうど特急電車がきた。彼の実家には停車しないが、途中まで早く行くことはできる。平日の昼間とあってそんなに混んでおらず、座席を確保できた。少しだけ、電車の中でうつらうつらした。多少眠ったところで乗り過ごす距離ではない。
東京と千葉の境で、川を渡った。太陽の光を反射して水面がキラキラと光っている。通過は一瞬だったのでそれをじっくりと眺めることはできなかったが、綺麗だなと思った。どんな汚れた川でも、光を映して輝くことができるのだ。水底にヘドロが溜まっていても。
時間帯と地域柄だろうか、乗客には壮年の女性が多い気がした。ちょうど自分の母親と同じくらいだろうか。
特急から各駅停車に乗り換える駅に着いて、最初に目に留ったのはこの地元のバラ園の看板だった。確かバラ園は5月が観光客のかき入れ時で、そのバラの庭園の美しさには定評があるらしい。自分に植物観賞の趣味はないが、この地域一番のデートスポットだと聞いてまた、彼女のことが頭をよぎった。
乗り換えれば一駅で実家の駅に着く。今度は席に座らずに、葉山は懐かしい風景が徐々に広がっていくのを眺めることにした。ドラッグストアにスーパー。小さな喫茶店に、量販店。全てが変わりなかったことに葉山は多少驚いた。田舎だとはいえ、数年経っても何も変わらないというのも、昨今の開発ブームの中では珍しいのではないだろうか。降りた駅は相変わらず不便な作りで、改札が線路の片側一か所にしかないため、外へ出るには逆方向の電車が去るのを待たねばならない。この駅の中に踏切がある構造には、学生時代に遅刻しそうな時によく泣かされたものだ。
その踏切が開いて、狭い改札を抜ける。すると都会よりも澄んだ空気が胸に広がった。そのまま実家に向けて歩きだそうと階段を降りると、その先に、見慣れた顔があった。
「大志」
名前を呼ばれて、葉山は少しだけはにかんだ。どう反応していいのかわからなかったからだ。
「おかえり」
そう言われて、ますます彼は戸惑った。帰る場所。待っていてくれる人。そんなものはもう、自分にはないと思っていたから。
「急な連絡だったから。何も用意してないのよ」
「……いいよ、別に」
「ケーキ屋、寄ってく?」
「いいって」
「行きましょうよ」
そう言って半ば強引に手を引いてきた母の手は、若干しわが増えたように感じられた。
「相変わらず無愛想なのよ、あそこのご主人」
「そう」
「でも味は逸品だから、つい買っちゃうの」
「そう」
「大志の好きだったモンブラン、まだあるわよ」
「……そう」
ぎこちない沈黙が流れる。片田舎の小さなケーキ屋に入ると、都会のような洗練された雰囲気とはかけ離れた、生活感のある店内のショーケースに、手造りのケーキが並んでいた。
「好きなの選びなさい」
そう言われても。しょうがないので葉山は、
「じゃあ、モンブラン」
と余計な気を利かせた。こういうのにきっと疲れたから、自分は離れたんだろうな。きっと母は分かっていない。そして、母の愛情表現とやらも、自分には理解できていないんだろう。遠さを、感じた。途方もない、距離だ。今すぐそばにいるのに、何もわかりあえていない。分かち合えていない。しょうがないと、切り捨てるのに自分は時間がかかり過ぎた。自分を犠牲にし過ぎた。犠牲になった自分が、恨みの目で今己を睨んでいることは明白で、かといって母を憎むのもまた違うのだろうと思う。
「大志、どうしたの」
葉山はハッとして母を見た。すっかり考え事に浸っていたらしい。
「ごめん、久々に来たから、ちょっと」
「疲れたわよね」
「そうじゃないけど」
こういう嘘なら許されるだろう。疲れていないわけがない。しかしそれを今ここで口にすれば、母が自分を責めて終わるに違いない。
家へ向かう道、そこで再び母子は黙ったままだった。母が何を思っていたのかはわからないが、葉山は、これから自分が口にするつもりの言葉を何度も反芻していた。
戸建といっても小ぢんまりとした作りの2階建てだ。母が一人で住むにはいささか広すぎるような気もするのだが、以前母は笑いながら
「慣れちゃったわ」
と言っていた。
玄関を入ってすぐ、ポプリの香りがした。母の趣味だ。学生時代は、この香りが自分のシューズに移ることが嫌でしょうがなかったが、今となっては懐かしさが込み上げてくる。
母は慣れた手つきで緑茶を準備してくれた。それが来客用の湯呑に入ってきたことに、葉山は一抹の寂しさと安堵を覚えた。
「コーヒーの方がいいんだろうけど、私飲まないから……」
「十分だよ」
買ったばかりのケーキを並べて、添えられたフォークを手に取り、一口頬張る。少し甘みの強いマロンクリームが、疲れた体に沁みる様だ。変わらない味。ちっとも、何も、変わってやしない。リビングに置かれたリヤドロの置物も、古ぼけた掛け時計も、何もかもがそのまま。
自分は、こんなに変わってしまったというのに。
「どうしたの、今日は急に」
話を切り出してきたのは母の方だった。葉山はもう少しだけ郷愁に浸っていたい気もしたが、この流れに乗って思い切って話をすることにした。
「ごめん」
最初に出た言葉が、これだった。しばらく、母は何も言わなかった。葉山も特に焦りなどは感じず、ただ、どう言葉を繋げて良いのか、あれほど繰り返した言葉なのにいざとなると出てこない。
「何があったのかしら」
母の言葉は、当然の質問でもあり、ある種の優しさであり、またある側面では非常に無神経な言葉であった。葉山はモンブランを食べ終えて、フォークを皿に置いた。それが、自分にとっての合図だった。
「ありがとうだけは、伝えておきたくて」
「え?」
「ごめん」
葉山は、母の表情が見られずに深呼吸をした。
「もう会えないかもしれない」
母はショートケーキをつつく手を止めた。
「僕は、決めたから……。いや、何を言ってるんだろ、ごめん」
親相手に覚悟を、本心を話すというのは、こんなにも恥ずかしい事なのだろうか。異性に告白する以上の羞恥心が襲うが、母はじっとこちらを見ている。ここで自分が逃げてはいけない。
「覚悟したんだ」
「そう」
母は冷静を装ってお茶に手を伸ばす。その手が、この言葉で静止した。
「事件を追ってる」
「危険な任務なの」
「任務じゃない。使命では、あるけど」
「?」
「ちゃんと伝えておきたかったんだ。ありがとうって」
「何、変な子ね」
「そうかもしれない」
「職業柄、危ないのはよく分かってるわよ。今さら――」
「そうじゃない」
葉山は母の言葉を制し、続けた。
「ごめんね。しょうがないんだよ」
「わかったわ。好きな人でも出来たのね」
葉山は苛立ち以上の何かがこみ上がったのを自覚したが、ここで母に食ってかかるのはお門違いだと思い直し、
「外れてはいないかも、しれない」
つくづく自分は、優しいと思った。こういう無駄な優しさが、自分自身を追い込んでいったというのに。
「少なくとももう、ここには来ないから」
「何で?」
「そう決めたから」
「……今日は泊まっていく?」
「もう帰るよ」
「夕飯くらい食べていきなさいよ」
「いや」
葉山は自分を奮い立たせるために、辛い決断をしたのだ。
「母さん、ありがとう」
突然、母は泣きだした。しかしそれを卑怯だとか何だとか、責める資格が自分には無い。母には母の想いがあるのだから。きっとどこかでわかっていたのだろう、電話を受けた時から、いやもっとずっと前から、いつかこういう日が来ることを。
葉山はそんな母の姿を目に焼きつけ、一度だけ申し訳なさそうに俯いた。そうして、これ以上の未練が残らないよう、いつものように――学生時代にそうしたように、玄関を開け放ち、そのまま家を出ようとした。
「大志」
名前を呼ばれて、彼は立ち止まった。考えてみれば、自分を名前で呼ぶ人など、この世界に母しかいないのだ。立ち止まりはしたが、これが最後だと自分に言い聞かせた。
母は、憔悴しきった声色ではあったが、葉山に、こう告げた。
「……いつか、おかえりを言わせてちょうだい」
葉山は急激に何かが氷解するような気がして、怖くなってそのまま振り向かずに扉を閉めた。彼は必死に駅へ足を向けた。
これが、僕の弱さなんだろう。ごめん、本当に、ごめん母さん。
それでも僕は、行かなきゃいけない。
あなたに伝えられてよかった。
想いは、伝えなければ伝わらない。言葉はその手段の一つに過ぎない。声色、表情、目の色、抱いている本当の想いは言葉以外の場所に宿るとすら言われている。彼はそこから目を逸らして尚、そこに不動の愛や優しさがあったことを認められなかった。それが彼の弱さなのである。信じられない弱さ。それとの葛藤が、彼の戦いの本質でもあるのかもしれない。
本数の少ない電車を待つホームで彼は、住宅街に傾いていく夕陽を見た。
こうして今日も日は沈み、祈る者に試練の刻を与える。天啓などがボロボロ降り注ぐような星の綺麗な夜などは尚更だ。その時を控えて、夕暮れは次の朝を約束するように温かな赤色だし、見る者が見ればそれは誰かの断末魔のような紅である。
各駅停車に乗る。乗客は昼間以上にまばらで、彼は座席の端に座り込んで、今度こそ眠りについた。乗り換え駅に着く頃には、空も暗くなっているだろう。