第七章 正しい紅茶の淹れ方

「納得いきません」
若宮郁子の眉間には、すでにシワが寄っている。しかしそんな彼女の抗議にも、篠畑礼次郎は涼しい顔で読書を続けている。若宮は持ってきた書類の一枚を鷲づかみにして、篠畑に突きつけた。
「釈放ってどういうことですか。彼は重い罪を犯したんですよ?」
「そうですね」
「そうですね、って……それを教唆したのは他でもない、あなたでしょう」
篠畑はゆっくりと首を傾げ、
「僕は、何も」
「もう!」
若宮は、篠畑の余裕はもとより、自分一人が興奮していることに腹が立っていた。
なんか、悔しい。すんごい悔しい。
「いいえ、いいんです。そうやって先生がしらばっくれるのなら、私にだって考えがあります」
「ほう」
「もう一度、彼に会いに行きます」
若宮の言葉にも、篠畑は興味なさそうに視線も合わさず、ふーん、と頷くだけである。
『彼』の釈放の一方を聞き、他の仕事を投げ出してすっ飛んできた若宮にとって、今の篠畑の態度は腹に据えかねる。
言いたいことはいっぱいあるのだ。篠畑に対して、そして『彼』に対して。
若宮は逃走ほう助の処罰として、3か月の減給処分を受けた。しかし、たったそれだけで処分が済んだことに、またしても署内の風当たりは強かった。それでも、若宮は気丈に粛々と仕事をこなしていた。
――正直、忘れた方がいいのだろうとも思った。
忘れたいとすら思ってしまった、あの日の出来事は。
しかし、彼が釈放されて『いた』という事実を知らされた、つまり若宮が直接はその事実を知らされずにいたのだ。
冗談じゃない。
何がどう『冗談じゃない』のかは自分でもよくわからなかったが、とにかく納得いかなかった。
背後には一連の騒動を揉み消した権力の存在が見え隠れする。縦割りの世界だ、しょうがないといえばしょうがないが、しかしそれ以上に気になったのはさらにその奥に潜んでいる、篠畑礼次郎の存在だ。
『彼』――葉山大志が釈放された理由には、恐らく篠畑が絡んでいる。
篠畑礼次郎は身分こそ『元・死刑囚』というあまりにも漠然としたものであるが、その影響力は若宮が想像するよりも大きいものだと言える。表舞台に出せない事件の処理など、捜査班が行き詰まった時に『利用』される存在。『見えざる影』。それが篠畑の、いくつかある呼び名の一つだ。
「……バッカみたい」
これは、あの騒動以降若宮に染みついてしまった口癖である。
若宮はなるべく興奮を抑えようと、篠畑の淹れた紅茶を一口飲んだ。
またしても悔しいが、それがその辺の喫茶店なんかより余程美味しいのである。若宮が長く息を吐くと、篠畑は笑い、
「溜息はお嬢さんには似合いませんよ」
「子ども扱いしないでください」
「……正しい紅茶の淹れ方を守れば、こんなにも美味しい一杯が入るんですよねぇ」
「あー。自画自賛ですか」
「僕のは我流ですけど」
「それが何か」
明らかにイラついている若宮に、篠畑は諭すようにいった。
「我流が正しい。とんだ驕りだと思いませんか」
「思います。殊に貴方に関しては」
若宮はここぞとばかりに言い返してやる。
だが篠畑にはノーダメージで、それどころか彼は余裕の笑みを湛えている。
面白くない若宮は、お茶受けのクッキーを口に放り込んだ。
「僕ほど謙虚な人間もそういませんがね。若宮君にはわからないのかな」
「自分で自分を謙虚だと言うほど傲慢な人間もそういませんがね」
わざと篠畑の言葉を真似てやる。
だがそういう幼いところが篠畑には、かっこうのつけ入る隙に見えるのだ。
「会いたければ、会えばいいんです。僕は別に止めませんよ」
若宮はダンマリしてしまう。篠畑にはお見通しだったのだろうか、若宮自身も気づいていない彼女の本心を。
確かに、納得いかない。事情を知りたい。知らなければならないと思う。
しかし、本当は、怖いのだ。
葉山に会うのが怖いと思っている自分に、彼女自身まだ気づいていない。
意外かもしれないが、そもそも、篠畑は『優しい』のだ。その優しさのベクトルが少し間違った方向に(若宮に言わせればとんでもない方向に)向いているだけ。目の前に苦しんでいる人がいれば、『楽にしてあげたい』。免許をはく奪されたとはいえ、元は医師である、その想いは今もなお変わらない。
だから篠畑は、紅茶の葉を取り出してこう言った。
「今年のファーストフラッシュです。最高の香り。ですがこの葉は、お湯が無ければただの枯葉だ」
「それが何か」
「誰かがお湯をかけなければ、この葉は永遠に缶の中。何の役にも立たないまま」
「何がおっしゃりたいんですか。先生に詩を詠む趣味なんて、ありましたっけ?」
嫌味を込めて若宮が言うも、篠畑は逆に水を得た魚のように、突如として朗々と、
「……こころという名の劇場に、また雨が降る……雨が降る」
「は?」
「寺山修司の詩です。ご存じない?」
「私に詩を読む趣味はございません」
「このレベルは当然の教養じゃないですか」
「悪かったですね!」
キーキー言う若宮に、篠畑は破顔一笑だ。
「とにかく! 私は彼に会いに行きます。いいんですか」
「何がですか?」
「だから、私は彼と会っていいんですか」
「それは、僕に問うているのですか。それには僕の許可が必要なんですか? それとも、僕に背中を押してほしいんですか」
「えっ」
意外な言葉に、若宮はたじろいだ。図星なのだ。そう、若宮は篠畑に、自分の背中を押してほしかった。
保証が欲しかったのだ、彼と会ってもいいよ、という言葉が。
しかしそんなことを自覚している若宮ではないので(自覚したとしてもすぐに認める彼女ではない)、篠畑が意地悪く自分を試しているのだと思い、ここでぐっと堪えて無理やり笑顔を作った。冷や汗が浮いて見えるが。
「あなたの許可なんて結構です。私は、ただ抗議に来ただけです。彼の釈放を許可した。先生、あなたが彼の精神鑑定を行ったことは今さら言うまでもありません。その結果を踏まえて、なぜ釈放を許可したのか、その理由だけは聞かないと、私の気が治まりません」
一気に捲し立てるように言う若宮に、篠畑は茶葉をしまいながら、
「君にしては、面白くないことを聞くんですね」
そう言って苦笑した。
「どういう意味ですか」
若宮の語気は自ずと強くなる。
「決まり切った答えが聞きたいのなら、答えて差し上げてもいいですよ」
「は?」
若宮は篠畑を睨もうとした……が、その視線が、瞬時に凍りついた。篠畑の表情が豹変したのだ。
彼の口元に湛えた笑みに不穏な色が混じり出す。それは、篠畑が篠畑たる所以といっても過言ではない、純粋すぎる色。茶色がかった篠畑の瞳は若宮を射抜くような鋭さを持ち、戸惑う若宮を捕らえた。
それでも気丈に若宮は、
「何を……おっしゃりたいんですか」
篠畑がとうの昔に人間の心を弄び始めた事は、わかりきっていた事だというのに。わかっていても翻弄される自分がますます悔しい。
篠畑は目を細め、ふふっ、と笑ってから、
「面白くなりそうだからですよ」
「え?」
「僕が、葉山大志に釈放を許可した理由です」
やはり、葉山が釈放された背景にはこの人物がいた。
篠畑の言葉は、若宮にも予想できたが、しかし理解には窮する。
「何が、面白くなってくるんですか」
愚問だな、と自分でも思った。だがここで、篠畑の言葉を聞かなければ怖くて、先に進めない気すらした。
悔しいが、篠畑の言葉から何らかの導きを得たかったというのが本音である。
「――それは無意味ですよ」
「え?」
「僕の言葉は無力です」
「……とても、『見えざる影』のセリフとは思えませんね。あなたの言葉で何人もの人生が躍らされた。葉山君だってそうです。あなたの言葉は凶器になる」
「言いがかりですよ、それは。仮にそうだとしたら、若宮君、君は今、凶器の力を借りようとしていることになりませんか?」
若宮はすっかり気分を害した――本心を見抜かれた居心地の悪さやら、篠畑を頼ってしまう悔しさやらで。
「もう、結構です」
若宮は書類を乱暴に掴むと、『拘束された自由』の空間から出ようとした。すると篠畑は、表情をいつもの柔和な笑みに戻して、手をひらひら振りながら、
「敢えてアドバイスさせていただけるのなら――」
若宮の歩が止まる。
「彼が誰であっても、信じることでしょうね」
「………しばらく、ここには来ませんから」
「それは寂しいな」
「心にも無いこと言わないでください」
早足で遠ざかっていく若宮の足音を聞きながら、篠畑はクスッと笑い、出しっぱなしにしておいた紅茶の葉を弄びながら、
「そうして舞台は再び、か……」
そう呟いた。

神などこの世界には存在しない。信じるだけで救われる都合のいい教えとやらには、必ずと言っていいほど裏がある。人が、深い苦しみや悲しみから逃れるために、そして激しい葛藤から抜け出すために、一つの教えに固執して楽になろうとすること自体は、篠畑は否定しない。ただ「面白くない」とは思う。
せっかく用意された舞台があるのならば、そこで手足が千切れるまで踊り狂えばいいのに。そうして自分を解放してしまえばいいのに。どうして、『彼』にそれが理解できないのかが、篠畑にはどうしようもなく可笑しかった。