雪解けは終わりの合図、春
そしてきみは言うんだ
「はじめまして」って
笑顔が似てきたね、と藍子に言われて以来、ときどき鏡に向かって笑ってみる自分がいる。よく夫婦は似るものだと言われるけれど、私たちも例外ではないようだ。
「では、あなたはご自身のアイデンティティの一部として病気を認識しておられると?」
灼熱の真夏、クーラーの効いているはずのコーヒーショップの一角が、やけに居心地悪く感じられた。私は「精神保健に関するインタビュー」として大学生から話を聞かれている。
この女子大生は精神保健福祉士とやらを目指していて、卒業論文のテーマが精神障害者の生活に関することらしい。ふわっとしか覚えていないのは、私がそれに全く興味がないからだ。
アイスコーヒーも飲み終わってしまったし、そろそろ解放してほしい。日常生活や仕事のこと、さらには発病当時の様子や入院経験について、根掘り葉掘り尋ねられた。もう出すネタはないというほどに話したのだから、相手の気も済んだだろう。
そう思っていたときに投げられたのが、先ほどの質問だった。——アイデンティティ? 病気が?
「でもそれって」
私の返答を待たずに、その大学生が話しだす。
「ちょっと無理があるっていうか、美化してるなって正直思います」
「そうですか」
「だって、治療が必要なんでしょう。病気は病気なわけで」
こういう思考回路の持ち主でも、マークシートを塗り潰す国家試験をパスすれば立派な「専門家」になるのだろう。私はコーヒーのグラスを軽く指で弾いた。汗がひたいに浮かんだ。
大学生はさらに「障害は障害なわけだし」と加えた。
私は席を立って、「卒論、頑張ってください」と言い残して去ることにした。大学生は、言いたいことを言いたいだけ言っておきながら、恭しく首を垂れた。わざとらしいなと思うのも面倒に感じられた。
「……ってことがあってさ」
ことの顛末を話すと、藍子はため息をついて「ごめん」と謝ってきた。
「ウチのゼミ生が、とんだぶっ迷惑かけました」
「いや、もう別にいいんだけど、一応報告しておこうって思って」
藍子は若くしてとある大学で教鞭を取っている。ゼミ生のなかで精神保健福祉専攻の学生がいて、ぜひ障害当事者の生の声を聞きたいとのことで、友人である私に白羽の矢が立ったのだった。
「確認の意味も込めて、査読にも協力してもらえないかな」
「えー、聖域じゃんそんなの」
「そんなかっこいいもんじゃないって」
私が承諾すると、藍子は「サンキュ」と言ってからため息をついた。苦労が多いんだろうな。
一連の出来事を夫に話すと、夫は「ふうん」と淡白な返答をした。
「その学生は、要は資格がほしいんでしょ。資格を取って何がしたいのかじゃなくて。典型的な手段の目的化じゃないの」
一刀両断。夫には容赦がない。あの女の子、インタビューしたのが私でまだ良かったかもしれない。
「病気がアイデンティティの一部? 専門家が好みそうな表現だね」
「なんかさ、言い返すのも暖簾に腕押しかなって、虚しくなっちゃったんだ」
「だろうね。わからない人にはどうあがいても一生わからないものだから」
それは、確かにそうだ。何々論だか何々学だかをどんなに修めたところで、実際その感覚というか世界というか、視界というべきか、それらを解することなどできない。
そもそも、「それ」はアイデンティティの一部に収まるようなシロモノではない。よくわからない薬をしこたま飲まされて、ようやく制御できる(ような気がするだけの)化け物のようなものだ。
医師も家族も、その異常性にしか着目しなかった。ひとりの人間として「それ」に囚われるに至った苦悩や葛藤があることに、誰一人寄り添ってくれなかった。
孤独は「それ」の好物だ。私は病室のベッドで白い天井を見つめる日々を、夫は保護室と呼ばれる隔離部屋の灰色の壁を力なく叩く日々を強いられた。
けれど全部、昔話だ。決して笑って話せる日は来ないのだけれど。
孤独と孤独が出逢って——ふたりになった。モノクロの日々が、少しずつ色彩を取り戻していく。私たちはまさに今、その途中にいるのだ。
インタビューを受けてから数ヶ月後、卒論の口述試験があると藍子から連絡をもらった。さすがにその場に行くことはできないが、件の卒論のサマリーをメールでもらうことができた。
案の定、ため息すらためらわれる内容だった。この吉沢という子には悪意はない。だから余計に、気が滅入った。
藍子には申し訳ないが、査読は断った。調子を悪くしてしまいそうだったからだ。
あのよくわからないインタビューから季節はずいぶんと進んで、春を待つ時季となった。春先は精神的に調子が崩れやすいとされている。あまたの命が蠢くせいだろうか。
夫が連絡もなくなかなか帰ってこない日があった。仕事が長引いているのか、誰かと食事にでも行っているのだろうか。LINEの一本もくれたらいいのに、と思ったが、ふと冷たくぴんとした予感がした。考えるより先に、私はスニーカーに薄手のコートを着て外へ出た。
自宅マンションのすぐ近くを、一級河川が流れている。「あ」と私は声を出していた。
河川敷にうずくまる影。見間違えるはずがない。
「なにやってるの」
私が声をかけると、きみは両目をぎょろりとこちらに向けて、怯えきった声でこう言った。
——はじめまして。
だから、私も応じる。
——はじめまして。
そうして、手を伸べてきみの頬に触れる。その手をきみは冷え切った手で握り返す。
「おかえり」
きみは「死にたい」とつぶやく。私も「そうだね」とつぶやく。
これが、私たちの日常なんだ。そうたやすく論文になんてされてたまるか。知った顔をされてたまるか。私は、いやふたりは、夜空に向けて中指を立てる。