第十一章 因果

朝は繰り返しやってきては、人々にまやかしの希望を与える。救いの光を、人々が縋りたがる光を、天からボトボト注ぐのだ。陽光はそれこそ毎日、沈むことで容易く人々を裏切り続けているというのに。
彼女に、新しい朝はやってこなかった。どこまでも深くふくよかな闇に抱かれ、二度とあのあどけない瞳を開くことはない。その事実がどこまでも残酷に自分を追い詰めるが、それを理由に自分を見失うことは決してしたくない。彼女が望まないし、何より許さないだろう。
「何やってんの」
と、叱られることはまずないのだけれど。
運ばれてきた紅茶に口をつける。代官山のカフェ「57」の店員は、先ほどから忙しそうに動き回っていて、この街で一人、スーツ姿で来店した自分に気を留める様子はないようだ。どう見ても浮いて見えるだろう、しかしこれがいわば制服でもあるため、しょうがないとも思う。そして自分には残念ながらファッションへの興味がない。
それでも、カフェに来ているカップルを見ると純粋に羨ましいと思う。あんな風になんてことなく、彼女と手をつないで紅茶が飲めたら。それは絶対に叶わないことだとわかっているが、そう考えずにはいられない。自分も、随分と凡庸で平和な願望を抱くようになったものだと思わず可笑しくなる。しかし一人で笑う訳にもいかないので、紅茶に視線を落として感情を噛み殺した。
紅茶の揺らぐ水面に映った自分の表情、その眼に一瞬だけ気を奪われる。いけないとわかっていても、囚われそうになるあの感覚は今も自分の中に存在していて、確実に自分を蝕んでいるのだ。
それでも、自分が自分でいられるのは、他でもない彼女が文字通り命を賭して守ってくれたものだから。それは忘れてはいけないことだし、『他の誰』にも譲ってはならないものだ。仮令それが、自分が手にかけて奪った魂の、呪いのような因果であっても。
意識が遠くなる前兆とでも言おうか、耳の奥で誰かが呼んでいるような、世界が歪んでしまったかのような不快感が復活する。それでも、それはカフェの中の雑多な物音だと自分に言い聞かせて、彼は呼吸を整えるために紅茶を一気に飲み干した。味わう余裕などなかった。こんな飲み方をしたら、彼女に呆れられるだろうか。それとも、笑われるだろうか。 ……笑って、くれるだろうか。
空になったカップの底にわずかに残った雫を見ていたら、急に強烈なもどかしさと寂しさが襲ってきた。
「一緒に美味しい紅茶、飲みに行こうね」
そう言ってニッコリ、というよりは意志の強い瞳でニヤリと笑ったあの顔が忘れられない。脳裏にこびり付いて何度も蘇っては、安らぎと苛烈な罪悪感を与えるのだ。
無情にも巡ってきた春が、なぜ彼女を連れてこなかったのだろう。なぜ自分だけが生き延びてしまったのだろう。なぜ、彼女は最期に愛と正義を叫ぶことができたのだろう。
幾つもの『なぜ』――『迷い』は人の心の撓みであるが、それと同時に隙でもある。

陽光は今日も相変わらず街に射し込み、人々にその日一日を生きるに足るだけの希望と安らぎを落として消えていく。夕闇が迫る時間帯になって、彼はようやく店を出た。決まり切った方角へ傾いていく太陽。まるで、人間をせせら笑う様な落暉だ。

いつか、自分がこの舞台の幕を下ろさなければならない。そう、自分の脳天と四肢には未だに見えない糸が絡まっていることを、幸か不幸か彼は自覚していた。その自覚を与えたのは、他でもない彼女である。
誰かのために生きるなんて、おこがましいと思っていた。浅はかで下劣な嗜好だとすら思いこんでいた。しかし、その想いはかけがえのない人間の命と引き換えに否定された。
少なくとも彼女は、自分のために生きてくれた。言葉を残してくれた。想いを遺してくれた。
だから、今度は自分の番なのだ。誰が笑おうが否定しようが、今度は自分が『生きる』のだ。
葉山はそっと腰元に仕舞われた拳銃に触れた。体温を映して多少温まったそれであるが、どこまでも鈍重なその触感に、冷徹さしか感じられない。傷つけ、奪うためだけに存在するものだから。
――凶器なんて、いらなかったんだよ。
残念ながら、その言葉は、守れないかもしれない。戦うためには、どうしたって武器が必要なのだ。弱い自分ならば尚更だ。
戦うためには。
何も弔いのためにここへ来たのではない。彼女が自分と一緒に飲みたがった紅茶の味を知りたかっただけだ。自分は別に紅茶やカフェに特別明るいわけではないし、深い興味があるわけでもなかった。ただ、知りたかったのだ。彼女が知りたかったことならば何でも。自分に伝えたかったことならば何でも。

そう、例えば―――愛と正義。

戦うためには武器が必要だ。しかしそれは諸刃の刀となって自らを傷つけることは容易に想像がつく。果たしてそれを彼女が望むか。と問われれば、答えはNOだ。だがしかし、彼女はこの世界にもう存在しない。自分の意識に内在するのみだ。ならば、自分を守ることが彼女を守ることになりはしないか?
独善かもしれない。しかし独善にすらならない意志に、正義の名を呼ぶ資格はないだろう。命を賭けて守られたものを冒涜するに等しいのだ、ここで逃げだすことは。
自分に課せられた使命であるし、同時に悲願でもある。……この魔都市で生き抜くことは。誰を救うためかという問いは意味を成さない。誰も救われはしないだろう。なぜなら彼女は返ってこない。それだけは今ここで断言できる数少ない事実の一つだ。
もしもこの舞台を彼女が見守っていたとしたら、さぞや嘆き悲しむことだろう。彼女は決して彼の決意を否定はしない。だが、この先彼を待ちうけるであろう波風から、誰も彼を守りはしないのだ。言わずもがな、彼女にも。
暗闇の中で綺羅星を掴むために伸ばす万人の腕が非力なように、盲目的な意志のもとに引かれる引き金に、一体どんな愛や正義が宿るというのだろう。
けれども、もし、そこに一つの答えがあるのならば、抗う余地なく引き寄せられる因果の果てにも灯る何かが在るというのならば、この嘆きは一縷の希望に変わるかもしれない。僅かな、微かな、儚い未来を、信じてみようか。
愚かな選択だと、死神に嗤われても。

彼はそう、決意してしまった。この紅茶の味を知って。あの日味わったただ一回の口づけ――あの血の味と、今日のこの香りが混ざり合わさり、どこか官能的な、それでいて純粋な彼女への思慕を募らせる。
口に出したら破裂しそうだった。だから決して口には出さない。出したところで彼女には届かない。

夕闇迫る街、やがてネオンが騒ぎ出すこの場所に別れを告げるために、彼はゆっくりと席を立った。行き場のない思いだけがカフェの隅に取り残され、それを薫風が密やかに浚っていく。
――まるで、立つ彼を見送る彼女の溜息のように。